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第1話
御師様 は魔法使いだ。
銀の髪に菫色の瞳。すらりとした長身に灰色のローブをまとった姿は、妖精のように美しい。
孤児だった俺を救ってくれた、世界でいちばん大切な人……俺はこの人に拾われて、地方の小さな町で暮らしていた。
魔法使いには、百年に一度巡ってくる重大なお役目がある。
王宮深くに祀られた巨大な月長石 。世界を統べる神様がもたらした貴い石だと伝えられている。
この国では百年に一度、その巨石に魔法使いを『贄 』として捧げることで、あらゆる災厄を鎮め、豊穣の実りを得てきた。
ひとたび月長石の中に囚われると、五年は戻ってこられない。お役目の最中、命を終える魔法使いもいるそうだ。
それでも『贄』となるのは、魔法使いにしかできない偉業だった。
ある年、とうとう御師様に『贄』のお役目が回ってきた。
家の前に黒塗りの馬車が停まる。領主様が自ら、御師様を召し出しに現れたのだ。
「導師エトワール! これより王命に従い、あなたを宮殿までお連れする! この扉を開けられよ!」
俺は扉を背で押さえ、必死で御師様に訴えた。
「こんなの、あんまりだ! 贄になんてならないでください!」
そんな俺を見て、御師様は儚げな笑みを浮かべた。
「……そこをどきなさい。これは王命だ。逆うわけにはいかない」
「贄になったら、御師様はどうなるんですか。……死んじゃうかもしれないんですよ? 俺はそんなの嫌だ。納得できません。一緒に逃げましょう!」
手をとって逃げようとする俺を御師様はやんわりと拒み、贄として身を捧げる道を選んだ。
「ジャン、そんなに悲しまないで。私は必ず戻ってくる」
「嫌だ、いや……行かないで、御師様っ……!」
「きっと君のところに戻ってくるから。さあ、今はただ、お眠り」
とびきり優しい笑顔で御師様は別れを告げた。泣いて懇願する俺に手をかざして、眠りの魔法をかける。
強い眠りにあらがって薄く開けた瞳に映ったのは、罪人のように手枷と首枷を嵌められる御師様の姿だった。
あれから五年と四ヶ月が過ぎた。先月王宮から発表があって、もうすぐ贄の放生式 が執り行われる。
(御師様。俺はここでずっと、あなたを待っています……)
送還された御師様は、ひどく窶 れていた。死んだように眠り続ける御師様の側に、俺は静かに付き添った。
「魔法使いは死にゃしない。おれたち只人 とは出来が違うのさ」
「そうそう。それにあの薄紫の目! おっかなくてブルっちまう。寝ててくれりゃ、ホッとするぜ」
町の人たちは口々にそう言う。安穏とした暮らしができるのはこの人のおかげなのに、あまりに薄情じゃないか。
御師様のために何もできないことが、苦しくてもどかしかった。
月長石に力を吸い取られた魔法使いは、眠ることで少しずつ回復してゆくという。
俺は毎日、御師様の瞳の色に似た秋スミレの花を摘んで、寝台の側の机に飾るようになった。
昔みたいに、御師様の菫色の瞳が、俺を映してくれますようにと。
資材を運ぶ仕事をして日銭を稼ぎ、ハムとパンを買って帰った。
とうに日は暮れている。
扉を開けると、薄暗い部屋の中、御師様が寝台の縁に腰掛けていた。
俺は食料の包みを放り投げ、御師様の膝に抱きついた。
「御師様、目覚めたのですねっ!」
「君は誰だ……私の家で何をしている?」
御師様の声は刺々しかった。虫でも払うように手をぶんぶんと振られて、俺はしかたなく体を離す。
「俺です、ジャンですよ! 背がにょきにょき伸びて髭も生えましたが、五年たてばどんな子供もこうなります。あなたが帰ってくるのをずっと待っていました!」
姫に忠誠を誓う騎士のように、摘んできたばかりの秋スミレの花を差し出す。
