1 / 1
臆病者と、春の風。
「ご、ごめん!」
春を呼ぶ風が教室のカーテンを大きく揺らした。
まっ赤になった大好きな人が、そう言って、駆け出して行った。
いつだって爽やかな笑顔で、口を大きく開けて笑う彼の、その後ろ姿を見送りながら、俺は呆然と教室に立ち尽くした。どうしてこんなことになったんだろう、今のはなんだったんだろう、いろんな疑問が、頭を巡った。
その一瞬の、夢みたいな出来事に、どっどっどっどと、心臓が激しく音を立てた。
高校の卒業式を目前にした、放課後の、ことだった。
──俺は人生で、はじめてのキスをした。
ピピピピッ ピピピピッ
無機質なアラームの音で、ゆっくりと、目を覚ました。
叔父の歯科クリニックで働きはじめて、早一年。順調に、経験を積んで行っていると思う。独身である叔父は、元より、俺にクリニックを継がせるつもりなのだ。気ままな一人暮らし、自由の効く職種、恵まれた環境。俺の人生は、まあまあ、良好。
上半身だけを起こしたまま、久しぶりに見た、高校の時の夢に想いを馳せる。
(……赤くなった宮原、かわいかったな…)
三年間、ろくに言葉を交わしたこともなかった同級生。だけど、視線だけは、よくぶつかった。
教室でぼんやりとしていたあの放課後、宮原は、なぜか、俺にキスをした。ふにっと柔らかい唇が触れる感触、それから、ガチッと当たった前歯の音。
赤くなったまま逃げ出した宮原が、何を考えて、俺にキスをしたのかってことは、今となってはわからない。いつも友達に囲まれていた彼のことだ。もしかしたら、罰ゲームとかだったのかもしれない。でも、──。
たった一度の、あの触れるだけのキスは、いつまでも俺の潜在意識の中に、ずっと、ずっと残っていて、たまに、こうして夢として浮上しては、あのまま、宮原に告白されて、付き合う夢を見せるのだ。
初恋というものは、優しく、淡く、美しく、そして、──苦い。
それはいつまでも叶わないくせに、叶えようとも思わないのに、甘く心を惑わせて止まない。儚く、淡い、あの頃の夢は、いつまでも心の中で色褪せない。
人見知りで、いつも一人でいた自分とは違う。憧れの人だった。いつもその楽しそうな会話に耳を澄ませては、聞こえてくる宮原の笑い声に、きゅうっと心臓を締めつけられていた。
もしもあの時、呼び止めていたら、もしもあの後、話しかけてみたら、と、不毛な『もしも』ばかりが、浮いては消え、消えては浮き上がって、大人になった今でも、たまに考えてしまう。
(きっと、かっこよく…なってるんだろうな)
あの、人を惹きつける天性の魅力は、あの爽やかな笑顔は、大学でも、どこかの会社でも、周りが放っておくはずなんてなかった。
打ちっぱなしの壁に設置した、ウォーターサーバーで白湯を作って飲みながら、そんなことを思うのだ。
コトンと、グラスをダイニングテーブルに置く。
(ま、いい思い出。今の俺には、関係のないことだけど。)
←↑→↓←↑→
「え?新規で。あ、はい。大丈夫です」
歯科助手の嶋さんが、もう一件診てもらえないかと、受話器を片手に尋ねてきた。どうやら食事中に歯が欠けたらしい。多分、詰めてたものが取れたとか、そういうことだと思うけど、すぐに来るというので待機することになった。随分と中途半端な時間にご飯を食べているんだな、なんて、どうでもいいことを考えて、自分もさっきサンドイッチを摘んだところだったのを思い出した。
フロントの扉がウィーンと開く音がして、患者さんは、本当に近くにいたんだなと知る。
しばらくして「どうぞ、お入り下さい」と、嶋さんの声が聞こえたので、振り返った瞬間、──。
俺の時は止まった。
俺の目の前には、今朝夢で見たばっかりの宮原、──の七年後の姿が、びっくりした顔で、ピシッとしたスーツを着て、立っていた。あれ、また夢かな?と、漫画のように、ごしっと目を擦ってみたけど、目の前の光景に変化はなかった。ぎこちない笑顔で、「ひさしぶり」と言ってみたけど、宮原からは返事がなく、気まずさが胸に広がった。
沈黙を遮るように「はいはい、こちらに〜」と、嶋さんに促されて、呆然とした顔のまま、宮原は診察台に座った。
思考は四方八方に、ばらばらに散らばったまま、俺の心には、嵐が吹き荒れていた。
(え?!……なっ?!)
