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Dear...
真っ青な空を譜面として、真っ白な雲を五線譜とするなら、さながらくるくると規則的に回る黒い鳥は音符だろうか。時折、ひらひらと湾曲した羽が地面に落ちて、抜け落ち具合から休符のようにも見える。小さな鐘と大きな鐘の激しい鳴き声が、終末を知らせる鎮魂歌になるだろうか。
「やあ」
彼は、空から地面へ飄々と降り立って大きな黒い羽を畳んだ。
真っ黒で鋭い爪のついた足で、地面を歩きづらそうによちよちと歩いて近づいてくる。少し斜面になっているのと、散乱している卵位の大きめの石ころが足場を悪くして、バランスをとるために時々ぴったりとつけた翼を浮かせている。強風にも負けない強靭な大きな翼を持ち、神の面前に醜い姿を晒しても堂々としていられる度胸のあるようなやつじゃないとここには来れない。
彼は鋭い瞳を眇めニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながら足元までくる。長い首をもたげるように見上げてきた。その瞳は、些か対象物を獲物と認識し、肉塊であるという意味も同時に孕んでいるようだった。
「ずいぶんやられたねぇ」
語尾が伸びて、かすれた声の彼は微笑んだ後ため息をついた。
「…見てたなら止めろよ」
八つ当たり気味にいうと硬い嘴を開いた。些か歪んだ微笑みを浮かべているようにも見えた。
「そっちこそ…見てたならわかるでしょ?」
目の前の鳥は、羽を広げれば2メートルほどある巨大な黒い翼を持つ。フラミンゴよりは短いが鶏よりは長い首を持ち、遠くからでも獲物を嗅ぎ付けられる嗅覚と視覚を持つ猛禽類。首から頭部には産毛が生えていて薄いことからハゲワシと呼ばれている。 死肉を貪る姿から、他の鳥からは嫌われる。
「…」
「…」
獲物を上空から見定めることのできる鋭い瞳は、光を失わずに瞬きを繰り返し見つめる。
のんびりしていても、話好きの彼が黙ることは稀なことだ。硬い嘴が、微かに開いて彼にしては荒い呼吸を繰り返していた。
ハゲワシが、話好きだからと言って、こちらもそうとは限らないので、沈黙は続く。
2人の沈黙が続くと、周りの音が大きく聞こえるような気がする。遠くの木々の葉が擦れる音、遠くで他の鳥が羽ばたく音、風がぶつかり合う音…
それから、自身の体をめぐる血液の音がした後、それが巡らずに切れたパイプから漏れて地面に滴り落ちる音が急に威力を増す。定期的なリズムで地面を叩く滴は、さながらメトロノームに近く、一度気にしてしまうともっと音が大きく聞こえるような気がした。
あたりは一面、石榴の果実でも弾け飛んだかのように真っ赤で、そこら辺あちこちに肉片が散乱している。赤黒く転がる臓器がなんだったかも分からずに食い散らかされて、剥き出しの白い骨はさながら真珠のネックレスでも千切れてしまったかのようでもある。それらを鮮やかな何か別のものに例えられるユーモアがあるとしたら、もっとこの状況を美しく表現できたかもしれない。
「…喉から先に食ってくれ」
男が沈黙に耐えかねて口火を切った。
というよりも、耳の中にこびり付いてしまいそうな音をどうにかしたかった。いつもは饒舌なハゲワシがペラペラと余計なことを話して気にならないのに、どうして今日に限っては、沈黙を続けようとするのだろう。
男から話を始めることは稀で、ハゲワシは力強いというよりもキョトンとした間の抜けた表情をしていた。
「いやだね」
ハゲワシは、嘴の形がわかるほどはっきりと否定した。
「じゃあ、目を抉ってくれ」
「いやだ」
磔刑に処されている体は、両手足を銀色の釘で刺されて動けないように呪術までかけられている。
腹部から下は、食い散らかされて脊髄と腸骨が辛うじてつながっている程度で、強めの風が吹くと煽られて軋む。太腿や大腿骨は足元に転がっている。まだ食べられる肉はついているが、お世辞にも見栄えがいいとは言えない。釘で束ねられて止められている足が千切れて骨ばかりの肉片としてへばりついている。
「じゃあ、頭を潰してくれ」
皮膚を肉ごと抉られ、体から毟り取られるたびに痛みが走る。剥き出しにされる血管や神経が、風が吹くたびに撫でる感覚が気持ち悪い。
いっそ一思いに脳天に大きな石でも落としてくれたら、それ以上苦しまずに済むのに。この大きなハゲワシなら、頭蓋骨を割ることなんて卵の殻と大差ないはず。上空から真っ直ぐ足元に転がっている石を落としてくれたら一瞬で終わるだろうに…そうして少しは食べやすくなった脳味噌を啄んでくれたら、余計なことを考えないで済む。
「いーやー」
