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第1話
電車の音というのは慣れても慣れなくても単調だな。
他の時間帯は知らないが、この朝の時間は自分も含めた乗客でびっしりと埋まった車内に辟易させられる。
(さっさと着いてくれよ)
この路線は住宅地が多い街を通るせいか、ブレザー姿の学生もよく視界に入る。
(ったく。もう少し車両を増やせばいいものを)
他の時間帯はいいからせめてこの今の時間だけでも何とかならないものか。
何度目ともしれない考えに行きついて、自嘲の笑みが漏れそうになったときだ。
「おっと」
人か電車かそれとも両方に酔ったのか、真新しい紺色のブレザーを来た学生が倒れ込んできた。
「すみません」
か細い声に思わず眉が寄った。
(ちゃんと食べてるのか?)
余裕のない朝はゼリー飲料で済ませている自分を棚に上げてそんなことを思っていると、その顔立ちに既視感を覚えた。
(何だ?)
その少年は淡い茶色の髪と瞳で、どちらかというと整った顔立ちをしていた。
だがそれだけだ。
カーブにかかったのか、電車が大きく傾いだ。
支えていた腕を持っていかれそうになり、慌てて力を込める。
「すみませ……ありがとうございます」
少年が俺を見上げ、電車が建物の陰から出たのか視界が一気に明るくなった。
少年の顔が鮮明になる。
横からの光線のせいか、少しだけ顔をしかめ、それが大人びた印象を与えているようになった。
(ああ。これは……)
それは一瞬。
端的に言うのなら、学生時代乗り合わせた電車内で夕日が当たった同級生の横顔にいっとき見とれてしまった、ただそれだけの話。
会話など数回したかしないか。
くっきりした鼻筋やわずかに開かれた唇、遠くを見つめる瞳。全てが一枚の完成した絵に見えた。
あの時俺は同級生に恋をした。
そうじゃなかったら、帰宅するなり授業で使わなくなったスケッチブックを探し出して、そこへ彼の姿を留めようなどと思わなかっただろう。
だが、俺は絵描きではない。
美術の成績は中の下の俺が、あの精緻なセピア色の世界を写しとることなど出来るはずもなく。
何枚も失敗作を重ねたそのスケッチブックは、ガムテープで封印した後、どこかへしまったはずだ。
今思えばあれが初恋だったのかもしれない。
その後、俺は大学へ進み、彼と顔を会わせることもなくなり、更に卒業後は同じ大学だった他の同級生とも会うこともなくなった。
(まあそれほど親しい訳でもなかったからな)
元来、人と向き合うのが不得手な俺は必要最小限の付き合いくらいしか出来なかった。
就職して十年も経つと周りから結婚を勧められるようになり。
乗せられるまま見合いをしたこともあるが、それが実ることはなかった。
(今じゃ、腫れ物扱いだものな)
結婚を勧めてくる輩は減ったがそれでもまだいた。
老後はどうするんだ、と言われて笑いそうになったのを覚えている。
(老後、ねぇ。……それまで俺、生きてるのかな)
いい年した大人、と言われる年齢にはなったが、老後と言われても今ひとつピンとこない。
「あの」
声を掛けられ、やっと我に返った。
「ああ。済まないね」
何と答えようか。
訝しげな様子から、自分はかなりの間フリーズしていたらしい。
(正直に言うか)
半分だけだが。
「済まないね。昔の同級生のことを思い出してしまって」
少年が自力で立てているのを確認して支えていた腕を外す。
「昔の同級生? もしかして俺に似てるとか?」
(物怖じしない子だな。……『俺』なのか)
てっきり一人称は『僕』だと思っていたので少し返答が遅れた。
「ああ。確か鴫原……」
「え、俺も鴫原だよ!!」
「は?」
自分でも間抜けな声が出た、と思ったときアナウンスが俺の降りる駅名を告げた。
(今日は参ったな)
会社へは行ったものの、朝の会話が頭から離れず、少し押してしまった。
『凄い偶然……ですね!!』
