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Dear...

「光あれ」と神が作ったこの世界を譜面とするならば、空間を絶え間なく動き続ける風を五線譜だとして。何者にも縛られる事なく漂う匂いや音や言葉、塵や埃は音符になって届くだろうか。あたり一体に響き渡って聞こえる咆哮は、いつになったら彼に救いと希望を与えるのだろう。 「おい」  ルビーの入った宝箱をぶちまけた時のように、赤が生々しく一面を極彩色で染め上げる。足元には卵くらいの無機質な石には鮮血がこびり付いて、まるで巨大な宝石のように艶やかであった。  強風に煽られた黒い羽が宝石の上をかすめようとするものの、粘着に囚われて自由を奪われる。風が通るたびに、羽が次々と動きを止める。もしも、その様を楽譜に例えるなら、それはまるでリストのラ・カンパネラのようでもあった。難解な曲の詰め込まれた音符のように、あたりには羽毛が散乱している。  さっきまで、ひらひらと空から落ちてきた黒い羽の主は、黒い塊となって鈍い音を立てて地面にぶつかると、微かにバウンドして、そのまま動かなくなってしまった。 「おいっ」  繰り返し声をかけるが、応答はない。  荒れた山脈の山頂で磔刑にされている男が1人いる。天に近い荒れた山では、誰も男を訪ねてくることはなく、男は長い間この場で両手足を釘で打ち付けられたまま囚われている。  そして、毎日オオワシによって内臓を食われ続けるという拷問を受けているのだった。  ある時から、自称話好きのハゲワシが現れるようになった。ハゲワシは、オオワシが食い散らかしていったおこぼれを目当てにやってきて、目的そこそこに男を揶揄って日没近くに帰っていく。夜目のきかない鳥にとっては、それが限界らしかった。けれど、いつも日が落ちるギリギリまで男とハゲワシは話をしていた。 「あー…死んだか」  バサバサと大きな翼が風を切る音がして影ができる。  男は顔を動かすのに限界があったが、後方から目前へオオワシが姿を現した。オオワシは、黒い塊と化したものを鋭い爪で突いた。  ゴロンと力なく動いた。他力によって動いたそれは、どんなに突いても自力で動くことはなかった。仰向けにされたらしく、白くて細かい羽毛が微かな空気の動きに振動していた。 「やめろっ!」  男は思わず叫んだ。 「吠えるな」  オオワシは、冷たい視線をチラリと向ける。  足元の黒い塊はオオワシの半分くらいの大きさだった。それでも、普通の鳥からするとだいぶ大きめの猛禽類だ。 「死者をそんな風に扱うな!」  男がいうと、オオワシは眉間にシワを寄せた。 「黙れ罪人」  吐き捨てるようにオオワシは男を貶す。足元の黒い死骸を見下ろして鼻で笑った後、オオワシは男に近づいてくる。 「餌の分際で喚くな」  鋭い瞳は、男を自らよりもずっと下に…というよりも、もっと汚らわしく醜い存在を見るような表情で睨む。 「黙るのは貴様だ!」  激しく憤る男は、吠えるようにオオワシに向かって大きく口を開く。  その様が気に入らないオオワシは硬く鋭いクチバシで男の喉元を深く傷つけた。 「…ァッ!」  喉が切られて、息が止まる。 「あのハゲワシお前にとって特別なのか?」  不快極まりない嘲笑をされる。男はオオワシを睨んだ。  もしも、彼の心が果実や婦人用の真珠のネックレスのように脆かったら、もっと簡単に心を引き千切ることができたかもしれない。 「あいつの前でレイプでもしてやろうか」  オオワシの言葉に男は目を見開いた。口は動くが喉が切られているので、言葉にならない。  自らの喉が切られ、言葉になっていなくても男の勢いは止まらない。離れられないを知っていながらも、ガタガタと縛られている台が揺れるほど感情を剥き出しにしていた。  むしろ、今の方が遠慮なくオオワシを罵倒できて良いかもしれない。オオワシは弱ることのない男が気に入らなかった。  いつもは会話などろくにせずに、ただ餌としてしか見做していなかった男が、今日に限ってだけはこんなにも自分に向かって歯向かっている。威勢よく、切られた喉でも構わずに怒号を必死に吐き続ける男の姿にオオワシの心は怯んでいた。しかし、自らのプライドもあるオオワシはそんなことは微塵も悟られたくなかった。ただの餌でしかない男が、こんなにも憤り睨んでいる。失っていた光を取り戻したかのような様が心を苛立たせた。   「!!?」  歪んだ表情のオオワシは鋭いかぎ爪と、クチバシで同時に男の瞳を抉った。  途端に光を失い真っ暗になる。  まるで、餌袋のような男は、毎日慣れない激痛を強いられて、朽ちることも尽きる事もない命を日々憂いながら、過ごさなければならない。長い間、終わりのない拷問が続き、瞳に希望も生気も、何もかも失い、奪われるだけの時間をただ消費しなければならなかった。 