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(2)  精彩を欠いた田舎町を熱狂させた銀夕座は今日、次の巡業へと旅立つ。思ったよりもずっと長い逗留になったのは、僕の焼いた卵焼きの味が団員のお気に召したからだと冗談めかしに噂された。 「穀潰しかと思っていたけど、毎日活気立っていたのはあんたのおかげだったみたいだね」  そう言って、祖母は鶯豆を甘く煮込んだ。僕の好物であった。銀夕座の面々が摂る最後の朝食ということで、小鉢の数もいつもの三倍以上あった。僕の拵えた卵焼きには焦げひとつ見当たらない。ただひたすらに恋しか感じていなかったが、どうやら宿の手伝いとしての腕も多少は上がっていたようだ。  回廊は相変わらず目を離した隙に一瞬で食事を平らげた。けれど、卵焼きだけは名残り惜しかったのか、何度かに分けて食べていて、それがひどくうれしく、完璧に死を忘れた僕のこころをとろとろに溶かした。  まいにちまいにち、夕立が街を赤く染める。けれど今日は赤光が街を灼こうと銀夕座は幕を上げない。ショータイムはもう終わりなのだ。  蒸れた海風が午前中の眩い光を縁側に運び、湿気った廊下は珍しく乾いていた。回廊の袖が撫でた箇所を指でなぞり、膝に額を押し付けて座った。寂しくて寂しくて、涙がズボンの色を局所的に濃くするのを止められない。 「かなしい?」  不明瞭な声。低くて、水底でとぐろを巻いているような声音。 「かなしい。さびしい」  顔を伏せたまま涙を零すと、視線の先でたなびいていた黄竜の刺繍が波立った。回廊がしゃがんで僕の頭を撫でた。慰められている事実に胸が破裂しそうになる。 「連れて行こうか」  予想していなかった言葉に顔を上げると、泣き腫らしたせいで細まった視界に回廊の金色が光った。目尻の垂れた隈取り。彼の多大な葛藤を窺わせる隈取り。けれど口角の隈取りは上向いていて、内心の期待を隠せていない。人間ではないからこそわかりやすい。仮面だからこそ隠せない。  僕は涙を乱雑に拭いて、濡れたままの指で回廊の袖を摘んだ。どこに連れていかれるかなんて分かるはずもない。人間の住む場所ではないのかもしれない。それでも回廊に導かれるのならかまわなかった。どうせ死を希っていたのだから、この命は救い上げてくれた回廊のものだ。はじめての恋を植え付けられた化け物に拐かされるのなら、それは本望としかいえない。    *   *   *  以上が、従兄弟が遺した手記に記されていた文章の一部を再構成したものだ。彼が失踪したのはたったの数年前なのだが、押し入れから発見されたこの手記は幾星霜の時間を旅したのかと疑ってしまうほどに朽ちていて、判別できない箇所があまりにも多すぎた。断片から察するに、従兄弟は変面師に魅入られ、そして拐かされたらしい。荒唐無稽ではあるものの、たしかに彼の実家が営む民宿に一月ほど流れの雑技団が逗留していた事実を確認することができた。人に馴染めず長く引きこもっていた従兄弟が失踪する直前、随分と熱心に経営を手伝っていたことも確認が取れている。しかし、好奇心に駆られ何度も入念に調べ直したが、銀夕座に『回廊』なる芸名の団員は在籍しておらず、あまつさえ変面師すら雇っていないというのだ。従兄弟ははたして何に魅入られ、生に挫折したこころを何に絆していたのか。  私は何度も繰り返し読み込んだ手記を閉じ、元あった箇所、押入れの隅の暗がりに押し込んだ。  触れてはいけないもの、引き戻してはいけないもの。初恋というのは往々にしてそういうものだ。従兄弟はたしかに、人生ではじめて、溌剌とした笑顔と生命力を民宿に遺し、そして恋を捧げた魔物とともに旅立った。  ふと顔を上げると、締め切った磨りガラスが紅く燃えていた。激しい夕立。なにかを隠したがっているふうに思えてならず、私はそっと埃っぽいカーテンを閉めた。きっとこの夕立が上がると、赤光が街を満たすのだ。

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