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第1話
アリア、キスして
高校受験に失敗したあの日から、僕の居場所は無くなってしまった。
合格者の受験番号が並ぶ板の上に僕に与えられていた番号は無く、しばらくその場に
立ち尽くしてしまった。周りに飛び交う嬉しそうな声。泣いて抱き合う親子。
自分だけが孤独な世界に放り投げられた気分だった。
「自分の努力不足を呪いなさい」
鉛のように重たい脚を引きずって帰って来た僕に、お父さんが投げかけた言葉がこれだった。「お兄ちゃんはこんなに頭がいいのに、どうして昇(のぼる)はそんなに勉強ができないの?」隣ではお母さんがすすり泣き、兄は冷たい目で僕を見る。
ここはそういう家なのだ。一瞬でも慰めてくれると思っていた僕が悪い。
「ごめんなさい」何に謝っているのか自分でも分からない。
受験に落ちたことだろうか、この家に生まれてきてしまったことだろうか。
一生かけても償いきれないほどの罪を、僕はたくさん犯している気がした。
アリアに出会ったのは、ちょうど僕が絶望の淵にいた頃だった。
一目見た時から好きだった。宝石みたいに青い瞳と、赤茶色の髪の毛。穏やかな弧を描く眉と高い鼻筋。彼が毎日僕のそばにいてくれたらどんなに幸せだろう。
それから僕は、ずっとアリアと一緒だった。
僕が呼びかければ微笑んでくれる。「今日の空はどんな青?」決まってそう言う。
僕の話を聞いては、嬉しそうに微笑んだり、悲しんだり、ころころと表情を変える。
僕の居場所で初恋の人。
ゲームの世界で息をする、アリア。
高校にも僕の居場所は無かった。窓際の席について、ぼーっと外を見るのが日課。
突然視界がガタン、と揺れる。「わりぃ、間違えた」クラスメイトがにやにやしながら言う。
椅子の脚を蹴られたんだ。でも、これもいつもの事だから気にしない。
僕の視界には、すべてが色を失って古ぼけて見える。面白いとか、楽しいとかの感情がすっぽりと抜け落ちてしまったような感覚だった。
体育の授業で行われたサッカーのミニゲームは、僕のせいでチームが負けた。
「あいつがいなけりゃなぁ」誰かが舌打ちをした。僕もそう思う。
僕がいなければ皆幸せになれるのだ。親もクラスのみんなも、僕なんか消えろと思っているはずだ。
小さい頃から、何をするにも人の倍の時間がかかった。図画工作も給食を食べるのも遅くて、周りをイライラさせる達人だった。最初の方は、「ゆっくりでいいのよ」なんて先生が言う。でもさすがの遅さにしびれを切らして空気がピリつき始める。
貧乏ゆすりが始まり、ため息、舌打ち、頭をかきむしる音。それらが僕の不安を更に煽った。
総合病院で医者をしているお父さんは、何か脳みそに異常があるに違いない、と僕を色んな病院に連れて行った。でも、どこに行っても結果は同じで、ただただ要領が悪くてどんくさい健康な子供ということだけが証明された。
幼いながらに、大人になることが怖くてたまらなかった。こんな役立たずが大人になったらどうなってしまうんだろう。
そんな僕に転機が訪れたのは中学生の頃。
いつもの帰り道が工事中で、違う道を通って帰っているときに、
古びたゲーム屋を見つけた。僕の家ではゲームは厳禁だった。頭が悪くなるからとお父さんが決めたルールだったけど、僕は一度でいいからゲームをやってみたかった。
皆と同じ楽しさを共有してみたかったのだ。恐る恐るゲーム屋に入ると、眼鏡をかけたおじさんが小さい声で「いらっしゃい」と言った。見た目に反して中は綺麗で、最新のゲーム機から昔に発売されたような古いゲームがずらっと並ぶ。
その中に、彼はいたのだ。ゲームのパッケージに書かれた青い瞳の男の子。彼と目が合って、
僕の枯れた心の中に一滴、雨が降った。
「君の事、何でも知りたいよ」と、やわらかい書体でパッケージに書いてある文字を見て、
ほしい、と思った。家族の誰もかけてくれない言葉を、この男の子はくれるのかもしれない。
僕は急いで家に帰り、こつこつ貯めていたお年玉を引っ張り出し、再びゲーム屋へ走った。
