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よるのおわり / あさをめぐむ

「声が、思い出せねぇんだ」  ポツリとそう零した男は、目の前に座る友人である男の前でそれだけを告げて温くなったコーヒーを啜った。誰の声を思い出せないのか、皆まで告げずにそう口にした彼の言葉は彼らの事情を知る男に違わず届き、男は少しだけ困ったように笑いながら「記憶というものは、音から消えていくらしいから」とだけ口にする。「啓次(ケイジ)、大丈夫か」目の下には隈が色濃く残された啓次と呼ばれた男――終夜(シュウヤ)啓次(ケイジ)を労わるように、啓次の友人である男は言葉を重ねる。決して大丈夫とは言い難いその姿を痛ましげに見詰める彼は、啓次とその妻であった女の友人であった。大学時代に知り合った彼らは学部は違えどサークルの同期で。啓次の妻が彼の元を去った後のを任されていた男は小さな息を吐いて、啓次の手元に視線を飛ばす。彼の左手――薬指には似たデザインのプラチナがふたつ、鈍い光を帯びていた。 「朝恵が居なくなって、三年だろう」  男の言葉に啓次は薄く笑い、口を開く「、三年だ」絞り出すように彼の口から溢れた言葉に、男は静かに視線を伏せた。  終夜啓次の妻であった女――終夜(シュウヤ)朝恵(トモエ)は、男から見て自由人であった。学生の時分から付き合っていた啓次を振りまわし、ついでというように男の事も振りまわしてカラカラと笑っていた女の姿を思い出し、男は啓次と別れ戻ってきたオフィスの中で小さくため息を吐く。一見すると青年のようにも見える長身であった朝恵と、彼女よりも頭ひとつ分程小柄だった啓次。彼らは男から見ても惰性で付き合っているようであったが、男が知らぬ間に啓次の名字が三上(ミカミ)から終夜に変わっていた。「アイツの名前、変えたくなかったんだよ」と照れ臭そうに笑う啓次の姿は、今でも男の記憶の中にはっきりと残されていた。 「先生、どうしたんですか?」  不思議そうに男に声を投げたのは、年若い青年で。「啓次と会ってたんだ」肩を竦めながら小さく笑って青年へと告げた男に、「終夜さんと?」と青年は首を傾げる。「あぁ、朝陽(アサヒ)は啓次とよく会っていたか。生存確認みたいなもんだよ――三年になるのにな」青年――藤原(フジワラ)朝陽(アサヒ)は啓次の事を何処まで知っていただろうかと男は少しだけ思案する。元々啓次の妻である終夜朝恵が撮った写真が縁で啓次の元をよく訪れるようになっていたのだったか――そもそも、引き合わせたのは俺だったか。なんて思い直した男は「朝恵の声が思い出せなくなったんだと」と眉を下げながらも、気安い調子で口を開く。軽い言葉で誤魔化して、男は朝陽へ視線を向ける。 「俺は、啓次を」  自嘲げに笑みを零した男は、目の前に立つ朝陽を見詰める。黒く真っ直ぐな髪は耳の辺りで切り揃えられ、真ん中より少しずれた位置で分けられた前髪は鬱陶しさがないように流されていた。意志の強そうな切れ長の黒い瞳とすらりとした長身は、髪型も含めて朝恵によく似ている。男は小さく笑って「だから、啓次の事は」と言葉を重ねる。朝陽が啓次の事を慕っているのは、男にも分かっていた。その感情にどんな名前が付けられるのかは兎も角として。終夜朝恵と外見や名前が似ている青年はしかし、その行動や性格は彼女とは正反対だった。そうでなければ啓次はまた、朝恵に似た人間を一人喪う事になりかねない。男は心の中でだけひとりごちる。終夜朝恵は、夫である啓次を残してひっそりと女だった。  世も更ける頃、朝陽はバイクを走らせていた。本来であれば車を出してやりたかったが、自家用車を持たない彼が突然の呼び出しに応じる為の足はバイクしかなかったのだ。夜中に突然届いたメールに、急いで一言だけの返信をした彼は予備のヘルメットが間違いなくある事を確かめてバイクを走らせる。普通に走れば一時間程、少しだけスピードを上げてその時間を縮めた彼が辿り着いたのは未だ暗闇に塗られたままの海岸だった。低い波の音だけが辺りに響き、潮の香りが朝陽の鼻腔を掠める。月明かりだけを頼りに、自身を呼び出した男の姿を探す朝陽の視界に映されたのは、砂浜にじっと座る人影だった。 「終夜さん!」  自分よりもひと回り以上年上の男の名を叫び、朝陽は人影の元へと走る。そこに座っていたのは、彼が名を呼んだ終夜啓次その人であった。啓次の元に辿り着いた朝陽は、彼の前で膝をつき啓次の身体を引き寄せ腕の中へと収める。朝陽よりも随分と小柄な啓次の身体は彼の腕の中にすっぽりと収まり、そんな啓次の身体を抱き寄せた朝陽は潮と砂に塗れていた癖のついた啓次の夜の闇と同化したような髪に顔を埋める。「どれだけの時間、ここにいたんですか――こんなに冷たくなって」震える声で啓次へと言葉を落とす朝陽に「わからねぇ、気付いたらこんな時間になってた」と啓次は呟く。