「餌は餌らしくしていろ」  オオワシは男の耳元でそういうと、バサバサと飛び去っていく音がした。  皮膚を剥ぎ、肉が裂かれる。抉られて、貪り食われた挙句、気の済むまで体の肉を蹂躙される。ハゲワシは常々、オオワシが男を襲うのをやめさせようとしていた。最初は話し合いだったと思う。上空で、鳥同士が旋回しながら、何かをしていた。けれど、やがて些細な言葉の綾が徐々に溝として広がっていって、争いに発展していったのだと思う。ハゲワシは何も言わなかったが、上空から地面にボロボロの黒い羽が落ちてきていたから、かなり激しく争っていたんだと思う。今日に限っては、力加減を間違ったのか、それとも、もうこれ以上の争いは不要と判断したのか。  瞳を抉られて真っ暗な視界の中でも、鮮やかにこびり付いてしまった真っ黒な羽毛の塊が写っている。辺りに赤く散乱したのはハゲワシの血だった。  飛ぶために軽く進化したスカスカの骨では、生きてはいないだろうと思うほどの強い衝撃で、耳の奥から消えない鈍い音がした。何の音にも似ていない『ドム』という音は、パンパンに詰まった水分の多い袋を落としたかのような重さで落下して微かに跳ねた。  その時だ。    似た音がして男はそれ以上の思考をすることができなくなった。どうやら、脳天に何か大きな塊が落下して、頭が潰れたらしい。 「…」  次に男が意識を取り戻すと、目の前の光景は幻想や悪夢ではなかった。  …ああ、夢じゃない  男は目を閉じると、眉間のシワを濃く寄せたまま俯いた。男は酷い拷問を受けているが、決して死ぬことはない。内臓を抉られようと、頭を潰されようと日没と共に体は元に戻る。不死の体で終わりのない罰を受けているのだ。けれど、ハゲワシは違う。風に煽られた羽は1つ前の記憶と形を変えている。  硬く閉ざした瞳の奥が熱くなる。まるで酸を飲んだ時のように喉を突き、焼けるように痛くなる。内側から煮えるように湧き出る感情を抑えられない。  息を切れ切れに吸い込んで、口から一気に吐き出す。爆発しそうな思いを噛み締めた。目頭から焦げ付きそうなほど灼熱が込み上げて瞳を開ける。  そして真っ黒い塊を両方の瞳で見つめる。口を開いて、ハゲワシを呼ぼうとするが、彼の名前がわからない。 「…」  奪われるだけの拷問だったはずなのに、ハゲワシには毎日望んでもいないものを与えられた。男の望みは何1つ叶えない癖に、余計なことばかりする。それをお節介といえば、全くその通りだった。  例えるなら、甘ったるい菓子を頬に擦り付けられるような感覚だった。その菓子を押し付けるハゲワシは楽しそうで、毎日違う菓子を持参していたような気がする。男は、一切のそれを口にしないつもりだったが、ハゲワシの持参する菓子はどれも見栄えがよく、不意に口の中に入ってきてじんわりと舌先を甘く湿らせた。  なぜ男がハゲワシのそれを一切受け取らなかったかといえば、それは、とても儚くて脆いものだったからだ。初めから、終わっているかのような、既に消えかけそうなもののような…そんなものを認めてしまえば、苦しいことは決まっていたし、そんなものが希望や光だとは認めたくなかった。絆されていく心が弱っているようで嫌だったし、そもそもそんなことを思われたり、与えたりされるほど美しい見た目でもない。  毎日惨たらしく体が引き裂かれ、その痛みに顔を歪める。餌というだけの日常に縛られて自由も未来もない。その姿を隠すこともできない、救いのない惨めな男に抱くようなものではないと、男はハゲワシの甘い菓子のような言葉を強く突き返していたが、だんだんとそれが苛立ちに変わっていることに気づいた。その微かな苛立ちから、不覚にも小さな恥じらいが生まれてしまった。  個人からの目を気にして、ハゲワシに無様な姿を見られたくないと気にするようになってしまっては、もう惹かれる心を認めざるを得なかった。 「ァッ…」  だからあれほど、喉を裂いて、瞳を抉って、頭を潰してと…  散々彼にいっていたのに。  いっそ奪われるだけで自由すらない拷問が続けば、失うものは自分だけでよかったのかもしれない。  側まで近づいて触れることも、その傷ついた体を抱き上げることも、土を掘って弔うこともできない。ただ、羽毛が風に舞って、朽ちていく様をずっと見ていなければならない。岩にこびりついた血は赤黒く酸化して、どれくらい経てばそれは消えてなくなるのだろう…いや、なくなってしまえば、彼が必死に争って流した痕跡がなくなってしまう。果たして、それでいいのだろうか。最後まで、傷ついた体で必死に誰かのために戦った美しい血涙ではないだろうか。  誰にも見られることのない山脈の山頂で、彼にだけ芽生えた微かな羞恥心を、それが恋心の始まりだと自覚した。 「ッああああああ…っ!」  喉が潰れるほどの慟哭が天に届いて、ハゲワシの鎮魂歌になるだろうか。

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