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第1話

 父は、酔うとよく母の話をした。母は肥立ちが悪く、僕を産むとすぐに亡くなった。母の顔は写真でしか知らないが、母については父がよく話すのでまるで面識があるかのようによく知っていた。  中学に上がってすぐの頃だったか。酔った父はいつも通り、もう何度も聞かされた母の話をする。酔っ払いの相手は正直面倒だが、祖母の手を借りながら男手ひとつで僕を育ててくれた父だから、無下にはできず適当に相槌を打ちながら聞き流していた。話の締めに、好きな子はいないのか、と父が言った。僕はいないと答えた。深い意味はない。単純に、好きな女の子がいなかった。ただそれだけの話だ。なのに、父がお前は早くに母親を亡くしているから、女性に対して理想のようなものを抱いているのだろう結論付けた。  その時は大袈裟だな、としか思わなかった。しかし、時間が経てば経つほど、だんだんとそうなのかもしれないと思い始めた。クラスの女子はさておき、妊娠している女性を見ると神聖で高貴な存在に見える。それから、子供連れの母親や年上の女性が神秘的に見え始めた。週刊誌の表紙を飾るグラビアに対しては、直視できない眩しさと、若さを安売りすることへの怒りや侮蔑の感情が交じって、複雑な気持ちになる。思春期だからと言ってしまえばそれまでだが、僕にとって父が言った「女性に対して理想のようなものを抱いている」という言葉はまるで呪縛だった。  ある日突然、会ってほしい女性がいると父が言った。最近、父は酔っても母の話をしなくなった。休日に出かけることも増えたし、すこぶる機嫌がよかったからなんとなくそんな気はしていた。正直なところ複雑な気持ちではあったが、酔い潰れて、母の名を呼びながら泣いている姿を思い出すと父に幸せになってほしいとも思うのであった。  佳代子さんとは、何度か顔合わせをした。小太りのおばさんで、決して美人というわけではないが優しくて笑顔が似合う人だった。5年前に旦那さんを交通事故で亡くしたらしい。父とは職場が同じで、同じ痛みを持つ者同士支えあって生きることを意識し始めたのだそうだ。  佳代子さんには大学生の息子がおり、再婚が成立すればひとりっ子だった僕に兄ができる。今日はその息子さんとの顔合わせだった。  顔合わせは、僕の家で行われた。  約束の時間を少し過ぎて、玄関のチャイムが鳴る。父が出迎えに行くと玄関が騒がしくなった。席を立ちそびれた僕は、リビングで落ち着かない気持ちでテレビを見ていた。やがて父を先頭に、佳代子さんと息子さんがリビングに姿を現した。 「こんにちは、直樹くん。お邪魔します」 「こんにちは」  佳代子さんが人当たりの良い笑みを浮かべて挨拶してくれるが、人見知りをする僕はどうしても返事が固くなってしまう。佳代子さんの後ろにいた息子さんと目が合うと、軽く会釈をされた。僕もすぐに頭を下げた。  全員揃うと、食卓に料理が運ばれる。料理と言っても酢飯に海苔、刺身、納豆、きゅうりなどの手巻き寿司の具材と味噌汁だ。台所には父と佳代子さんが立ち、僕と息子さんは先に席に座っていた。  名前は瑞樹さんというらしい。佳代子さんみたいに明るい人を想像していたが、無口無表情で冷たい人のように感じた。スラっと背が高く、モデルのような顔立ちをしている。耳にいくつもピアスをしており、こういう機会がない限り話すことはない人だろうな、と思った。向い合せで座ったが、お互いにテレビの方を向いており一度も目が合わなかった。  テーブルの上に手巻き寿司の具材が出揃うと、父と佳代子さんが席に着き、父によってテレビが消された。目のやり場がなくなり、仕方なく瑞樹さんの方を向いた。瑞樹さんと目が合ったが、すぐに逸らしてしまった。  