が、御師様は受け取らなかった。
「人違いだ。私は君を知らない」
俺を疎ましげに見下ろして、つんと顎を反らす。
「早く出ていってくれ」
うわ。御師様ってこんな冷たい顔もできたんだ。
俺は半ば感動し、半ば愕然とした。
五年ぶりに再会したのに、この態度……ひどすぎる。
「待って待って、待ってください、それでしたら!」
食い下がった俺は、御師様の『お世話役』を買って出た。
そこからどうにかコミュニケーションを重ねて判明したのだが──御師様からは少なくとも、十数年分の記憶が欠落している。
当然、俺を拾い育てた記憶もきれいさっぱり、御師様の中から抜け落ちていた。
起き抜けの御師様が、寝ぼけ眼のまま『お世話役』の俺に訊ねる。
「たばこ屋さんにお鍋を返すべし、という五年前のメモを見つけたんだが、何があった?」
「あー。御師様がたばこ屋さんから留守番を頼まれた際、居眠りして鍋底を焦がしたんです。鍋、弁償しなきゃいけないんですよ」
「…………」
「たばこ屋のじいちゃんは忘れてると思いますけど」
御師様は、「魔法使い、一生の不覚!」と叫んで、銀の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
昔よりも手厳しい、ピリピリした性格に変わってしまったが、失った記憶を補うために俺を必要としてくれる。
それが、とても嬉しい。
「だめですよ。綺麗な御髪が痛みます」
そっと御師様の手をとって、「梳かしましょうか?」と顔を覗き込む。
御師様は仏頂面で俺を見上げた。
「君は……私の目を見て話すんだな」
「すみません。不快でしたか?」
「いや。悪くない」
小さな花が綻ぶような、優しい微笑みだった。心臓がどきりと跳ねる。
今も昔も、美しい菫色の瞳は変わらない。御師様のこんなお顔を拝めるなら、一から関係を築いてゆくのも悪くないと思えた。
「ジャン、あなたいつまで御師様のところにいるの?」
幼馴染のマリーが、渋い顔でやってきた。
「あなたもそろそろ結婚を考える年だわ。家族を作らなきゃ。それが人間の使命だもの」
「マリー、俺は……」
「孤児だった、って言うんでしょ。みんな知ってる。でもあなたはもう立派な一人前の男性よ」
俺は昔、物乞いや盗みをして生きていた。
ある夜、教会から聖像を盗み、売り捌こうとしたところで雷に撃たれた。神罰が降ったと思った。
そこに現れたのが御師様だった。警備隊に突き出されると思って震えていたら、治療を施し、食事を与え、生きる術を教えてくれた。
御師様から教えてもらったことは数え切れない。挨拶や人としての礼儀、読み書き、働くために必要なこと。
俺を人間にしてくれたのは、あの人だ。
「あなたは魔法使いじゃないんだから。そろそろ現実を見て、ジャン」
「……俺には結婚や子供より大事なものがある。御師様だ。御師様が俺を頼ってくれるの、実はすごく嬉しいんだ。只人の俺でも御師様のお役に立てる。こんな生き甲斐、他にないよ」
「あなたなんか、もう知らないっ!」
ぱぁんと頬を打たれた。左の頬がしみじみと痛い。マリーは走って帰ってしまった。
「君は罪作りな子だね」
ぽん、と御師様の手が頭に乗った。
九年前に拾ってもらった時と違い、俺の身長は御師様を軽く超えている。それでも、またこんなふうに撫でてもらえたのが嬉しくて、顔中がじわじわと蕩けていく。
「私も、恋をしたのかな」
御師様がぽつりと呟いた。マリーが去っていった方角を、目を細くして眺めている。
(もしかして御師様、マリーのこと……)
魔法使いが只人を好きになったって、おかしくない。
だったら俺は……俺は、御師様にとって何だろう。
御師様は俺のすべてだけど、俺は御師様の……ただの『お世話役』なのか?
