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教室の向こう、君に恋。
丸い氷の浮かぶ、琥珀色の液体の中に、くるくるっと巻かれたマーマレードの一筋。
低めのロックグラスから、滲み出た細かい水滴は、白い指先になぞられて、厚めのコースターに吸い取られて行った。
夜にざわめく店内で、俺の隣に座る、──美しい人。
俺の平たい爪のついた指とは違う、美しい指先がすーっと誘うように、グラスの縁を滑った。それだけで、なんの意味もない、たったそれだけの仕草で、まるで中学生のように、俺の心臓はあからさまに跳ねた。
じっと見ている俺に気がついたのか、ん?と、首を傾けた拍子に、さらりと色素の薄い髪が揺れる。綺麗な曲線を描いたアーモンド型の瞳に、カウンターの蝋燭の灯りが映りこんで、夜の色に、きらめいた。
その美しい双眸だけが、すっと柔らかく細まる。
どんっと、心臓を叩かれたみたいな衝動に押されて、口からその名前が、──溢れた。
「白石」
そう、名前を口にするだけで、高校生の時の、あの、放課後の教室の風が吹き抜けて行った。
同じ教室にいながらも、言葉を交わしたことなんて、ろくになかった。俺はいつも部活の連中とばかみたいに騒いでて、白石はいつも、ピンとした姿勢で、本を読んでた。
隣の席になったときもあった。机につっ伏して寝たふりをしながら、本のページをめくる音に耳を澄ませて、きれいな白石の指を想像した。それでも、言葉は交わさずに、だけど何故か、視線は、よくぶつかった。
こうして七年ぶりに、また、視線が重なったのは、奇跡みたいなことだった。目が合うと、気恥ずかしそうにしていた高校生の白石は、あの頃よりも大人びた顔で、今、俺の前で、やっぱり困ったように笑っていた。
きちっとアイロンのかかった白いシャツが、薄暗い店の中で、やけに眩しい。白石の周りだけが、まるで世界が違うみたいに見えた。
元から接点のない同級生だ。あれから、──あの日から、白石がどんな日々を過ごしてきたのか、俺は知らなかった。
白石に会ったのは、偶然だった。
直帰するつもりで、取引先の近くで、遅すぎる昼飯を食っていたら、歯が欠けた。駆けこんだ近くの歯医者。しらいし歯科っていう響きが「白石千佳 」みたいだな、なんてばかみたいなこと思ってたら、本当に白衣を着た白石が出てきた。
驚きすぎると、本当に体が固まるのか、と知る。
同じように驚いた顔で固まっているマスク姿の白石は、凛とした姿も、その人を寄せつけない、触れたら壊れそうな美しさも、何も変わってなかったけど、少し大人びた顔で、「ひさしぶり」と言って、微笑んだ。
俺の時は、そこで止まった。
呆然とする俺に、歯科助手の女性が着席を促し、ぷしゅっと水をかけられたり、しゅぼぼっと唾液を吸い取られたりしながら、ようやく、少しずつ思考が戻る。俺の口の中を見つめている白石の、マスクで隠された顔を、その色素の薄い瞳をじっと見ながら、眩しい歯科の照明の中で、俺は、あの日のことを、──思い出していた。
麻酔で痺れた俺の口は、綿で包まれてるみたいな、変な感覚しかなかった。でも、白石の薄い手袋に包まれた指が、そっと、前歯を撫でたような、そんな、気がした。
あの日。
──高校の卒業式まで、後少しという日だった。
引退しても部活に顔を出していた俺は、誰もいない放課後の教室で、白石を見つけた。
窓際の前から三番目。
俺の机に軽く腰掛けて、白石は俺の机の上をぼんやりと、眺めていた。机に、恥ずかしい落書きをしたばかりだったことを思い出し、なんでもいいから、声をかけようとした、その時。
美しい指先が、机の落書きの辺りを撫で、それから、──ふわっと、まるで愛しい人でも見るみたいに、白石は笑った。
心臓を、素手で掴まれたみたいな、衝撃が走った。
瞬間、──春を呼ぶ強い風が、ぶわっと教室に吹きこんだ。
その風と一緒に、俺の心の中の衝動は、舞い上がるカーテンみたいに大きく広がり、──小走りに、俺を走り出させた。窓際の、白石のところまで。
突然響いた足音に、えっ、と驚いた顔をしている白石の手をぎゅっと引き寄せ、そして、──。
