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ヘビイチゴの恋
遠い昔、姉とままごと遊びをしていたとき、口に含んだ赤い実。
名前にドクとつくから食べたらあかん、と慌てる姉の様子に驚いて、うっかり飲み込んでしまった。結局、毒はあったのだったか、なかったのだったか。
ただ今でも記憶の隅に、掴みどころのないあの味を、どこか追い求める自分がいた。
恋多き人生だったと、市ノ瀬紀 は語る。
ごく普通に生き、人並みに人を愛し、老いて死ぬ、そんな人生に強く憧れていた。周りの人間がそういった日常的な幸せを共有してくる度、自分のことのように味わい、追い求めた。
だからなのかもしれない、紀は「恋」というものに執着し、いっそ依存していた。
はじまりは保育園のころ、ツインテールがよく似合う女の子。小学生時代の国語教師、口元のほくろがセクシーだった。バイトの同期。サークルの同性の先輩。モナ・リザを見にパリへ行きたいと両親に懇願したこともある。
どれもが甘く心を痺れさせ、そして最後はささやかに、痛みすら伴うような酸味を残して散っていく、愛しく恨めしい恋たちだった。
楽しくはあったけれど、心のどこかはいつも空虚なまま。それが恋なのかもしれないと諦めを抱いた。
紀が居初音緒 に出会ったとき、これまでの恋のような甘さはかけらも感じなかった。今もそうだ。
第一印象は、卑屈なのに生意気な青年。
事実音緒は人からの反感を買いやすく、夜の繁華街で柄の悪そうな男に難癖をつけられているところを、紀が音緒に借金を催促するふりをして助けたのが出会いのきっかけだった。
音緒は開口一番、「なにが望み」と紀に尋ねた。
だから紀は考えた。なんのために音緒を助けたのか、この青年に頼めるような自分の望みはなにか。色々考えた結果、「友だちになってくれへんかな」と持ちかけた。
音緒は呆けた表情で口をパクパクさせ、しかしなにも言葉が出てこなかったのか、
「馬鹿じゃねえの」
悔しさ紛れに、なんとかぽつりとそう言った。
それから連絡先を交換して、都合の合う日に出かけるようになった。話してみると、二人は驚くほど価値観や考え方が似ていた。しかし好みは微妙に違っていて、それが逆に新鮮な刺激になり、話題は尽きることがなかった。
音緒といるときの紀は楽しく、なによりも安らいで、満たされていた。
「これからもずっと友だちでいてね」と言ったときの、音緒の心底不快そうな顔がトラウマになって数日うなされたくらいには、紀は音緒が好きだ。音緒も同じ気持ちだった。それゆえに「友だち」という部分を否定したのだと、紀は後に聞かされた。
日曜の昼下がり、二人並んで公園を横切る。食料の買い出しに行き、今となっては二人の住居になった家までの帰り道、そんなこともあったなと笑いあう。
春の訪れを感じる陽気の中で、木々は新芽の出かかった枝を風に遊ばせる。遠くで子どもの遊ぶ声がする。思い出話をするにはおあつらえ向きの日だった。
「なんであそこで告白じゃなかったんだよ」
呆れ顔の音緒が尋ねたから、なんでかなぁと口元に手をやりながら、紀は懐古したのだ。
「僕ね、ようさん恋してきたよ。……してきたと思ってたよ」
だからこそ、恋とはイチゴやザクロみたいに甘酸っぱいものだと思っていた。でなければ恋ではないなんて、おかしな決めつけをしてしまうほど。
それなのに。
音緒に対する想いは、紀の恋愛観を破壊するどころか、どろどろに溶かしきって紀までも燃やさんとするほどの、激しい熱を持っていた。
音緒に誰かが近づくだけで、下心ではないか勘ぐってしまう。音緒が誰かに笑いかけるたび、もう自分には飽きてしまっただろうかと悲観する。