御師様の昔の記憶は、今もほとんど戻らない。
暗い気持ちが、もやもやと胸に広がった。
町での仕事が早めに終わり、俺は森へ向かった。
空が茜色に染まる前に、籠いっぱいのキノコを採りたい。御師様はキノコが好物なのだ。今夜は鍋料理にしようと意気込み、山道を進んだ。
森は秋の色彩できらめいていた。がさりと、前方の草むらが揺れる。鹿か、猪か。
一瞬肝を冷やしたが、こちらに向かってくる気配はない。
身を屈めて様子を窺うと、木々の間を縫うようにして男女の姿が垣間見えた。
おおかた逢い引きだろう。気まずい。
踵を返そうとした時、梢を揺らす風が吹きやんだ。
「じゃあ、ジャンは? ジャンの将来はどうなるの?」
「それはあなたが心配することではない」
切れ切れに耳に届いたのは、聞き慣れたマリーの声。それから、御師様の憂いを含んだ声。
逢い引きの男女は、マリーと御師様だった。
(…………嘘、嘘だ)
目の前がズンと暗くなる。
いつから二人はそういう関係だった?
俺は二人の邪魔者だった?
よろよろと後退ると、ぽきりと小枝を踏んでしまった。音に気づいた御師様が、こちらを振り向く。
俺は咄嗟に背中を向けて駆け出した。
(嫌だ……見たくない、知りたくない……だって、俺は……)
胸がヒリヒリと、爛れたように痛む。それでもひたすら走った。走ることしか思いつかなかった。
家へ帰っても、御師様と合わせる顔がない。俺は二人の邪魔者だ。けれど今さら、どこへ行けというのか?
(……俺は、死ぬまであなたの隣にいるんだって……ずっと、ずっと、そう思ってた!)
へとへとになって町へ戻る頃には、とっぷりと日が暮れていた。角を曲がろうとして、対面から歩いてきた人と肩がぶつかった。
「すみません」
なおざりに謝って通り過ぎようとしたが、肩をぶつけた人物がぐっと俺の袖を掴んだ。
「ジャン」
御師様だった。
御師様はマリーと所帯を持つんだろうか。
「どうしてマリーなんですか。二人が好き合ってたなんて、俺は、知らなかった」
「早とちりするな。今日はあのお嬢さんにお願いしてきたんだ。私から君を取り上げないでと」
「え……?」
御師様がにっこりと頷く。懐から古びた帳面を取り出し、ぱらぱらと開いてみせた。
「魔法使いは、自分の年齢を忘れないよう、記録をつけながら暮らすんだ。少しでも人らしく生きたいからね。私も記録を残していた。手記によると、石の中で力尽きてもおかしくなかったらしい。それなのに自分の家で目を覚ました。驚いたよ、なぜ命を繋げたのかと」
手記に書かれていたのは、俺のことばかりだった。
『ジャンが苦手な野菜を克服した。たくさん褒めた』
『ジャンが本を一冊、読破した。聡い子だ。どんどん成長していく』
『ジャンが秋スミレの花をくれた。押し花にしよう。私を怖がらないのはこの子だけだ』
『ジャンに女の子の友達ができた。嬉しいはずなのに喜べない。こんな気持ち、初めてだ』
『贄の番がくる。ジャンを残しては逝けない。私の宝物。ジャンの元へ必ず戻る。命以外のすべてを石へ捧げよう』
最後の記述に、俺は目を見開いた。別れ際、御師様はたしかに約束したのだ。
『必ず戻ってくる』と。
「これほど愛おしい記憶を失っても、生きて帰ろうとした」
「御師様……」
「ジャンが居たからだ。私は、君に会いたくてたまらなかったんだね」
「御師様、御師様っ……!」
薄い胸に飛び込むと、華奢な腕がそっと包み込むように抱き止めてくれた。
「記憶は戻らないままだけど──また、君に会えた」
熱いものが次々にあふれて、幼な子のようにしゃくりあげる。
「忘れてしまっても、きっと何度でも、私は君に恋をするんだろうな。ねえ、ジャン……君は永遠に私の初恋だよ」
澄んだ菫の瞳が、まっすぐ俺を映していた。
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