顔合わせは滞りなく進んだ。最初に自己紹介をして、歓談しながら寿司を巻く。時々振れらた質問に答える以外、僕はほとんど会話には加われず3人が話しているのを見ていた。意外にも父と瑞樹さんは話が合うようだった。  食事が済み、佳代子さんが持ってきてくれたショートケーキを出そうとしていた時だ。瑞樹さんの携帯が鳴り、一言断って廊下に出て行った。少し待ったがなかなか戻って来ず、先に3人でケーキを食べた。ケーキがなくなっても、瑞樹さんは戻って来ない。様子を見に行って来いと父が言う。仕方なく、廊下へ見に行った。本音を言えば、部屋を抜け出せてラッキーだった。佳代子さんのことが嫌いなわけではないが、父といると、自分の居場所がないように感じていた。  廊下にはおらず、玄関を見るとそれらしき靴が見当たらなかった。まさか帰ってしまったのだろうか。靴を突っかけて玄関のドアを開ける。ドアのすぐ隣にしゃがんで煙草をくゆらせていた。 「あ」  僕を見上げ、瑞樹さんが声を上げる。すぐに携帯灰皿を出し、火を消した。 「そんなに時間経ってた? ごめんね、すぐ戻る」 「あ、いえ!! そのままでいいです」  とっさに、腰を浮かせようとしていた瑞樹さんを引き留める。きっと瑞樹さんも、あの空間に居づらかったのだと思う。引き留めてしまったものの、特に話があるわけでもなく、かといって自分だけ戻ることはできなくて、その場に立ち尽くした。 「お父さんが再婚するのって、どう思う?」  しゃがんだまま、瑞樹さんが口を開いた。黒髪が風に嬲られて表情は見えなかった。上の髪は長めで、耳から下は刈り上げ。いわゆるツーブロックだが瑞樹さんによく似合っていた。 「別にいいかなって思ってます。母が亡くなったのはもうずっと前のことだし、佳代子さんがいると父さん幸せそうだし」 「それは俺も同感。直樹くんがいいなら、俺もいいかな」  黙って瑞樹さんの顔を見つめる。瑞樹さんの意見に、どうして会って間もない僕の名前が出てくるのだろうか。 「俺はもう家を出てひとり暮らししてるからいいけど、直樹くんはこれから3人で一緒に暮らさなきゃいけないわけでしょ。俺だったら絶対嫌だなって思って。あ、君のお父さんが嫌って言ってるわけじゃないよ」 「大丈夫です!! わかってます」  風は冷たいが、じんわりと胸のあたりが温かくなるのを感じた。 「よかった。君とはうまくやっていけそう」  この家に来て初めて瑞樹さんが表情を崩した。歯を見せて、いたずらっぽく笑って見せた。 「やっぱり、煙草吸っていい?」 「あ、はい。どうぞ……」  ありがとう、と言いながら、瑞樹さんは早速煙草を出して火をつけた。未成年の僕を気遣って、さりげなく風下に移動する。 「ちょっとだけ弱音吐くけどさ。俺、いつも正月とかGWとか連休は実家に帰ってたんだよね。実家って言っても、母さんの住む狭いアパートなんだけど。これからは、ここに帰ってくるのかって思うと憂鬱。気が休まらなさそう」  それも、なんだかわかる気がした。瑞樹さんにとっては佳代子さんがいるところが実家なのだろう。とはいえ、ここは僕と父と、それから母さんの仏壇がある家だ。元々は他人の家なのに、実家だなんて思えるわけがない。  突然、背後でドアが開いてビクリと肩が跳ねる。佳代子さんが様子を見に来たのだ。 「あんたたち、こんな寒いところで喋ってないで中に入ったらいいのに」  僕たちと一緒に部屋に戻ってきた佳代子さんは、僕と瑞樹さんがいつの間にか仲良くなったと嬉しそうに父に報告した。  ひと月後、父と佳代子さんは再婚して佳代子さんがうちに越してきた。それから僕は、頻繁に瑞樹さんのところへ遊びに行くようになった。  週末のたびに押し掛けるものだから、最初は家に居づらいのかと心配されたりもした。