「寝れないなら、その時点で言ってください――突然迎えに来いって、めちゃくちゃです」俺が起きてなかったらどうするつもりだったんですか。涙を孕んだ朝陽の声に「寝れなかった」と啓次は答える。上手く噛み合わない啓次との会話に、朝陽は言葉を返す事を止めて彼の冷え切った身体を温めるようにきつく啓次を抱きしめる。朝恵を亡くしてから三年、啓次が一人で上手く眠れないようになっていた事を、朝陽は啓次と出会ってから一年の時を経て知っていた。この一年間、幾度となく身体を重ねた相手である啓次は、それでも朝陽が彼の家に住み着く事を良しとはしなかった。「――でも、頼ってくれてるって事ですよね、こうやって呼び出してくれるのは」啓次を抱きしめながら、朝陽はゆっくりと言葉を零す。波の音で掻き消されそうな小さな言葉は、それでも啓次の鼓膜を震わせる程の大きさでもって彼の元へと届いた。啓次は朝陽のされるがままに、腕の中に収まりながら、自身の左手にある硬い感触を右手の指先でなぞっていた。一つは五年前に作った結婚指輪、もう一つは三年前にそれと似たデザインで喪った妻の遺骨が納められ――リングの内側には同じように遺骨で作り出した深い青のダイヤが嵌め込まれた指輪。二連の指輪は未だに啓次を縛り続け、彼自身もそれを外す事など出来なかった。 「――連れて行ってくれりゃぁ、よかったのに」  絞り出すように呟かれた声は、震えていた。啓次の声に呼応するように、彼を抱く腕の力は強められる。それはまるで啓次が朝恵の元へと行くことを止めるかのようだった。 「先生が言ってました『一緒に生きてはいけないけど、啓次には死んでほしくないって朝恵が言ってたんだ』って」  朝陽が先生と呼ぶ男が誰であるかは、啓次も分かっていた。学生時代からの友人にだけ告げられていたらしい妻であった女の遺言にも似た言葉に、啓次は言葉を返す事は出来ずに短く詰めた息を吐く。 「俺は、ずるいから。死んだ人を利用しますよ。先生は終夜さんにこれをいうつもりはなかったですし、俺も口止めされてました――けれど、あなたはあの人の身勝手さを知るべきだ。あの人は、あなたと生きてはいけなくても、あなたが生きている事を望んでいたんですよ」  声を殺して――殺しきれない嗚咽を漏らしながら、肩を震わせる啓次を抱きしめながら朝陽は言葉を紡ぐ。自分が恋した男の心に傷を付け、そこに自分自身を擦り込んでいくように、朝陽は啓次へと言葉を投げ続ける。 「俺は、あなたを遺していったりしない。あなたと一緒だったら死んでもいいけれど――俺は、あなたと生きていきたい」  自分の胸の中で涙を流しているのだろう男を、この世界に縛り付けるように朝陽は言葉を啓次の為にだけ口にしていく。いつしか、空は白み始めていた。 「――夜が、終わって。朝が恵まれる」  白み始めた世界で、痛々しく腫れた目をした啓次は朝陽の肩越しに明るさを取り戻した世界を見つめる。「その名前が、綺麗だと思ったんだ」誰に告げるでもなくぼんやりと言葉を零す啓次の声に、朝陽は小さな相槌を打つ。それは啓次の元から永遠に喪われた女の名であった。朝を恵む女が消えても、この世界は夜が終わり、朝がやってくる。変わらずに回り続ける世界で、啓次は呟く。 「あぁ、朝日だ」  水平線の向こうから訪れた朝の光を眩しげに見つめる啓次の言葉に、朝陽は彼が見つめるものと同じ水平線を見つめようと向かい合って抱きしめていたその身体を一度離し、今度は後ろから抱え込むように彼を腕の中へと仕舞い込んだ。 「――はは、」 「どうしました?」  背中に朝陽の体温を感じながら小さく乾いた笑い声を漏らした啓次に、朝陽は問いかける。 「一世一代の、恋だと思ってたのにな」  ぽつりとそう零した啓次は眩しげに瞳を細め、朝陽の身体へと体重を掛け――それでも朝陽を見る事はせず、小さく言葉を重ねていく。 「俺にとって、朝恵は最初で最後の恋の相手だった筈なんだ。俺は朝恵を愛していたし……今も多分、愛している。そんな俺でもさ、朝陽……俺はお前と一緒に居ても、いいんかな」 「――当たり前でしょう。それに、知らないと思いますけど……俺にとっては、啓次さんが一世一代の……最初で最後の恋なんですから」  告解のような啓次の問いかけに迷う事なく言葉を返した朝陽へ、啓次は少しだけ照れ臭そうに笑う。  啓次が一世一代の恋をした相手に外見こそよく似た青年は、彼女とは全く違う心根で啓次の身体を抱く腕へと力を込める。抱き締められる力が強まり少しだけ窮屈に感じたその腕の中で、啓次は太陽のような男だとふと思う。  妻であった女が夕焼けであり月であったとするならば、この男は朝焼けであり太陽だと。 「一緒に、生きていきましょう」  静かに紡がれた朝陽の言葉は、歪むことなくそのままに啓次へと真っ直ぐ届いた。  朝陽の腕の中に収められたままの啓次は、その言葉に小さく――しかしはっきと頷いたのだ。

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