ただならぬ様子で駆け込んできた僕におじさんは少し驚いていた。ゲーム機とソフトを一緒に購入しようとする僕に、「お金あるの?」と心配そうに聞いてくれた。
喋る間も惜しい僕はうんうん、と頷く。おじさんは僕にゲームの使い方を一通り説明してくれた。こういうのって普通、親が買ってくれるのかもしれない。お誕生日だから、とか、
クリスマスだから、とか。でも僕はそうじゃなかった。
何かを察したのか、おじさんは代金をちょっとまけてくれた。
家族が寝静まったころ、僕はゲームの電源を入れた。キュイーン、という甲高い音がして、ディスプレイがぱっと明るくなった。
ぼんやりと浮かび上がるタイトル画面。ゲームというものにちゃんと触れるのも初めてだったから、説明書とにらめっこしながら進めていく。
名前や性別、誕生日、色んな事を聞いてくる。なれないボタン操作に戸惑いながらも入力を終えると、彼が出てきた。
「はじめまして。僕、アリアって言うんだ」思っていたよりも滑らかに絵が動く。
「今日の空はどんな青?」優しい声で僕に語り掛ける。
選択肢が三つほど出てきて、僕は今日の空に一番近い色を選ぶ。そうすると、「僕もその色好きだよ」とアリアが笑った。他の人からしたら、そんなことで?と笑われるかもしれない。
でも、僕にとっては、僕の話に耳を傾けてくれて、微笑んでくれるだけで、泣きたくなるほどの救いだった。僕は夢中になって語り掛ける。日付が変わっても、ずっと。
後々知ったことだが、僕が買ったのはいわゆる乙女ゲームという奴だった。女の子が疑似恋愛を楽しむもの。そうとは知らず購入した僕だけど、僕にとってこのゲームは天国だった。
無条件で優しくしてくれる。舌打ちもしないし貧乏ゆすりもしない。
急に綺麗な顔が近づいて来たり、歯の浮くようなセリフを囁いて来たりもする。
でも、決して不快ではなかった。むしろ、鼓動が速くなる。自分の頬が熱くなるのを感じながら、アリアと話していた。
誰かに愛される、という実感を感じたことのなかった僕には、アリアの存在は凄く大きかった。
現に高校生になった今も、僕はアリアと一緒にいる。あのころと比べたら大きくなった僕と比べて、アリアはずっと変わらない。当たり前だ、ゲームなんだから、と思いつつも、
避けられない現実に悲しくなった。何年も使っているゲーム機は、傷が目立ちボタンの反応も少々鈍い。人間でいう「老い」を感じて切なくなった。
しおれた心にアリアが水を注いで、僕はようやく立ち上がれる。何回もやりこんでいるから、質問の内容も答えもアリアの台詞も覚えている。変わらぬままで存在している事を嬉しく思う反面寂しいとも思ってしまう。
人間って身勝手だ。あれこれ理想ばかり押し付けて、思い通りにならなければ怒りだしたり悲しんだりするんだから。「君の住んでる世界って楽しい?」アリアが僕に聞く。
「そんな事ない」という選択肢を選ぶと、アリアは少し悲しそうな顔をした。
そんな顔しないで、と思いながら、そんな顔させてるのは自分なんだよな、と複雑な気持ちになった。
「君は、僕に何をしてほしい?」アリアが聞いてくる。こんな選択肢あっただろうか。
自分の記憶から消えていただけか、と思い、並んだ選択肢を見つめる。
「キスしたい」「触りたい」「会いたい」全て選びたい気分だった。選べずに悩んでいると、「もしかして全部がいいの?欲張りさんだね」とアリアが笑う。ゲームの中の彼に笑われ、
恥ずかしくなった。
予鈴が聞こえる。僕はゲームをセーブして、教室へ戻っていった。
コンクリートのような色の雲が空を覆う日だった。
僕の部屋からアリアが消えていた。正確に言うと、ゲーム機が無かったのだ。
僕は全身から血の気が引いていくのを感じた。ベッドの中にも机の引き出しにも、どこにもない。ゲームを買ったことは、今までずっと親に黙っていた。見つかったら捨てられると分かっていたから。僕はまさか、と思ってリビングに降りていく。
勢いよくドアを開けると、僕以外の家族が集まって夕食の準備をしていた。
「なあに騒々しい」お母さんが眉間にしわを寄せる。
「僕の部屋、入った?」僕の問いに答えたのはお父さんだった。
「ゲームなら捨てた」
