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第1話 春は、

 嫌いだ。  君のことが。  ずっと嫌いだった。  雪のように桜が舞い散るなか、逢った時からきみが嫌いだった。  最初に声をかけられた時から、目が合った瞬間から嫌いだった。  誰ひとり分け隔てせず、笑いかけるきみ。  高いところで少し掠れる、その声が嫌いだった。  風を切って走る、若木のようなその脚が、嫌いだ。  骨ばった肩甲骨の見える、平らかな背中が嫌いだ。  伸びやかな四肢も、角度を描く手首や足首も嫌いだし、うなじの涼しさも嫌いだ。  知らない間に目が合って、こちらの視線を盗んでゆくきみが嫌いだ。  話もしたくない。  どうせすぐに赤面してしまうから。  きみとの距離の遠さに、安堵するのも嫌いだ。 「おーい」  視界の端にいつもいる、きみが嫌いだ。  呼ばれて、前髪の間から睨むと、きみがこちらへ駆けてくる。 「なぁ、好きなんだけど」  あどけない眼差しがまっすぐおれを射てくる。 「付き合いたいんだけど、考えといて」  おれはすぐ、真横に首を振った。 「そっか」  まるで何でもないかのように、涼しげなままの唇が嫌いだ。  にべもなくきみの紡ぐ言葉が嫌いだ。 「でも考えといて」  考えることなんて何もない。  きみが嫌いなことにかわりはない。  遠ざかっていくきみに、心臓の奥の方が鈍く痛む。  病気になって死んだら、きみのせいだと証明できるだろうか。  授業中に転んだおれが、保健室で先生を待っていると、きみが入ってきた。 「ちょっと触っていい?」  いいわけないだろ。  だけど、きみはそんなおれの前に屈み込み、顔を伏せると、静かに膝の傷にくちづけた。 「消毒。痛い?」  嫌だ。嫌いだ。入ってくるな。痛いに決まってる。  心臓が抉れそうに痛んだ。耳たぶまで赤くなるのがわかった。  きみのせいだ。きみがするから。きみがそういう風にするのが嫌いなんだ。  そう思うのに、きみは軽々とおれの築いた壁を越えてくる。  上気させた頬で太陽みたいな笑顔を見せて、そうやって笑うきみが嫌いだ。  雨の中、濡れそぼった子犬でも撫でるように、おれの髪を撫でるきみが嫌いだ。  嫌いだ。  嫌いだ。  嫌いだと思っていないと揺れる心が嫌いだ。  きみに触れるともうひと触れ、もうひと触れと思ってしまう。  熱を制御しきれなくて、疼いて痛くて仕方がなくなる。  自分のことが好きになれない。  きみが嫌いな自分のことが嫌いだ。  そっと触れただけで離れていってしまうきみに、手を伸ばしたくなる。 「いつか、そのうち、好きになってくれたらいいから」  そしたら桜狩りにいこう。  そしたら一緒にサッカーしよう。  夢ばかり語るきみが嫌いだと言っただろ。  そんな日は絶対にこない。  おれには心がない。人間の心がない。  きみを受け入れる度量も度胸もない。  なのに、どうしてきみを嫌いになれないんだろう。  一度でいい夢を、何度も見る。  きみに触れられたら、もう少しだけ触れてほしいと思う。  それが二度になり、三度になり、もっとたくさんほしいと思ってしまう。  少しだけ手を伸ばしてみると、次には抑えがきかなくなる。  笑顔のきみが、なぜだか泣きそうに見えて戸惑う。  そういう眼差しでおれを見る、きみが嫌いだ。  きみの吐息が嫌いだ。  首筋を嬲る息づかいが嫌いだ。  おれより先に眠ってしまう、きみが嫌いだ。  季節は巡りゆくけれど、桜の季節がきても、きみを嫌いなことは変わらない。  どこまで巡っていけば、終わりが見えるのだろう。  恋はあけぼの。とほろりと呟く。  まるで、ずっときみといる季節のようだ。  とろとろと眠りが訪れる。  おれは、きっと、ずっときみのことが嫌いだ。  =終=

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