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本編

     冬の冴えた空気に冷やされた指先が、痛いほどに悴む。乾燥したらいやだな。そんな女々しいことを、つい思ってしまう。無意識に人差し指で親指の爪の付け根を撫でるように慰める。こんなことをする原因になった一人の男は、人柄は指先でわかりますなどと、手相占いを営む爺様みたいなことを言っていた。  その人に触れてもらえるのは月に一回。今日がその日だ。疲れた手をしてますねなんて笑われたから、ハンドクリームだって買った。花みたいな香りが多くて、男が使えそうな無香料のものを探すのに骨が折れた。そんな必死になってと笑ってほしいけど、ひけらかすような性格じゃないから口にはしないが。    ポケットに手を突っ込む。手を温めておかないと、寒さで余計に手荒れが目立ってしまうのだ。せっかく触れられるのなら、少しでもコンディションを整えておきたい。そう思って、手のコンディションってなんだよと思い直してちょっとだけ笑えた。    ああ、これはきっと楽しみという気持ちだ。友人というのも違う気がする。この関係をわかりやすく言うと客と店員なのだけど、それもなんだか味気ない。思考の坩堝にハマりそうで、考えるのはやめる。  流れていく景色、窓越しに映った自分を見て、なんとなく気に食わなくて前髪を直した。 「営業成績が悪いのは、お前の手が荒れているせいだ。先方は靴下まで見て品定めをしてくるぞ。会社を背負う覚悟で名刺を渡すお前の手がそんな皸だらけだと、そういう目で見られちまうぞ。」    数ヶ月前。出会いのきっかけを作った嫌味な上司は、そう言って僕の前で大演説をかましてくれた。   「いいか、お前だけじゃない。もしかしてこの会社は、社員の手をここまで荒れさせるほどの仕事量なのかしら、てな具合に合コンだってうまくいかんかもしれん。お前が三十路にもなって結婚してないのも、出会いがないのもそのせいかもしれんぞ。」 「…そうでしょうか。」  覇気がないなあ冴羽は。そう言って、少し上からポイポイ投げるように降ってくる言葉を身に受ける。僕に覇気がないのは根暗なせいだし、営業成績が悪いのはその根暗からくるものだから仕方がないじゃないか。   文具を扱う小さな会社だ。インドアだから、事務でほそぼそと働けたらいいなあと安易な気持ちで面接を受けた。表向きな性格ではないし、顔に笑顔を貼り付けて外回りなんてとんでもない。人手が足りないから、手伝ってくれと言われてやる羽目になったときも、元の一般職に戻る前提で受けたのだ。 「手がなあ、前から思ってたんだけど、爺さんみたいにカッサカサだろう。」  そんなことを言われて、徐に自分の手を見つめた。この時期になるといつもこうだ。寒さが乾燥を運んでくる。僕の手は突き出た骨の部分が白く乾き、ひび割れが走って赤い肉が見えていた。ニットを着るにも引っかかる。なんとも生き辛い季節だと諦めている原因の一つでもあった。 「爪もな、栄養が足りてねえ。割れちまってるし。お前、女見てえにとは言わねえけどよ、ちっとは自分に気ぃつかえ。な、悪いことは言わねえから。」 「それは、つまりクリームとかで治す感じですか。」 「そんなもん知るか。女に聞け。」 「えぇ…」    無責任に、そんなことを言われる。めんどうくさい。そんな顔が出てしまっていたようで、そこからきちんとケアをしに行くと言うまで10分間の延長戦になってしまった。折角の休みを利用して行くのも嫌だった。なので、金曜日の夜。飲み会に誘われないことなど分かっていたので、その日の夜を選ぶ。  早く帰って寝たいから、住んでいる駅の近くでネットを駆使して調べたその店は、とあるマンションの一室を使って営業していた。    もしかして、綺麗なお姉さんが僕を待っていてくれたりするのだろうか。そんな拗らせた童貞のようなことを考えて、それは流石にないだろうと自分で思い直して呆れてしまった。悲しいことに、女性に手をケアされると想像するだけで、こんなにもそわりとしてしまうほどに、僕はそう言ったことに耐性がなかった。   「え。」    