加えて、自尊心が低かった音緒の、心の隙につけいろうとする人間の思惑に気づいてしまっては、なにも言わず彼を拐って誰の目にも触れない場所へ閉じ込めてしまおうか、なんて考えた始末だ。
今となってはお笑いぐさだけれど、当時の紀は正気を失ってしまいそうなほど、恋という病に侵されていた。
嫉妬も執着も独占欲も全てが恥ずかしくて、いっそこの気持ちを全部抱えたまま消えてしまいたい、とすら思った。そんな醜悪な感情が恋であるとは認めたくなかった。
「なのに君は、こんな僕を好きやとか言うんやもん」
けらけらとひとしきり笑って、つと遠くを見る紀の目は、どこか諦観したような色香をはなつ。その目のままで、「あんな真っ直ぐ言われたら、認めへん訳にいかんかった」と独り言のように呟いた。
「きっとね、それまでの僕の恋は予行練習やったんや」
「予行練習?」
「そう。たとえば女の子がおままごとするみたいに。あれって将来お嫁さんになることへの憧れを含みながら、自分がお嫁さんになったらって想像する練習にもなるでしょ。そういうものやったんちゃうかな」
少しだけ、音緒は背筋が粟立った。こういうときの紀は理論的すぎて、生き物じみた温かさを置き去りにしてしまったような表情をする。そしてその無機的な目でこちらを見つめてくる……。
「酷いよねぇ。僕の恋愛感情は全部お遊びでしたやなんて、卑怯すぎるよ。でも、あの甘酸っぱい素敵な恋をようさん食べて、消化して、成長したからこそ僕は本物の恋を掴めたんやと思うんよ。本物の、初恋を」
春先の、まだ冷たい風をうけた紀の指先が、ひやりと音緒の肌を冷やしながら絡みついてくる。その感触は身体の内側の、心臓まで握り込まれているようで、脳髄が低く振動するような心地の悪さを感じる。
蛇のようだ、と音緒は思う。
ほんの小さな虫ほどの大きさだった蛇が、少しずつ獲物を大きなものに変えて育ち、そして今、目の前で鎌首をもたげている。
人間すら喰らってしまえるほどの大蛇が。
(喰ってくれていい)
脳に警告する振動は、音緒にとっての性的興奮と大差ない。美食家で偏食家の紀が自分との関係を「初恋」と言ったのだ。これ以上にとろけそうな幸福がほかにあるだろうか。
もしかしたら、音緒はすでにこの蛇の毒牙にかかっていたのかもしれない。獲物として、じわじわと痺れる遅効性の毒を流し込まれたせいで、思考すらままならないのかもしれない。
でも、それでいい。同化してしまうほど紀に求められたい。
音緒は恋が嫌いだった。信じてもいなかった。自分に自信がなかった音緒に寄ってくるのはいつも、音緒の自我を押さえつけ、私物のように支配しようとする人ばかりだったから。
彼らは見映えこそ美しく華やかだったものの、腹の内は目すら背けたくなるような侮蔑や慢心で溢れていた。
唯一紀だけが下心なく接してくれて、心の底から嬉しかった。音緒も、紀によって初めて恋を知ったのだ。
どす黒い胸の内に焼かれ自己嫌悪していた、と後に紀から聞かされたとき、その誠意に強く惹かれ、欲情した。
恋程度でこれほどまでに心乱される純情な彼を、醜い情念で汚れ穢れさせたのはほかでもない自分なのだと、後ろ暗い罪悪感と征服欲がないまぜになって身体が疼くのだ。
「なんちゅう表情 してんの」
苦笑する紀の声で我に返る。手を繋いだまま、「もの欲しそうにしてもお家着くまであげませんからね」とからかわれたから、音緒はむくれて、
「じゃあさっさと帰ればいい」
と、紀の手を引きながら早足で歩いた。紀が弾けるように笑う。
これは毒かもしれない。毒じゃないかもしれない。
それでも二人にとっては互いの存在が、すでに自分の一部になっていて、
(すっかり毒されたな)
と、内心呟くのだった。
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