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第1話
昇降口を入ってすぐの真正面の目立つ位置に飾られた大きな絵に気付いて、瞬介 はゆっくりと顔を上げた。
茜色の空をバックに背面跳びをしている男子学生がシルエットで描かれている絵に釘付けになった。
その高跳びをしている男子学生のシルエットは実に躍動感に溢れていた。
助走の最終局面で曲線を描くように走り込み、高跳びのバーに身体の側面を向けて飛び上がった瞬間の絵だ。バーを越えるその瞬間、身体は仰向けとなり上体が大きく反ったその一瞬を切り取られたかのような絵。
写真かと見間違うほどにリアルで、その瞬間の息遣いまでもが伝わるような絵に身体がぞくっと震えるのが分かった。
「おーす、瞬介。なに見てんの」
「え。この絵、なんかすげぇなって」
「ああ。上手いよな。なんか美術コンクールみたいなやつ? あれで賞取ったらしい……てか、この間そいつ表彰されてたじゃん」
「え、知らん。誰?」
「三組の長峰 」
ああ、長峰か。
クラスも違うし話したことはないけど……確かすげぇ頭いいやつ。瞬介にとって彼はそんな認識だった。
学年でいつもトップの成績を取ってるくせに陰キャでもガリ勉タイプでもなく、見た目もわりとシュッとした男だ。
成績がいいという点で注目を浴びる存在ではあるが、とびきり目立つ男というわけではない。どちらかといえば物静かでクールな印象──実際どんなやつかは知らんけど。
「俺、思ったんだけどさ。この絵、なんか瞬介に似てねぇ?」
「──は?」
「おまえ、跳んでるときのフォームこんな感じだもん。初めて見たとき思ったんだよね」
「なに言ってんだよ」
中学のころから陸上をしていて、高校に進学してからも迷わず陸上を続けることにした。
瞬介は中学の頃はそこそこ名の知れた走り高跳びの選手だったが、高校に進学してからの成績は正直伸び悩んでいた。
それでも跳ぶことが好きだった。どんなに苦しくても辛くても、跳んで最高点に達しているその瞬間だけは重力に縛られず何もかも忘れて自分を解放できる。そんな感覚がいつの間にかやみつきになっていた。
飾られた絵の躍動感に目を奪われたのは本当だが、似てると言われたことに対してさほど驚きはしなかった。
「瞬介がモデルだったりしてな」
「バーカ。んなわけあるかよ」
と口では答えつつも、瞬介はもしかしたら──とも思っていた。
瞬介が長峰を認知していたのは、成績トップの男という注目を集める存在というだけではなかった。
はじめは特に気にも留めていない相手であったが、ある日長峰の視線に気付いた。
最初の頃は教室移動や互いの教室の廊下を行き来するとき、なぜかよく目が合うなと思ったくらいだった。
偶然目が合うなんてことは男女問わず誰とでもあることだし、そこまで気にしたこともなかったのだが、そのうち何か違うのでは? と感じるようになった。
部活動の最中にふと視線を感じ、その視線を辿ると決まって長峰がいた。
長峰は美術部で、よくグラウンドや中庭でスケッチブックを片手に何か描いている姿を見掛けることがあった。
──見られている?
けれど嫌な気がしなかったのは、彼の視線に妬みや憎悪のような負の感情が一切感じられなかったからだ。
目が合うと、長峰は決まって目元を緩めて柔らかく微笑む。
──なんだ、その顔。喋ったこともない相手にそんな顔する?