『無理に敬語にしなくていいよ』
俺は思わず口元を弛めながらドアへ向かった。
朝の慌ただしい時間にこれ以上の会話は必要ない。
そう思ってのことだったが。
『あ、あの、俺の父親って鴫原……』
『それはまた、会えたらね』
どこか焦った様子の少年にそう返して俺はホームへ降りた。
あれ以上聞きたくなかった。
当たっているとも違っているとも知りたくなかったのだ。
缶ビールを開けながらため息が漏れた。
(まさか、あいつじゃないよな)
一般的に男の子は母親に似る、と聞くから可能性は低いと信じたいが。
(だけどもしそうなら、早婚だな)
まあ、人の人生だからどうでもいいのだが。
ふ、と視線を反らした時、この1DKのアパートに例のスケッチブックを持って来たことを思い出した。
実家に置いておくのも何だし、折角一人暮らし出来るのだから、折を見て処分してしまおうと思っていたのだ。
(何で捨てられなかったのか)
あれから何度か引っ越しはしたものの、スケッチブックの封印が解かれることはなく、ほとんど惰性で持って来てしまっていた。
(だがそれも今日までだ)
俺は腰を上げてクローゼットの扉を開けた。
(左の一番上だったか)
見当を付けた箱を開けるとすぐに分かった。
四つの辺──リングで綴じてある箇所まで──をしっかりと布製のガムテープでしっかり封印されたスケッチブックは表紙が色褪せているものの、他は変わりないように見えた。
(ここまでするか)
十数年前の自分に愚痴りながら、できるだけ丁寧にガムテープを剥がす。
スケッチブックと同化するように色が変わっているガムテープを、剥がれないところはカッターを駆使して何とか外した。
(ったく。どんだけ)
ぱらり、とページが捲れる。
最初の数ページは瓶や花などの静物で、その次の次にその素描はあった。
鉛筆で大きく窓を取り、その外を見つめる人物。
(うわ。雑)
自分でも情けないくらいの出来だ。
何度も当たりを付けた顔の輪郭はかなり太くなっていて、更にそこに消しゴムをかけた後まであった。
肝心の顔は、というと。
(諦めんの、早いな)
二重の瞳を表現しようとしたのは分かるが、それも縁取りを当てただけ。
(ああ。確か全然似てなくて眼を塗る気にもなれなくなったんだったか)
不思議なことにしばらく見ているうち、そのときどんな気持ちだったのか思い出せてきた。
(この線も違う、って消して)
ページを繰るうちに最初は力が入っていた線がだんだん細くなるのが分かった。
(うん。ここまでくるとほとんど別人だ、って思って……)
最後に描かれたページは殴り描きに近い。
顔などなくなり、子供の落書きレベルになったそれに俺は指を這わせた。
(めちゃくちゃ悔しかったんだっけな。どうしてほんの少しだけでも似せられないんだ、って)
その落書きレベルの絵は強く斜線で消されてもいた。
(ほんとに。気ぃ短いな俺)
自分の未熟さに情けなくなってくる。
はあ、と息をついたときだ。
(あれ、あいつ……)
俺はそこで恐ろしいことに気付いた。
スケッチブックが床へ落ちる。
(待てよ。あいつ……鴫原悠哉ってどんな顔だった!?)
あれからかなりの歳月が経ったというのは分かっている。
それにしてもこれはない。
(いやいやいやっ、これはないだろっ!!)
眼を瞑り、学生時代のあの場面を思い返そうとした。
帰宅する途中、居合わせた電車内で夕日が──。
(綺麗な横顔だったんだ。本当に見とれてしまうような)
軽く傾ぎながら走る車内に夕日が当たる。
周りは同級生や他校の生徒達で占められ、つり革に掴まり外を見るあいつに──。
だが、何度試してもあのセピア色の光景が鮮明になることはなかった。
「……何でだよ」
俯いた俺の呟きが室内に響いた。
この日、俺の初恋は完全に終わってしまったと思い知らされてしまった。
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