幸い、そのおかしな表情の大半を、大きなマスクが隠してくれていたことが、救いだった。さっきの宮原の表情から、俺が同級生の白石千佳 であることは、きっと、気がついているとは思った。
できるだけ淡々と症状を伝え、治療内容を伝え、震える手で治療をしながら、頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。まるであの教室に戻ってしまったみたいに、心臓が破裂しそうなまでに、大きく膨らんで、どくどくと血を送り出していた。
麻酔が効いてて、わからなかったと思うけど、そっとその前歯に触れてしまって、自分でどきっとした。
「あのさ、白石。飲み…行かない?」
「えっ」
宮原にそう言われて、内心、心臓が止まるほど驚いていた。
治療を終えて、これでまた、宮原とは会うことなんてないだろうなと思いながら、あの走って行ってしまった宮原の、後ろ姿を思い出していた。それから、追いかけることができなかった、臆病者の、自分のことも。
白石、と名前を呼ばれるだけで、高校生に戻ってしまった気分だ。宮原の声で呼ばれる自分の名前は、特別な響きを以って、俺の心臓を撃ち抜いた。
嬉しくて、嬉しくて、胸に広がる逸る気持ちに、ぐっとブレーキをかける。
(ただ、飲みに誘われただけ。ただ、飲みに誘われただけ)
答えを待つ宮原にじっと見つめられて、それだけで、心臓が中学生みたいに、あからさまに跳ねる。ゴム手袋を外しながら、締め作業があるからと伝えると、宮原は待合室で待ってると言った。誰が待ってるのかを考えると、ペンを持つ手が震えて、作業は難航した。
ゲイの自分とは違うのだ。
宮原が、そういうつもりで誘っているわけではないってことは、理解してた。それでも、どんなところに行くんだろう、どんな話をするんだろう、自分は上手く取り繕えるだろうか、って、いろんなことが頭の中を巡っていた。期待、不安、それからやっぱり、期待。
かち、こち、という時計の音をかき消すくらい、自分の心臓がばくばくと音を立てた。
しばらくして、一緒に歯科を出ると、宮原は「飯食う?」と尋ねてきた。ご飯中に歯が欠けたんだから、宮原はお腹が空いてないだろうと思い、自分ももう食べたことを伝えた。宮原は「ん、じゃあこっち」と言って、落ち着いた雰囲気のバーに向かった。
クリニックで働き始めてから、もう一年も経つというのに、こんないい店があるなんて知らなかった。宮原が、突然新規でうちに来たことを考えれば、この街をよく知っているわけじゃないと思うのに、なんて円滑な導入…と、その要領の良さを再認識した。
すごいなあって思うの同時に、モテるだろうなって、当たり前のことを考えてしまい、しゅんとなる。きっと自分なんかには、希望も何もないだろう。ノンケを好きになるのは、本当に鬼門だ。
それでも、こうして七年後の宮原を見てしまった俺は、高鳴る胸を止めることはできなくて、その仕草の一つ一つを、奇跡みたいに喜んでいた。はじめてちゃんと言葉を交わした宮原は、高校の時と同じように、口を大きく広げてよく笑いながら話した。
その笑顔に、目を、心を、奪われて、少しでも気を緩めたら、涙がじわっと滲んできてしまいそうで、どうしても認めざるを得なかった。
(こんなの…好きにならないなんて、無理だ)
あの時飲まなければよかったって、きっと後悔する日が来ると思った。こんなに魅力的な男、すぐに結婚しちゃうだろうなとも、思った。それでも、後悔しても、それでもこの日のことは、今朝の夢みたいに、一生俺の中で残るんだろうなって思いながら、宮原の太陽みたいな笑顔をそっと目に焼きつけた。
しばらく経って、酔いが回ってきた頃、宮原がぽつりと言った。
「あのさ…あの時、キス…して、ごめん。ずっと、謝りたかった」
夢見心地だった自分の頭に、突然冷水が降ってきたような気分だった。ズキッと胸が痛んで、内臓が凍りつく。自分にとって、夢みたいだった出来事は、彼にとってずっと謝りたかった枷だと知る。
(知ってる。大丈夫。わかってた。ちゃんと、わかってた…)
