1 / 1
星藍高校屋上部
屋上に続くドアを押し開けると、冬の冷たい風が顔にぶつかってコートの中まで入ってきた。身震いすると同時に、先輩の笑い声が耳をくすぐった。
「えーたん遅ーい!」
暮れかかった寒空の下、狭い屋上の真ん中に敷かれた体育館マットの上。あぐらをかいた先輩は、ダッフルコートからほんの少し指先を出して手招きをした。ふわふわとした髪の毛が風に揺れている。
「早くこっち来てよ〜。寒くて死んじゃう」
「在校生にも式の準備とかいろいろあるんですよ。それに僕がそっちに行っても気温は何も変わらないと思いますけど、とりあえず『たん』付けやめてもらえますか」
「二週間ぶりだっていうのに、まきのんは相変わらずつれないねぇ」
「のんもやめてください。槙野英太です。槙野か英太か、どっちでもいいので正確に呼んでください」
先輩のマフラーからはみ出た頬の赤さから視線を外して、握ったままだったドアノブに力をいれる。一年通ってようやく身についたけれど、このドアは建てつけが悪いのか、開けるのも閉めるのもコツが要るのだ。笑い声を背中で聴きながらドアノブをまわすと、ギィッと軋んだ音が鳴った。
僕が先輩にこんな憎まれ口を叩けるのも今日が最後だ。僕と先輩の二人だけの天文部は、今日をもって活動を終了する。
暦の上では立派な春でも、吹きつける風はまだまだ冷たい。
コートのポケットに手を突っ込んで、古びた体育館マットまで三メートルほど歩く。そのまま取り出した缶コーヒーを「どうぞ」と先輩に無理矢理押しつけながら、隣に腰を下ろした。
「えっ、わっ⁉︎」
先輩は目をパチパチさせて、缶コーヒーと僕の顔を交互に見る。忙しそうだ。
「気がきくねぇえーたん! あったか〜い」
また『たん』付けに戻っている。だけど、一年間何度言っても改めてくれなかったのだから、これ以上つっこむのは時間の無駄だろう。
「サプライズってやつです。最後ですから」
「あー、うん。そっかそっか、オレも明後日とうとう卒業だもんね。ありがとー」
うんうん、と頷く声にいつものような覇気がない。先輩の顔を見る。視線が空中でぶつかった。
缶コーヒーを握りしめた先輩が「あーあ」と小さく苦笑する。
「結局えーたんがちゃんと笑った顔見れなかったな〜。一回でいいから爆笑してるとこ見てみたかったのに」
「すみません表情筋が死んでいるので」
悪びれもせずにそう言うと、今度こそ先輩は声を上げて笑った。
僕達の通う星藍高校は、街中から少し離れた丘の上にある全寮制の男子高校だ。
天文部は元々、この学校設立当初からある由緒正しき部活動だったらしい。部員数も多い時には五十人もいたとか。いや、三十人だったかな。とにかく昔は人気の部活動の一つだったらしい。
それが時代の流れやら何やらでだんだんと活動は縮小し、部室棟の隅から追いやられ、空き教室から追いやられ、最終的に屋上へと追いやられてしまった。顧問の先生の都合で部活は週に一回、多くても二回。時間も夜七時までだし、もちろん雨が降れば中止になる。梅雨の時期なんて一度しか部活をしなかった。
もちろん部費なんてない。備品と呼べるようなものは古い天体望遠鏡だけ。ご老体の望遠鏡も、つい二ヶ月ほど前、とうとうピント調整ができなくなってしまった。
屋上は、景観を損ねるくらい背の高いフェンスに一面ぐるりと囲まれている。町も山も見えない。上を見るしかない。四角に切りとられた小さな空を、寝っ転がって眺めるくらいのことしかできない。
もはや天文部なんて名乗ることもおこがましい。入部初日、先輩は満面の笑みで「屋上部へようこそ!」と言った。
絶対に部活に入らないといけない、なんてそんな規則もないし、別に星に興味があるわけでもない。では何故僕がこの部活に入ったのかというと、理由は、まぁ、うん。
両手で缶コーヒーをもてあそんでいた先輩は、思いついたように声を上げた。
