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1 項の痛み

柚希(ゆずき)は何か心を揺さぶられるような長い夢を見ていた気がしたが、その内容を目が覚めたら全て忘れてしまっていた。 (あれ……、俺泣いてた?)    瞼が重く、眼球全体がひりひりと痛むようなこの感覚は沢山泣いた後の風情に近い。しかし頭にもやがかかったように上手く記憶を辿れなくて首をひねった。  日差しが燦々と差し込む見知らぬ窓から見えるのは雨の名残の残らぬ青空と10月の羊雲。  空調の利いた部屋の中、柚希の日頃大きな粉袋を軽々抱えて歩く締まった身体は、何故か一糸まとわぬ状態で陽光に照らされた真っ白な寝台上にしどけなくそこにあった。  意識は徐々に冴えてきたが、中学生の時バスケ部に入部した初日に先輩にしごかれて新入部員だけで校庭を走り回らされた翌朝感じた、あの階段を上ることすら辛い筋肉痛、あれに近い感覚だ。  懐かしいあの頃以来ついぞ感じたことのないとんでもない疲労と眩暈を感じて、柚希は眉間にしわが寄るほどぎゅっと眼を瞑った。 (むちゃくちゃ怠い……。しかもなんか変なとこばっか痛いし、重たい……)  第二次性にΩをもつ柚希は本発情に入ったあと直前の記憶が飛ぶこともままあったが、今回はとくに酷いようだ。 「えっと……。昨日……ってか一昨日? 午後早退して、次の昼にアパートまでが和哉(かずや)迎えに来てくれて、シェルターホテルまで送ってくれることになったんだっけ?(あきら)から電話あって……。それで……。それから?」  一つ一つ直前の行いを指差し確認するかのように呟いている間も、身体全身が色々な不調を訴えかけてくる。 脚の付け根に腰、そして口で言うには憚られるような場所、端的にいえば尻の辺りだが、じんじんと熱を帯びたように痛みを訴えてくることに慄いた。  勿論腰回りの色々が気になるのは当然であったが、しかしΩ男子の端くれとして真っ先に気にせねばいけないのは当然、ズキズキドクドクと断続的に続く項の鮮明な痛み。 (なんで?? まさか??? どうして???)  血の気が頭の天辺から足の先まで、なんならそのまま地面に吸い取られていくか如く、さあっと引いていくのを感じたのだ。  起き上がって視界に入った腕といい足といい。そういった艶めかしい経験の乏しい柚希ですら気がつくほどの、明らか情事の鬱血や噛み跡としてべったりとそこかしこに散らされていた。  項にそろっと手を当てると、ぬるりとした感触にびびりながら掌を目を眇めて見た。  刺激的な真っ赤なものが指の腹にベッタリと付いていたような気がして思わず慌てて布団で拭ってしまう。  そして流石にそんな不埒なことをしでかした自分に嫌気がさして項垂れると、また頸が痛たたっとなる。 (こっ、怖い。見たくない。いやでも、大事な事だ。早く……、早く確認しないと)  ひいひいいいながら背中も股関節もずきりずきりと痛む重たい身体を引き摺るようにして、柚希はバスルームと思わしき場所まで向かう。  すると驚いたことに中に背が高く逞しい男の後姿のシルエットが見え、迸る水音がしていた。 ( 誰かいる……。誰??)  怖ろしすぎて目を反らした拍子に洗面台の鏡に映った自らの上半身に夥しい噛み跡が残されていて震えが全身を駆け巡った。 (どうして? どうしてこうなった??)  Ωである柚希が最も注意を傾けねばならぬ項。震える指先でその場所をなぞれば一際鋭い痛みが返ってきた。  再び鏡に目をやり茫然と立ちすくみながら柚希はヒートに入る前の自分の行動を懸命に思い出そうとしていた。  バスルームの中ではいつのまにか水音が止み、かちゃりと扉が開く。 「……どうして、お前が?」  中から出てきた人物にへなへなと腰の砕けた身体を攫われるように抱きあげられて、有無を言わせぬ情熱的で熱い口付けを受けながら、柚希は唇を強張らせ、目覚めるまでの記憶を必死で手繰り寄せていた。

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