唇に、ふにっと柔らかい感触があった。
それから、すぐに、かちっと歯が当たる音。
気づけば、俺は白石の手にぎゅっと指を絡ませたまま、唇を重ねていた。
びっくりして目を丸くした、初めて見る白石の顔があった。どっどっどっど、と、心臓は、その頃聴いてたパンクロックのドラムみたいに、爆音で鳴り響いていた。全身を血と鼓動が巡り、繋いだ指先が、びりびりと電流が走ったみたいに痺れた。
告白も、何もかもをすっ飛ばして、走り抜けたのはただの衝動。
それこそ本当に、パンクロックのひたすら速い展開と速度で、俺の気持ちは、心は、一気に白石に向かって突き抜けた。
ちゅ、と濡れた音が、教室に響いた。
白石のさらっとした髪が、春の風に揺れていた。顔に熱が集まる。はく、と声にならない声が口から漏れた。
たった一度の、触れるだけの拙いキス。
それは、ようやく、──俺に、初めての恋心を自覚させた。
(あ……俺、白石のこと…)
突然、胸に広がった恋心は、俺を動揺させるのには、十分すぎる衝撃だった。
目を瞬かせている白石の顔も、俺に釣られて、段々と朱に染まる。
その姿が、きれいで、すごくきれいで、ぶわっと体温が一気に上がった。そのまま俺たちは、しばらく、言葉もなかった。
だけど、──
まっ赤になってしまった俺は、「ご、ごめん!」と慌てて、そのままその場から、逃げ出したのだった。逃げていく俺を見て、白石がどう思ったのかはわからなかった。ただ、走り去る俺の頭の中では、いろんなことが渦巻いていた。
赤くなった白石がかわいすぎたこと、でも、白石が男だってこと、これからどうするんだとか、謝って許されるのかとか、いろんな、いろんなことが、ぐるぐる、ぐるぐると、巡っていた。
でも、卒業までの数日間、俺たちの視線は、一度も絡まなかった。自分でしでかしたことだったのに、嫌われたと思って、泣きそうだった。というか、泣いた。
そして、その数日後の卒業式を境に、俺は、その回り続ける思考からすらも、逃げ出したのだった。
──それから、七年。
この年齢で開業をしているのかと不思議に思って、きょろきょろ辺りを見回していたら、叔父のところで働いているのだと教えてくれた。だとすれば、まだ働き始めてそう、時間も経っていないはずだった。
奇跡だと思った。
俺は生まれてはじめて、歯を欠けさせた唐揚げに感謝した。
麻酔の効いた、だらしのない口元のまま、気づけば、飲みに誘っていた。マスクをした白石の顔は、あまり表情が読み取れなくて、どう思ってるのかはよくわからなかったけど、今日は俺で診察は終わりだと聞いて、また、奇跡だと、こっそり思った。
白石も昼が遅かったらしくて、その辺のバーに入った。
卒業してから、どんなことをして、今、何してるのか、知らない時間が埋まり始めた頃には、もうすっかり夜になっていた。高校時代は、話したこともなかったのに、はじめてちゃんと話した白石は聞き上手で、楽しそうに笑ってくれて、俺は調子に乗って、何杯も酒を飲みながら、たくさん話した。
酔いが回ってきた頃、ようやく、俺は言いたかったことを、口にすることができた。酒の力もある。
「あのさ…あの時、キス…して、ごめん。ずっと、謝りたかった」
「……………ああ、うん。別に、…大丈夫だよ。あの時、宮原の落書き見つけた時だったから、びっくりした、けど」
落書き、と言われて、ぶわわ、と顔に熱が集まる。やっぱりあの時、あの机の落書きは白石に見られていたのか、と、俺は片手を顔に当て、カウンターに沈んだ。
「はずかしすぎる……」
「ふふ。宮原に愛される人は、幸せだなって思ったよ。その人のことが、…ちょっと、羨ましかった」
「え?」
指の隙間から、綺麗に微笑む白石の顔を覗いて、どき、どき、と心臓がまた高鳴る。そんな俺になんか気がつくわけもなく、白石は、手にしたロックグラスに唇をつけながら、伏し目がちに言った。
「宮原。俺、ゲイなんだよ。だから、キスのことも気にしないで。実はさ…宮原のこと、初恋だったから、ちょっと、嬉しかったんだ。いい思い出っていうか、思い出すと、きゅんとする」
音を立てずに、すっとコースターの上に戻ってきたグラス。