頭蓋骨にひびが入ったような気がした。「あんなものに夢中になって、高校生にもなって恥ずかしいと思わないのか?そうしている間にも、周りの人間との差がどんどんついていくんだぞ」テーブルに並んでいく料理はどれも湯気を立てている。
「お前みたいなやつの事、オタクっていうんだよ。気持ち悪い」兄が吐き捨てるように言った。
「お隣さんの○○君、この前の全国模試凄くいい成績だったんだって。この辺で有名な塾に通い始めて意識が変わったらしいわよ。やっぱりできる子は違うのよ、どこかの誰かと違って、」
お母さんが何かを言い終わるよりも早く、僕はテーブルの上のお皿をつかんで床に叩きつけていた。
皆の手が止まる。「お前、何を考えているんだ」怒鳴るお父さんに向かってもう一枚投げつける。ガチャン、という派手な音を立て、元の形が分からないほどに粉々に砕け散る。
「だったらどうして産んだんだよ、そんなに嫌いなら、育てるのが嫌なら、乳児院でも施設でもなんでも入れればいいだろ!!出来のいい方だけ育てりゃよかっただろ!!やったらできちゃったから仕方なく産んだんだろ!!」
一度叫びだしたら涙も言葉も止まらなった。
「いっつも世間体ばっかり!!人の目ばっかり!!そういうのばっかり気にして、僕の事なんかこれっぽっちも分かってない!!」目につく食器全て掴んでは割り、料理は家族に投げつけた。「お兄ちゃんばっかり可愛がって、僕の事なんか全然見てくれないくせに、なんにも知らないくせに、」
ワイングラスが砕け散って、僕の指先に傷を作る。大皿に盛られたグラタンも、ポテトサラダも、無残に散らかりゴミと化す。
最後に親が僕に笑ってくれたのはいつだろう。それさえ思い出せない。親の笑顔よりも、僕の脳みそに焼き付いているのはアリアの笑顔だった。
僕よりもずっと頭のいい人がプログラミングした、僕よりもずっと絵のうまい人が描いた、
僕よりもずっと感性のある人が考えたお話。所詮人の手によって作られたデータ。
それでも、僕にとっては恋人だったアリア。今頃、焼却炉で跡形もなく灰になっているんだろうか?
「なんで優しくしてくれないの、なんで同じ目線に立ってくれないの、なんで僕のすること全部否定するの、なんで、」リビングは泥棒が入った後みたいに滅茶苦茶だった。
家族みんな言葉を失って震えている。
「大っ嫌い、死ね、」勢いよくリビングの戸を閉め部屋に閉じこもって泣いた。
親が死んでも、ここまで泣けないんじゃないかと思ってしまう。
初恋の彼は、僕の親に殺されてしまった。
次の日、僕はいつも通り外を眺める。クラスメイトは今日も飽き足らず、僕の椅子の脚を蹴って来た。僕は立ち上がってそいつのもとに歩いていく。「なんだよ、」と怪訝そうな顔をするクラスメイトの足を思いっきり踏んだ。「いってぇ!なにすんだテメー、」と言いかけたクラスメイトは、僕の顔を見て口をつぐんだ。「次やったら殺す」周りにいた連中も静まり返った。きっと今、僕は凄く怖い顔をしてるんだろうと思った。
アリアが見たらなんて言うんだろう。所詮データの彼。恋人だった彼。もう二度と会えない彼。そんな顔しないで、って言ってくれるだろうか。
いや、そんな台詞はプログラミングされていなかった。考えてもむなしいだけ。
「今日は皆にサプライズニュースがありまーす」最近結婚して頭の中がお花畑の担任が言う。僕はシャーペンをチキチキ、とノックし続けた。
「なんと、転校生が来てるんでーす」えーっ、と皆が驚く。僕の机の端に虫が止まった。
シャーペンの芯で突き刺そうと狙ってみる。
「どうぞー入ってきてー」引き戸が開いた音に驚いたのか、虫は飛んで行ってしまった。
えー、かっこいー、という声がする。
「じゃー、自己紹介してもらおーかなぁ」担任が間延びした声でいう。
皆が転校生の言葉を待っている気配がしていた。
「今日の空はどんな青?」
心臓を思いっきり握りつぶされる。顔を上げるとそこには、思っていたよりもずっと青く透き通った瞳を持った彼。
少し泣きそうな顔をして、僕を見ていた。
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