瞬介の後ろに友人でもいたのかと、振り返ってみたこともあるが、特に彼の知り合いらしき人影もなく、謎は深まるばかりだった。
向けられる視線の相手が女の子だったら、もしかして恋されてる? なんて調子に乗っていたかもしれないが、いかんせん相手は男だ。
長峰の視線にどんな意味があるのかと考えているうちに、次第に瞬介のほうも長峰を意識するようになってしまっていたが、それは表に出さずにいる。
だって、おかしいだろ? 男の俺が、同じ男の長峰を意識するなんて。
* * *
「お疲れっしたぁー!」
部活を終えて着替えを済ませて校門を出ようとしたところで、時間を確認しようとジャージのポケットをまさぐった瞬介ははっとした。いつもそこに入れているはずのスマホがない。
「やべ。俺、スマホ教室に忘れたかも」
「え、マジかよ」
「悪い、ちょっと取りに行って来るわ。先帰ってていいから! じゃあな」
友人たちに言って、瞬介は慌てて教室にスマホを取りに戻った。
校舎の中にはもう人が残っていないようで、教室の明かりは消えている。瞬介の教室は昇降口からすぐの階段を上がって、上がったところから長い廊下を歩いた校舎の端に位置する。
薄暗く人気 のなくなった校舎内はどこか気味悪く、瞬介は誰もいない廊下を走って教室に辿り着くと、机の中に忘れていたスマホをポケットにしまい、すぐさま昇降口まで引き返す。
「あ、こっちから行くか」
瞬介は今度は教室のすぐ横にある階段から下に降りて昇降口に続く廊下を歩いて行くと、まだ明かりが点いている部屋があった。
「あれ……まだ残ってるやついるのか」
この棟の一階が文化部の部室棟になっているのは知っていたが、普段は滅多に立ち寄ることがない。通りすがりに電気が点いていた部室を覗くと、どうやら美術部の部室のようだった。
薄暗い廊下から中を覗くと、そこに残っていたのは長峰だった。
夢中になっているのか、真剣な顔でキャンバスに鉛筆を走らせている彼は入口のドアが開いているにもかかわらず瞬介の存在に気付いていない。
見られている──と意識することはあったが、こちらがこうして長峰を“見る側”にまわるのは初めてのことだった。
瞬介が長峰の視線に気付くと高確率で彼と目が合う。長峰が微笑んだことになぜかドギマギしてこちらが目を逸らすことになるのだが、見つめる側にまわるのはなんだか新鮮だった。
長峰は、前髪は少し長めだが、後ろ髪は短めに刈り揃えている。特別洒落た髪型というわけではなくごく普通。それでも洗練した印象を受けるのは、目を見張るイケメンというわけではないが全体的なバランスが整った綺麗な顔をしているからだろう。
瞬介はしばらくの間、彼の真剣な表情を眺めていた。
人が何かに夢中になっている姿というものは、こうして傍から見ているだけでも惹きつけられる。
──いい顔、してるな。
そんなふうにじっと長峰の姿を見ていると、ふいにポケットに入れたスマホがピロン♪と通知音を奏で瞬介はハッとした。
音に気付いた長峰が顔を上げた。きょろきょろと辺りを見渡してから自分の制服のポケットの中のスマホを確認して首を傾げる。
そのあと、また続けて瞬介のスマホが鳴った。
今度は長峰が人の気配に気付いたのかゆっくりと立ち上がった。瞬介はすぐに立ち去ることもできたのに、なぜかその教室に足を一歩踏み入れてしまっていた。
「まだ、帰んねぇの。ここ以外、もう電気消えて真っ暗だよ」
瞬介が言うと、長峰が一瞬驚いた顔をしてから、いつものように柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。もう帰るよ。──こうして話すのは初めてだね。十河 くん」
彼の声は静かでとても落ち着いている。
なぜ声を掛けてしまったのだろうか。そう思ったが、ずっと気になっていたことを確かめてみたいという気持ちがあった。
「俺のこと、知ってるんだ」
「知ってるよ」
「俺もおまえのこと知ってるよ」
「名前だけだろう?」
「うん。話したことないしな。学年トップの長峰で有名だ。あと……勘違いじゃなければ、俺のことよく見てる。──なんで見てた?」
瞬介がそう訊ねると、長峰が意味ありげに微笑んでから答えた。
「なんでかな? 僕も不思議なんだ」
「見てたのは否定しないんだ」
「気付くと目で追ってる。いつからなのか、どうしてなのか、よく分からないんだ。僕も」
「ふぅん」
こんなことを問いただして、自分が何をどうしたいのかは分からなかったが、とりあえず聞いてみたかった。長峰と言葉を交わしてみたかった。