ハゲワシが首を左右にブンブンと振って、自分の感情を表している。
「…」
これ以上、体をちぎられる痛みに声を上げる情けない声を聞かれたくない。
これ以上、惨じめな姿を晒したくはない。
これ以上、自分の酷い姿を見られたくない。
男に対して、死がこの場にある唯一の救いだとするならば、せめて、この鳥にそれ を託そうとしたが意向を汲み取ることなんてできずにあっさり否定される。
「オレは貴方が醜いとは思わないよ。恥ずかしいなんて思わなくていい」
「…」
神でありながら罰を受けている、死ぬことのできない男の体は、日没と共に再生されて朝日と共に鳥の餌にされる。もう幾度となく繰り返される日々の中で、ある時急にこのハゲワシが現れるようになったのは何回目の時だったか…
いつ終わりがくるかなんてわからない。悠久にこのままの可能性もある。肉袋が、大型の鳥によって撒き散らされて、体が繰り返し再生する。だから、毎日貪られるたびに慣れない苦痛を強いられる。
いっそ、痛みを感じない体にするか、固い嘴では啄めないほど岩のように硬い肉体にすべきだったと今更後悔をしている。
朽ちる事のない永遠の命なんて嬉しくもなんともない。こんなことなら、命が尽きる人間の方がましだ。そもそも、神に永遠の命を与えたことが間違っている。人類を作るとか命を作るとか…母とか父とか光とか。永遠に生き続けることが偉い事のように称賛されて、尽きることや朽ちる事が悪のように風潮されていけない。終わりを迎えることが恐ろしいことであるということや、闇や死が悪だという教えも良くない。「死にたくない」と縋り付く人間は決まって神に祈りを捧げる。
正義は数によって姿を変える。大衆や強者は正義とされ、少数や敗者イコール悪とみなされる。指揮者に背いた独奏者 は、指揮棒 で刺されて追放される。譜面に描かれ、それ通りに奏でられ続くオーケストラの音楽の中に生まれた神々もまた誰かを喜ばせるために演じられる道具でしかないことに気づかない。
「もしかして…貴方の陰茎と睾丸を食べたことをそんなに根に持ってるの?」
「持ってない。下品なことを言うなと言ってるだろ」
ハゲワシは笑っていた。
男は眉間に皺を寄せ不快感をあらわにしていた。ハゲワシは平気で下品なことをいう。男がその度に表情を崩すのを喜んでいるのだ。
「ねぇ」
ひとしきり笑ったハゲワシは声の温度を下げた。
譜面を世界として、五線譜を時間とするならば。音符は人間で、演奏者は神というのだろうか。一瞬の快楽のためだけに彼らは生産されて消化されてしまう存在だろうか…
「目を閉じる瞬間、耳から音が消える一瞬まで、オレが貴方を愛していたことを覚えていてね」
充満する鉄の匂いに、頭でもイカれたのかと思うだろうが、元々肉食の彼はイカれたりなんかしない。どこにでも自由に行ける大きな翼を持って、遠くへ飛んでいける体力もある彼が、毎日標高の高いこんな場所へ来る理由がそんな下らない事だとは認めたくない。
「ハゲタカの求愛かよ」
頬を膨らませ『そんなわけない』と否定してくれれば、幾分かはマシだったかもしれない。けれど、彼は変わらずに鋭い瞳でじっと見つめてくる。
「うん、そうだよ」
掠れたハゲワシの口調は真剣だった。
その真っ直ぐで偽りのない言葉を聞くたびに、心臓ではないどこか胸の奥の方が痛くなる。
感じるはずのない辛酸が、舌先に広がっていくようだった。
「明日誰かが貴方の脳味噌を喰って、うっかり死んだ貴方が再生したとして…そんな貴方にまたオレは恋をするよ」
貪り食われて、残骸になった自分の元にいつも現れる。隠すことなんてできない醜い肉塊になった体を見て、どうしてそんな言葉が言えるのか。いっそ簡単に手に入る餌だからとか、餌を探す手間が省けるとか言われたほうが潔い。
「そんな虚しい初恋を繰り返すのはもう諦めろ」
適当に流して『はいはい』と…
彼の言葉を間に受けずに返せたら良かったのだろう。
やはり、喉を潰してこれ以上何も喋らないようにしてくれないだろうか。
余計なことが喉まで出かかって飲み込む。その度に苦々しく思う。そのもどかしい姿を悟られてハゲワシは口元を緩める。
「ふふふ…今日は、やけにイライラしてるね」
何もかも覆い隠せない男が、言い淀んで躊躇っている。
それをわかって楽しんでいるからたちが悪い。
「悪趣味なやつ」
男はムッとへの字に口を曲げた。
そもそも彼は、他者が蹴散らした屍肉を貪る生き物だった。悪趣味なのは生まれつきだ。
「今更気づいたの?」
「…」
この舌先に広がる妙な甘さは、円舞曲にでも例えたら良いだろうか。
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