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第2話

 先生と彼と僕。  三人で過ごす時間は徐々に増えていった。  先生が彼との賭けに負けて禁煙に挑戦していること(お子様には内緒と言われて、賭けの内容は教えてくれなかった)、先生と彼は幼馴染だということ、大学は別で彼は寮生活をしているということ、週末は先生の家に泊まりにきてるということ。少しずつ先生たちに関する情報が増えてゆく。  彼らの話を聞くと同時に、僕も僕の話をした。  僕が母のお腹にいるときに父が病死したこと、二年前に母が再婚したこと、数か月前に母と新しい父との子が生まれたこと。  新しい父は僕にもやさしかったし、虐待なんてされたことはなかった。僕は恵まれている。それなのに家に帰りたくないなんて、単なる我儘だろう。  けれど先生も彼も、僕の話を笑ったりはしなかった。  行くとこがないときだけ来ていいと言って、先生は合鍵をくれた。彼も反対しなかった。先生と二人の時間の邪魔だろうに、いつも僕を歓迎してくれた。  金曜日の塾の後は先生と一緒に帰る。それがすっかり定着した。  家に入る前に先生は「内緒な」と言って煙草を一本喫う。  その横顔に、僕は恋をした。初恋だった。  先生の吐く煙を、僕はこっそりと吸い込む。先生の体を満たす煙に、なりたかった。    小学校を卒業する頃、先生も大学を卒業し、私立中学に採用された。僕が進むのは公立で、先生も僕も塾を辞めたから、先生は僕の先生じゃなくなってしまった。  合鍵を返してくれとは言われなかったので、進学後も僕は先生の部屋へ通った。  そのうちに家事もするようになった僕を、 「通い妻だね」  と彼は笑った。先生と付き合っているのは自分のくせに、子どもは眼中にないと言わんばかりの純度百%のジョークだった。  僕も先生が好きなんです、と彼に告げたらどうなるだろう。先生が好きです、と、先生に告げたらどうなるだろう。  会うたびに先生への想いは僕の中に溜まってゆくけれど、それを言ってしまえばもう此処へは来れなくなる。  いまの関係を崩してしまうことが怖かった。  先生も好きだけれど僕は、彼のことも、好きだったから。  このままもう少しだけ三人で居たかった。  僕たちの均衡を崩したのは、僕の片想いが原因ではなかった。  彼が、先生と別れたのだ。  僕が中学二年生の頃のことだ。  社会人となってから先生と彼はすれ違いが多くなり、週末一緒に過ごす時間も目に見えて減っていた。学生の僕と違って二人は多忙で、先生の家で三人揃うことも久しくなかった。  雪のちらつくある日のこと。  合鍵で部屋に入ると、リビングに煙が充満していて驚いた。  咳込みながら窓を開ける。冷えた空気が流れ込んできて、煙を攪拌した。  ソファにもたれ込んだ先生が、煙草を喫っていた。  何本目なのだろう。灰皿には吸い殻が積みあがっていて、そこに無理やり灰を落とした先生が、短くなった煙草を咥えたままで小箱をまさぐった。  新たな一本をつまみ出したその手を、僕は思わず押さえていた。 「先生」 「ん~……どうした?」  生返事をした先生が、目を動かして僕を見る。無精ひげも生えていて、憔悴しきった顔だった。  なにかあったのだ、とわかったけれどどう尋ねていいかわからない。  口ごもる僕の手を払って、先生が灰皿の隙間に煙草を押し付け、新しいものを唇に挟もうとした。 「先生」 「なんだよ」 「僕にも喫わせて」  煙草を取り上げるために、咄嗟にそう口にした。  先生の目が丸くなった。  それから。 「お子様には勿体ねぇよ」  と、笑って。  くしゃり、と僕の頭を撫でてから。  先生は泣いた。  大人が泣くのを見るのは初めてで、先生の涙に胸が苦しくなって、僕は先生を抱きしめた。  