俺の頭が、その言葉を理解するよりも先に、白石の指が、小さく、震えた。
驚きながら、白石の顔を見る。緊張したような表情で、きゅっと唇を結んでいる白石を見て、思わず、はっと息を飲んだ。沈黙に負けて、ずる、ずる、と少しずつグラスから離れたきれいな手が、カウンターから、落ちようとしてた。
俺は、ぎゅっと、その白い手を、上から握りしめた。ぴくっと白石が震えた。
高校の時、よく聴いてたバンドの曲がやたらと愛を説いてくるから、俺も、それがどんな気持ちなんだろうって、書いてみた。それだけの落書きだった。書いてみた文句は、本当に、ただのなんの変哲もない言葉で、稚拙で、恥ずかしい、若気の至り。
でも、それは高校生の俺の願望で、それから、憧れだった。
──好きな人を、愛してみたい──
恥ずかしくも、じわっと手に汗が滲む。
高校の時は、伝えることなんて、できなかった。声をかけることすら、できなかった。ちゃんと謝るまでに、七年もかかってしまった。俺は、本当に、子供だった。どくどく、と心臓が鳴る。でも、今は、──。
カウンターに伏せたまま、窺うように白石の顔を覗く。
「──口説いても、いい?」
その言葉を聞いて、白石が目を瞬かせる。かああっと、白石の肌に朱が差した。
あの日の、あの時の、白石を、思い出した。俺のドラムみたいな爆音の鼓動は、きっとあの時と同じように、握った手から、伝い漏れてしまっているはずだった。
白石の眉がへにゃっと下がるのがわかった。
「そんな聞き方…ずるい」
そう言った白石の目に、涙が浮かんでいて、その無防備な表情に、その美しさに、ハッとする。
あの時、伝えられなかった俺の衝動が、想いが、溢れた。
抱きしめたくて、抱きしめたくて、ぐっとその気持ちを無理やり押さえこんで、代わりに、ぎゅっともう一度手を握る。尋常じゃない速さで脈打つ心臓を感じながら、きれいな耳元で、そっと囁いた。
「──俺も、初恋、だった…から」
肩を震わせた白石の顔が、薄暗い店内でもわかるほど、ぶわわとまっ赤になっていく。唇を噛みしめ、泣きそうな顔で、伝えられたその後の言葉を聞いて、俺はもう、走り出してしまいそうだった。
「俺も、嘘。本当は、ずっと。──ずっと、宮原のこと…忘れられなかった」
三月の夜風に、ぐんと背中を押されたような気になって、白石の手を掴み、もうすっかり暗くなった公園にそのまま駆け出した。そして、その愛おしい人を、ぎゅううっと抱きしめる。もう我慢なんて、できるわけがなかった。好きで、好きで、どうして七年も我慢できていたのか、わからなかった。
「好き。白石、好きだ」
「っっ……み、宮原」
清潔そうな匂い。白石の柔らかな体温が俺の腕の中にある、幸せ。
肩越しに伝わる白石の戸惑いごと、全部、抱きしめていたかった。腕の中の白石の長いまつ毛が、不安げに俺の方を向いた。夜の風に、さらさらと揺れる白石の髪を指で掬いながら、さっき白石が羨ましかったって言ってたことを、思い出した。そして、噛みしめるように、言った。
「──幸せに、するよ」
全速力で走るだけだった、あの頃の俺とは違う。愛おしい存在を、幸せにしたいと願えるくらいには、少しだけ、大人になっていた。
俺のシャツを、きゅっと確かめるように掴む、震える指が愛おしい。涙を浮かべた白石が言った。
「好き」
ぶわっと胸に広がったのは、あの教室の、春の風。
いつだって大人びて見えた白石とは違う、泣きそうな顔。
記憶の中のカーテンが舞い上がり、パンクロックのドラムの速さで、心の中の高校生の俺は、逸る気持ちのまま駆け出した。想いは、夜の空へと、突き抜けるほどに。
掬うように顔を傾ける。重なる心臓の音。ふるりと、白石の長いまつ毛が揺れた。
あの時と同じ、柔らかい感触が唇に触れる。
俺たちの歯は、ぶつからなかった。
泣きそうな白石の顔を見て、俺も、きっと、そんな顔をしてるんだろうなと思う。
今年の春を運んでくる風が、俺たちの横を、ぶわっと吹き抜けて行った。
夜の灯りに重なり合った影が交わる。
──もう、きっと、ずっと。
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