思わず母音が口から溢れ出た。僕の中のイメージからかけ離れていたのは、やけにこざっぱりした店内だけではなく、出迎えてくれたのが男性だったと言うのも驚きの一つであった。 「こんばんは、お仕事帰りに来てくださったんですか?」 「あ、ああ、はい、…男性なんですね。」 「ええ、サロンのホームページにも記載させていただいてますが、」 「あ、や、そうですよね。うん、はは、」    しくじった。全く見ないで来てしまった。サイトは知っている。適当に検索をして予約したのがバレてしまったようで、急に後ろめたさを感じる。それでもその男は気にした様子もなく、柔和な笑みを浮かべてどうぞと席を進めてくれた。  細長い机を挟んで、面と向かって男と座る。心なしか面接を受けているような気分になってしまい、少しだけ背筋が伸びた。   「どうぞ。そんな緊張されなくても、とって喰ったりなんかしませんよ。」 「あ、あはは…」    そう言って、手指の消毒を行ったのち、バーガンディ色の暖かな蒸しタオルで手を包まれた。程よい指圧で行われるハンドマッサージ。思えば下心ありきの握手しか最近はしてこなかった。こうして蒸しタオルを隔てているとはいえ、綺麗な手に己の汚れを拭ってもらっているような、そんな感覚になる。割れた爪先が繊維に引っかかることもなく優しく清拭を終えると、じんわりと指先にまで熱が通った。なんだかほう、としてしまった。血色の悪い、ペンだこだらけの指先は変わらないが、それでも少しだけ気分は上向きになった。そっと割れた爪先を確かめるように手を取られる。親指の隅、労わるようなそんな手つきで指の腹で撫でられる。   「爪先は乾燥すると割れやすくなってしまうんです。オイルで保湿したり、ベースコートで保護してあげたりは自宅でもできますよ。」  薬局でも売ってますしね。そう簡単に言われたけれど、男がいそいそと近場のドラッグストアでケア用品を買うのはなんとなくいやだ。そんなことを考えているのがバレたらしい。その人は小さく笑うと、名称もわからない器具を使いながら、淡々と処理をしていく。なんだか黙っていたほうがいいような気がして、無意識に息をつめて見つめてしまっていたようだ。堪えきれないと言った様子で俯いたかと思えば、口元を緩ませた顔を向けられた。   「そんなに緊張しなくても…。逆にやりづらいな。」 「あ、や、黙ってたほうがいいかなって。」 「なんで貴方が気を使うんですか。普通に気楽にしててくださいよ。雑談しながらでも出来ますから。」    あはは、と笑う。なんだかそれが気恥ずかしくて思わず閉口してしまった。そんなこと言ったって、雑談なんてそうそう出てくるものではないのに。  カチコチと時計の針が進む音が聞こえる。手持ち無沙汰にちろりと見回した部屋に住んでいる様子はなくて、仕事場として借りているのだろうことがわかった。自分の手の主導権を明け渡しているその人のネームプレートには、佐伯の文字が書いてある。僕の苗字と一字しか違わないなあと思った。   「苗字、一字違いですね。」 「えっ。」 「え、あ。今の気持ち悪かったですか?」 「あ、いや…同じこと思って…や、僕のが気持ち悪いですよね…、」    いつもの癖で、誤魔化そうとしてメガネに触れようとしたけれど、その手は佐伯さんによって握られたままだった。ずれたメガネが気持ち悪い。変な空気にはしたくなくて、どうしようと逡巡していた時だった。   「冴羽さんって、苗字かっこいいですよね。」  気を使ってくれたのだろうか。佐伯さんはそういうと、僕が恐れていた妙な間も起こらないまま施術を続けた。気の利いた一言を返せればよかったのだが、うまく出てこないままぺこりと頭を下げる。しかしそれが面白かったらしい、佐伯さんは噛み殺したように小さく笑ってくれた。  そんな彼の手で、ささくれが目立った指先も、歪だった爪先も、ざらついていた表面も、まるで魔法にかかったかのようにどんどんと綺麗になっていく。気がつけば自分の手は見違えるほどの仕上がりで、思わず親指同士をくっつけて掲げてしまうくらいにはまじまじと見つめてしまった。   「働き者の手だなあって思いました。」  