「それじゃオレからのサプライズは、羽白暁星産みたてのゆで卵でーす!」
「産みたてって。先輩はいつから鶏になったんですか」
「冷静〜! 冷静沈着〜! 流石はえーたん細かいところまで聞き逃さないね! あ、今日は二つあるからね」
先輩は部活の時に何故かいつも、ゆで卵を持ってくる。今更なんのサプライズにもなっていないけど、と思いながら素直にお礼を言う。両手に一つずつ受け取って、そのまま僕は数秒停止した。
「・・・・・・何ですかコレ?」
「あっ、気づいた? 気づいちゃった? マジックでね、顔描いてみたの。こっちがえーたんで、こっちがオレね」
先輩が言いながら指をさす。言われてみれば、人の顔に見えなくもない。全く似ていないけれど。
「先輩絵下手ですね。なんで僕の方血吐いてるんですか」
「いや〜、案外難しくてさぁ。口ちょっと曲がっちゃって直そうと思ったら余計ひどくなっちゃって」
「先輩の方の顔がちょっと綺麗に描けてるのなんか腹立ちますね」
「もうちょっとオブラート包んでよ〜」
数秒間眺めた後、ゆで卵をそのままそっとポケットに押し込んだ。
「えっ⁉︎ 食べないの⁉︎ 見た目はちょっとアレかもだけど、いつもとおんなじ茹で加減だよ。ちゃんと半熟!」
「もちろん食べますよ後で。寮に帰ったら」
たぶん。という言葉は胸にしまった。
「先輩こそ、コーヒー飲まないんですか? 冷めますよ」
「え〜、だってこうやって持ってるとあったかいし、それにえーたんからもらったから。なんかもったいなくて・・・・・・」
「・・・・・・先輩は、卒業したらどうするんですか?」
「えっ⁉︎ 卒っ、えっ⁉︎ オレのことなんか全くこれっぽっちも気にしてないと思ってたのに! 一年経ってやっとオレに興味出てきたの?」
「ただの社交辞令です。別に答えてもらわなくても構いません」
「あー! ごめんごめんウソウソ! かまって! かまってください!」
「いいんですよ、言いたくなかったら別に」
「違うってば! 改まって言うのがちょっと恥ずかしかっただけだって。・・・・・・調理師の専門学校行くんだ。オレの実家、洋食屋やっててさ。すごいちっちゃいんだけど。子どもの頃から、将来は店のカウンターの中でフライパン握るんだーって、ずっと思ってて」
そう言いながら、缶コーヒーをポケットにしまった先輩は古びたマットの上にごろんと寝転んだ。僕も先輩にならって横になる。
見上げた空はオレンジと藍色の綺麗なグラデーションだ。きっと後三十分もすれば、南の空にシリウスが白く輝いて見えるだろう。
「親に大学くらい行っておけって言われて、無理矢理進学校にぶちこまれちゃったけどさ、オレ頭悪いし。やっぱり店、継げたらいいなぁって思って。たまに家庭科室借りて練習もしてたんだよ。ゆで卵だけじゃなくて、目玉焼きとかオムレツとか」
「卵ばっかりですね」
「卵は栄養満点なんですー! 卵料理は奥が深いんですー! って言ってもまぁ今は、簡単なものしか作れないんだけどね。でも、時計見てなくても半熟卵は作れるようになったし」
「毎回ゆで卵持って来てくれたのは、そういう理由ですか」
「うん、趣味と実益を兼ねて? あと純粋に、星眺めてると集中するからお腹減るし。あとはー、そうだなー。えーたんに笑ってほしかったから、とか?」
「・・・・・・は?」
一瞬、時が止まったように思えて先輩の顔を凝視してしまった。
「えーたんって無愛想っていうか能面じゃん。いつも基本的にソークールっていうか」
「すみません表情筋が死んでるので」
「それさっき聞いたー! でもさ、ゆで卵食べてる時、ちょーっとだけ表情緩むじゃん」
「え?」
「あっ、気づいてなかった? ホントだよ、ホント! ちょっとだけ眉間緩むし、ほんのちょっとだけ口の端も持ち上がるんだよ。ほんの一ミリくらいだけど」
「・・・・・・一ミリって、全然笑ってないじゃないですか。先輩の気のせいですよ」