僕よりもずっとずっと大きな体を。  ぎゅっと抱きしめて、煙とともに先生の香りを吸い込んだ。    彼に女性の恋人ができたのだと、それからしばらくして耳にした。  先生に愛されていたくせに、女を選んだ彼を僕は憎んだ。  けれど、憎んだからといってなにをすることもできない。  先生の部屋に使い捨ての皿やコップなどが増えてゆくのを止めることすらできない。  先生は彼と別れた後、一夜限りの相手を連れ込むようになった。  いつ誰が泊まってもいいように、誰のものでもない使い捨て用品が常備される。  それらがごみ箱に捨てられているのを見るたびに、僕は、僕じゃだめだろうかと考えた。  先生は、煙草を喫うように誰かを抱き、煙草を捨てるように未練なく別れ、新しい煙草に火をつけるように誰かを抱く。  愛はそこにない。  一度は体内を満たしてもすぐに消えてしまう煙のように、彼以外の誰も、先生のこころには留まれない。    先生に抱かれたら、僕もそうなるだろうか。  僕も、ほかの煙草と同じように灰皿にぎゅうっと押し付けられて、捨てられてしまうのか。  昨夜誰かが泊まった名残をゴミ箱で見つけて、僕は溜め息を飲み込んだ。  夕食を作っていると、先生が帰ってきた。やっぱりいつもよりも少し早い帰宅だった。 「お、来てたのか」  普段とは違うスーツ姿に胸がきゅんとなる。  先生はジャケットを脱いでソファの背に掛けると、ネクタイを緩めながら座った。左手の腕時計をパチンと外し、ついでのように白い小箱を取り出した。  一本を、喫って。  一分も経たない内に二本目を取り出す。  チェーンスモークを見ながら、僕は先生の隣に座った。 「おまえも卒業かぁ。早いな」  先生が僕の顔をまじまじと見て呟いた。 「先生。鍵、まだ持ってていい?」 「好きにしたらいいさ」 「うん」  頷いて、僕は先生の手から煙草の箱を取り上げた。 「おい」 「先生」 「なんだよ」 「好き」  好き、の二文字が喉からこぼれた。  先生が笑った。僕の気持ちなどとっくに知ってたような笑みだった。 「おまえ、大学行かずに働くんだろ」 「うん」 「社会は広いぞ。出会いもたくさんある」 「うん」 「俺みたいなおっさんじゃなくても、他にも居るさ」 「でも僕は、先生がいい」  僕の言葉に、先生が首を横に振った。  女性を選んだ彼のように、きっと僕も心変わりすると思ってるんだろう。    「おまえのそれは勘違いだよ。しんどいときにやさしくしてもらったから、それで勘違いしてんだ」 「やさしくしてもらって恋をするのって、普通じゃないの?」  それ以外にどうやってひとを好きになるのだろう。 「おまえ、俺が初恋か?」 「たぶん」 「初恋は実らないぞ。やめとけ」  笑いながら先生が、僕の手から小箱を取り返した。  咥えた煙草にライターで火をつける。少し目を細めるその顔が、やっぱり好きで。 「でも先生は、僕が初恋じゃないでしょ」  僕は諦め悪く先生の手を握った。 「じゃあ先生の恋は実るかも」  だから先生も僕に恋をしてほしい。  そう言うと先生が目を丸くした。  先生の口には、煙草。    煙草のように先生を埋める存在に。  僕はなりたかった。 「先生、僕にも喫わせて」    僕の言葉に、いつかのように先生が笑った。 「お子様には勿体ない」  そう答えて、自分は白い煙を吐いた。  僕の初恋の相手は、僕よりもずっと大人で、体も手も大きくて、そして。  とても弱いひと。     火のついた煙草を、僕は先生の口から抜き取った。  先生の唇は、尖った形のままで。  僕はそこにちゅっと、キスをした。  かすれた声がしずかに、僕の名前を、呼んだ。         

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