使用していた、名称もわからないような器具を片しながら、そんなことを言われた。 「え?」 「冴羽さん口数少ないけど、手はおしゃべりでしたよ。」 「ええ?」    初対面なのに。どうせ営業トークだろう。そうわかっていても、なんだか少しだけ自分を肯定された気分になってしまった。   「手相占いの爺さんみたいなこと言うって、思いました?」 「…少し。」 「労ってあげてください。まあ、面倒じゃなければ労らせてください。」 「ふふ、…あ。いや、すんませ…」 「いや、そこは笑いきってくれたほうが俺的にはよかったかなあ。」    照れ臭そうに、男相手にそんなことを言うのが面白い。未だ己の手の主導権は握られたまま、まるで仕返しのようになんだかいい香りのするオイルを塗られている。ほのかな桃の香りがして、それが余計に自分に似合わなさすぎて笑えた。   「いい仕事させてもらいました。」 「それ、自分で言っちゃうんですね。」 「冴羽さんはやっと打ち解けてくれましたね。」    自分が今どんな顔をしているのかはわからない。だけど気分は正直に上がっていて、もう緊張感もない。初対面なのに見事にスルリとパーソナルスペースを埋めてきた佐伯さんは、なんだか自分よりもすごく大人だった。   「なんか、メンタルケアまでされた気分です。少し、落ち込んでたんで。」 「ああ、随分暗い人が来たなあと思ったんですよ。」 「ひど、」    まるで親しい友人の他愛のないやりとりのような掛け合いが楽しい。忘れかけていたその感覚を思い出したその日から、月に一度のそのやり取りを心待ちにしている自分がいた。    別に深い意味なんてないけれど、あの日から毎回仕上げに使われるネイルオイルの桃の香りが頭から離れない。  電車が止まって、降りる駅に着いた。夜に予約をするせいか、施術が終わった後は少しだけお話をする。友人のような他愛のない話もすれば、仕事の話も。ついには手土産を買ってしまうくらいには、少しでもよく見られたいと思ってしまっていた。  口下手で、人とうまく話せないんです。そう言ってからは、ネイルケアをしてもらっている時間を使って、少しずつ自分のことを話す練習を始めている。   「いらっしゃい。あ、お帰りの方がいい?」 「いらっしゃいでいい。」    そんなサービスしなくていいとも続けると、今日もお疲れ様と笑われた。施術が始まって、僕の話をしてくれと言われる。相槌や同意が嬉しい。自分が楽しくなってしまうと早口になるだなんて、知らなかった。これも佐伯さんが気づかせてくれたことだ。   「冴羽さん、きちんとケアしてくれてるんだね。」 「男の手、触らせてるから。」 「俺も男の手だよ。」    そう言われて、今まで気にしてなかったはずなのに、急にその胸の中のほわほわが輪郭を持った。男の手だよ。その言葉に気の利いた返しをしたいのに、今間に合わせで適当に口にしてしまったら、きっととんでもないことを口にしてしまいそうだ。   「何それ、それってどんな表情?」 「…わかんない。」    わかるのは、ホワホワだったものが口から出そうなことくらいだ。口を真一文字に引き結ぶ。その顔が面白かったらしい。ひとしきり笑われた。   「いいよ、また今度冴羽さんの口から言ってもらうから。」 「うーん…、」 「好きなこと話していい時間だって言ったでしょ。」 「うん、」    指の合間を行き来する。少しだけ節ばった佐伯さんの指。やだな。思春期みたいですごくいやだ。じんわりとして、疼痛のようなものも感じる。佐伯さんが使う桃のオイルが甘く香って、なんだか少しだけ喉が乾いた。そのオイルを、唇にも塗ってくれないだろうか。そんなことを思って、また唇を引き結ぶ。   「こんなにも冴羽さんの手はお喋りなのにね。」    以前よりもマシになった手を優しくマッサージされる。僕はただ、今日も変わらず手の主導権を明け渡したまま、ゆっくりとバレないように深く息を吸う。時計の針がカチコチと鳴る音を聞きながら、初めてこの時間が早く終わればいいのにと思った。    

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