泣きそうになりながら、一生懸命、涙を飲みこんだ。もう七年も前のことなのだ。当たり前の、普通の、同級生がそうするように、笑いながら、身を切るような思いで、言葉を絞り出した。
「……………ああ、うん。別に、…大丈夫だよ。あの時、宮原の落書き見つけた時だったから、びっくりした、けど」
落書き。そう、あの宮原の落書きを、机で見つけた直後だった。
好きな人を愛してみたい、そう、書き殴られた、宮原の拙い願いは、その時の俺の心に、まっすぐ届いた。
恥ずかしいと言って、赤くなった宮原は、ずるずるとカウンターに沈んだ。その姿がかわいくて、叶わない夢ならば、ここで散るのもいいのかもしれない。そんな、気持ちになった。
「宮原に愛される人は、幸せだなって思ったよ。その人のことが、…ちょっと、羨ましかった」
えっと驚く宮原に、そのままの勢いで事実を伝えた。酒の力もある。
「宮原。俺、ゲイなんだよ。だから、キスのことも気にしないで。実はさ…宮原のこと、初恋だったから、ちょっと、嬉しかったんだ。いい思い出っていうか、思い出すと、きゅんとする」
きっと、宮原は気持ち悪いと思うだろう。もう、笑いかけてくれないかもしれない。でも、それでよかった。自分の想いを伝えられなかった、あの時の俺を後悔するならば、伝えて散ろう。そう思った。
だけど、──ぎゅっと手を握られて、びくっと震えた。
カウンターに伏せたままの宮原が、上目遣いで、恥ずかしそうに俺のことを見た。
「──口説いても、いい?」
その言葉の意味を、しばらく理解できなかった。握られた手にじわっと汗が滲んだ。
どういうことだ?と、疑問が巡る。撫でるように、指で手の甲を摩られて、息を飲む。その言葉を、そのまま信じていいのかわからなくて、でも、信じたくて、信じたくて、眉がへにゃっと下がってしまう。
「そんな聞き方…ずるい」
宮原がハッとした顔をして、それから、ぎゅっともっと強く手を握りしめた。
それから、耳元で、熱っぽく囁かれた。
「──俺も、初恋、だった…から」
もう、だめだった。
そんなこと聞いて、俺が冷静でいられるわけなんてなかった。ずっとずっと、夢で見る度に、本当はわかってた。叶わないって、叶えるつもりもないって、でもそれが、ただの、虚勢だってことくらい、ずっと、ずっと前にわかってた。
思い出みたいに美しくなんてなくていい。きれいなままじゃなくていい。
俺はずっと、宮原のこと、──
ふぇっと泣き出してしまいそうで、みっともなくて、それでも、──
「俺も、嘘。本当は、ずっと。──ずっと、宮原のこと…忘れられなかった」
ぐいっと手を引かれて、そのまま駆け出すように、店の外へと連れ出された。誰もいない公園の三月の夜風が、びゅうっと吹きぬけた瞬間。ふわっと広がった優しい匂い。温かい宮原の、腕の中だった。
「好き。白石、好きだ」
聞こえてきた言葉は信じられないようなもので、ひゅっと息を飲んだ。心臓が、信じられない速さで脈打っていた。思わず掴んでしまった宮原のシャツを、握りしめながら、指が震えた。
頭が現実に追いつかなかった。だけど、身体は歓喜に打ち震えていた。
「──幸せに、するよ」
じわっと視界が滲む。もう、好きで、好きで、どうしようもなかった。その衝動は、あの時、伝えられなかった俺の、あの衝動で、ドンッと強く押し出されたみたいに、俺の口から溢れた。
「好き」
声が震えた。
そっと少し上を覗き見たら、大人びた宮原と目が合った。
そのまま、宮原の唇が、俺の唇を掬うようにそっと触れた。その優しい触れ方に、心臓は握られたみたいに締めつけられる。きゅうっと眉毛が下がってしまうのがわかる。まるであの教室に戻ってしまったかのように、俺の心臓は、ばくばくと音を立てた。
ちょっと涙ぐんでる宮原を見て、俺の目からぽろっと涙が溢れた。
今年の春を運んでくる風が、俺たちの横を、ぶわっと吹き抜けて行った。
夜の灯りに重なり合った影が交わる。
そして思った。
──きっと、ずっと、ずっと。
ともだちにシェアしよう!