それこそ最初の頃はお客様扱いで、ご飯を奢ってくれたり帰りは駅まで送ってくれたりしていた。最近は冷蔵庫にある材料で料理を作らされたり、帰りは見送りの気配すらない。だが、この距離感が気軽で、自分の居場所のような気がする。いつの間にか、瑞樹さんは僕のことを直を呼ぶようになっていてそれが嬉しかった。ある時には、大学の友達の宅飲みに混ぜてもらった。友人の前だけでする瑞樹さんの様々な表情を見て、もっと瑞樹さんのことを知りたいという欲が出た。  今日もまた、瑞樹さんのところへ遊びに来て帰ろうとしていた時だ。あ、直、と靴を履いている僕の背中に、瑞樹さんが思い出したように声を掛けた。 「俺最近彼女できたんだよね。だから、これからは毎週のように構ってやれないかも」  平然と言う瑞樹さんに対して何と答えたか。それから、どうやって家へ帰ってきたのか記憶が朧気である。  考えてみれば、容姿からして女子が放っておくわけがないのだ。第一印象は怖い人だったが、素の表情を知ると懐っこくて、魅力的な人だとわかる。恋バナはしたことがなかったが、これまでにも何人かの女子と付き合ってきたんだろうなと思う。あっさりと自分の居場所が奪われた気分だった。何よりも悲しかったのは、自分にとっては大切な時間でも、瑞樹さんにとっては迷惑だったのかもしれないとわかってしまったことだ。  瑞樹さんから今週どうする? とスマホにメッセージが入っていたが、返事をする気になれずに放っておいた。  おい  返事は  直  翌日、立て続けにメッセージが入り、着信があったが無視をした。自分が行かない方が瑞樹さんにとって都合がいいのだろうと思うと、返事をすることすら面倒だった。そうしたら佳代子さんに連絡が行ったらしく、喧嘩でもしたのかと心配された。  土曜日。いつもなら勉強を教えてもらうという名目で瑞樹さんのところへ遊びに行くのだが、今日は家で過ごすことにした。父と佳代子さんは日帰り旅行するとのことで、朝早くから出かけて行った。起きて、ソシャゲして、寝落ちして、を繰り返すうちに午前が終わろうとしていた。3度目の睡眠に入ってきた時である。その時は眠りが浅く、遠くで玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。宅急便か何かだろう。宗教の勧誘ならそのまま帰るだろうし、宅急便なら不在届を入れてくれるはずだ。起きるのが面倒で、ベッドの上で寝返りを打った。今度は、ガチャ、と玄関の鍵を開ける音がした。どうせ父か佳代子さんが忘れ物をして取りに来たのだろう。対して気にならず、深い眠りへ引きずり込まれていった。  すぐ近くでドアが開く音がしてビクリと身体が跳ねた。飛び起きると、瑞樹さんが部屋の入口に立っていた。 「どうして連絡返してくれないの?」 「え……」  びっくりして言葉が出てこない。どうして瑞樹さんがここにいる? 「連絡くれないから直接来るしかないじゃん」 「……ごめん」  なんとかひとこと絞り出した。寝起きの頭では事態が追い付かない。とにかく、瑞樹さんがすごく怒っていることは確かだった。 「なぁ、俺に彼女できたのそんなに嫌だった?」  ぽかんと間抜け面をしている僕に、瑞樹さんが言葉を続ける。 「別に、来るなって言ってるわけじゃないんだから、拗ねることないだろう?」  瑞樹さんに彼女ができたのが嫌だったのか。どちらかと言えばYesである。だが、そんな風に考えたことはなかった。だって、それではまるで自分が瑞樹さんのことを好きみたいではないか。   ああ、そうか。自分は義兄に恋心を抱いていたのか。 「せっかく兄弟になったんだから、仲良くしようぜ」  この人は、すごく残酷な人だと思った。

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