「う〜ん、そうかもしんないけど。・・・・・・あ、ねぇねぇ。えーたん知ってる? オレの名前『暁星』って、明けの明星って意味なんだって」
「・・・・・・明け方の金星のことですよね」
「流石〜! 博識〜!」
「勉強しましたから。僕も屋上部の部員なので」
金星が明けの明星と呼ばれる理由は、夜明け前の空がうっすらと白んで来る時間帯にひときわ明るく輝いて見えるから、だという。
金星が夜明け前の限られた時間にしか見ることができないように。学年の違う先輩とは、部活でしか会えなかった。
暗がりの中、先輩が小さく笑う声がする。
「オレねぇ、自分の名前のこと知ってから天体に興味持って星が好きになって。それで屋上部に入ったんだ。星は一人でも見れるし、むしろ望遠鏡独り占めできるしって、思ってたんだけどやっぱちょっと寂しくて。だからえーたんが屋上部に入ってくれて、オレの隣でゆで卵食べながら望遠鏡覗き込んでるのが、なんかホント、すっごく嬉しくて。オレは、えーたんがゆで卵目当てでも毎回ちゃんと部活に来てくれて、すごく嬉しかったし、楽しかったよ」
ありがとう、と小さくつぶやいた声の方へ顔を向ける。三十センチも離れていない距離に先輩の顔があった。少し、泣きそうに見えるのは僕の気のせいだろうか。空が暗いから、なんとなくセンチメンタルな気分になっているだけかもしれない。
「・・・・・・ゆで卵目当てとか心外なんですけど。確かに先輩のゆで卵はいつも半熟加減が絶妙でそこはまぁ素晴らしいとは思いますけど僕そこまで食い意地はってないですし、別にゆで卵が食べたくて屋上部に通ってたわけじゃありません」
「えっ? じゃあ何が目当てだったの?」
「教えません。秘密主義なので」
「ケチ〜ずるい〜いじわる〜」
「・・・・・・先輩が今から五秒以内に冬の大三角を言えたら教えます。スマホは禁止で。いーち、にーい、さーん、しー」
「えっ、えっ、ちょ、待っ! シ、シリウス、ベテルギウ」
「ごーお。はいタイムアウトです。お疲れ様でした」
「えー! ずるいよー!」
「なんとでもどうぞ」
「あっ、じゃあさ、せめて感想聞かせてよ。屋上部、一年間通ってどうだった?」
「本当、散々でした。先輩、望遠鏡のピント合わせるの下手だし、説明も下手だし。星座も間違って覚えてたし。誤情報教えられて流星群見逃したし」
「あー! 頼りない先輩でごめんなさい!」
「・・・・・・まぁ、でも。楽しかったですよ」
本当は知っている。先輩が休みの日も望遠鏡の手入れをしていたこと。壊れた時に隠れて涙をこぼしていたこと。こまめに活動日誌をつけて提出していたこと。屋上部を存続させようといつも頑張っていたこと。
僕が屋上部に入部した理由は、一年間続けた理由は、先輩がいたからだ。
「こちらこそ、ありがとうございました先輩」
好きです、なんて言えない。
ましてや初恋でしたなんて、絶対に言えない。言えるわけがない。
もちろん言うつもりもない。
たぶん僕はいい後輩じゃなかった。無愛想で無表情で口を開けば生意気で。でもそんな僕のことを、どうかしばらくの間だけでも覚えていてほしい。
「先輩、お店の住所教えてください」
「えっ、えーたん来てくれるの⁉︎ 教える! 教えるから絶対来てね! あっ、できれば二年後、オレが調理師学校卒業してからでお願いします」
「わかりました。じゃあそれまでに望遠鏡買っておきます」
「絶対、絶対覚えててよ! 一緒に金星観よう。オレゆで卵作って待ってるから」
「・・・・・・僕、早起き苦手なんですけど。あと、そこは洋食屋らしく、オムライスって言ってください」
こっちを向いた先輩がすごく嬉しそうで、でもなんだか少しだけ泣きそうにも見えて。
僕はかちこちに固まった顔の筋肉に力を入れて、無理矢理唇の端を五ミリ引き上げた。
ともだちにシェアしよう!