「中学の時、僕も陸上やってたんだ。大会で十河くんを見たことがある。跳んでる姿がすごく綺麗だった──」
──じゃあ、あれはもしかしたら本当に。
「長峰がこの間賞取った絵、あれってもしかして俺がモデルだったりする? ……友達に言われたんだ。俺の跳んでる姿に似てるって」
「ああ、うん。分かる人には分かっちゃったんだね。シルエットだし、さすがにバレないだろうと思ってたんだけど、気付いてたんだったら気味悪かったかな」
長峰に言われて初めて、その感覚はなかったなと思った。
話したこともないやつとやたら目が合うとか、視線を感じるとか、確かに普通に考えれば気味悪く思ってもおかしくないなと思った。それが同性なら尚更。
「その発想なかったわ」
瞬介が答えると、驚いた顔の長峰がふっと小さく笑って、その優し気な笑顔になんだかほっとしたような気持ちになった。
「憧れ……みたいなものかな。跳んでるきみの姿が僕の目には眩しく映った。なにかに一生懸命になっている人の姿って輝いて見えたりするだろう。たぶん、そういうことなんじゃないかな」
長峰が付け加えるように言った。
「輝いてみえる……か。だったら、長峰だって輝いてるよ。夢中で絵を描いてるときの真剣な表情、すごくよかった」
それを機に、長峰とたまに話をするようになった。
初めて言葉を交わした日と同じように、人がいなくなった美術部の部室に瞬介がふらっと立ち寄って声を掛ける。
それまで真剣な表情でキャンバスを見つめていた長峰の表情が、ふわっと緩む瞬間を見るのがなぜだか楽しみになった。
この日も瞬介は部活が終わった後、美術部の部室に立ち寄った。
いつもと同じようにこの部室にだけ電気が点いていて、普段ならキャンバスを真剣に見つめる長峰の姿が廊下から見えるのだが、この日は違っていた。
キャンバスもイーゼルもいつもの位置にはなく、瞬介が部室に足を踏み入れると、長峰が机に突っ伏していた。
具合でも悪いのかと慌てて長峰に近寄ると、彼はただそこで眠っていただけだった。
机の上は長峰が愛用しているスケッチブックが広げられたままになっていて、今日は何を描いていたのだろうと興味本位でそのスケッチブックの位置をそっとずらすと、笑顔を向けている瞬介の姿が描かれていた。
「……なんだよ、これ」
俺は、長峰にはこんな笑顔を見せているのか。
とても不思議な気分だった。瞬介自身も久しく見ていないような弾けるような自身の笑顔に驚いた。
依然、長峰は瞬介がいることに気付かずに小さな寝息を立てている。彼の下敷きになっていたスケッチブックをそっと引き抜いてページ捲って見ると、数えきれないほどの瞬介の姿が描かれていた。顔だけのもの、バストアップ、全身を描いたもの。
どれも制服やジャージ姿の瞬介を描いたものだったが、中には裸のデッサンも混じっていた。実際よりも少し逞しくカッコよく描かれていたことになぜか口元がにやけた。
「さすがに、引くわ。どんだけ俺のこと描いてんだよ、長峰」
そう呟いて、瞬介は机の横にしゃがみ込んだ。
しゃがみ込んだ姿勢のまま長峰の寝顔を盗み見る。顔に掛かるサラサラの前髪をそっとかき分けてまじまじとその顔を見つめているうちになんともいえない感情が湧き上がって、気付けば長峰の頬に自分の唇を押し当てていた。
「ん……」
長峰の眉がぴくりと動き、彼がゆっくりと目を開けた瞬間、至近距離で目が合った。
驚いた長峰が飛び退き、椅子から転げ落ちたかと思うと、慌てたように立ち上がった。
「え、なに?」
「……べつに。寝てたから起こしてやっただけだよ」
「十河。いま、なんか、した?」
「さぁな」
そう言って瞬介が笑うと、普段は落ち着いていて柔らかな笑顔を向けるだけの長峰の表情が崩れた。狼狽えているのがはっきりと分かる。
表情が変わりにくいこの男が何を考えているのかつかめずにいたが、あのスケッチを見ればさすがに気付いてしまう。不思議と嫌悪感はなく、単純に自分に向けられる好意が嬉しかった。
キスをした。なぜって?
あの瞬間、したいと思ったそれ以上の理由はないし、湧き上がる衝動を抑えることができなかったとしか言いようがない。
「帰ろうぜ」
瞬介が言うと、長峰が「ああ」と普段の冷静さを取り戻して返事をしたが、その元通りな感じが少し悔しい。
もっと狼狽えたらいい。俺だけに他の誰にも見せない顔を見せるようになればいい。
この気持ちが何なのか、いつか分かるときがくるのだろうか──?
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