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ピアスホール
始発の電車に乗るのは初めてだった。
高校進学を機に電車通学を始めて一ヶ月と少し。普段はもう少し遅い便を利用しているため、家を出てまず町の静けさに驚いた。
改札を抜けプラットホームに出ると誰もいなかった。温まりきっていない早朝の空気を吸いこむとそのまま生あくびが出る。電車が来るまであと数分。
スマートフォンを見ると通知が百件を超えていた。
俺が寝ている間に交わされた会話を流し読みしつつ、個人ラインをせっせと返しながら、いつものようにヒビの入った三人掛けの椅子も、一年中おしるこが売られている自動販売機も通り過ぎ、ホームの端までたどり着くとちょうど電車の到着を知らせるアナウンスがなった。
轟音と冷たい風を纏い、八両編成の銀色の電車がホームに滑り込む。車両が完全に停止するとぷすーっと息を吐いたような音と共にドアが開く。
乗り込んで一歩。
座席に乗客が一人。
その姿を見た一瞬。
目の前を過ぎていった他の車両には少ないが社会人や大学生と思しき青年など乗客の姿があった。だから、俺が乗る最後尾の車両にも乗客がいてもおかしくはない。
だけど、たった一人の乗客がまさか同じ高校生で、同じ学校の制服を着ていて、同じクラスの生徒だとは予測できなかった。
名前は、確か木村、だったと思う。下の名前はわからない。話をしたことはないが教室でいつも一人、イヤホンをして過ごす彼の印象は地味なやつ、その程度の認識しかない。要するに、気まずい。
一度降りて次の便に乗るか。
しかし振り返るよりも早くドアは閉じ、電車はゆっくりと進み出す。
俺はとっさに木村に背を向けて、壁に貼られた週刊誌の広告を眺める。派手な色で所狭しと書かれた文字は最近自殺した男性歌手にまつわる記事が多く、男性歌手の恋愛事情や金銭トラブルが自殺の原因とするものや、告別式の予定、さらに歌手のファンが後追い自殺をした記事など朝から気持ちの良くない内容ばかりだった。
それらを適当に読むふりをしながら俺はちらりと背後を覗く。
座席に座る木村はスクールバッグを膝の上に置き、大事そうに抱えていた。よく見れば、頭が力なく垂れており、車両の揺れに合わせて顔を隠す癖のない黒い髪も揺れている。もしかして、寝ているのか。
今のうちに一つ前の車両に移動しよう。
気配を消して、揺れる電車を歩く。体の軸を意識してまっすぐに。もうすぐ木村の前を通る。顔を上げるな。よし、このまま通り過ぎれば……。
その時、カーブに入った電車は大きく左にずれ、とっさに俺は右上のつり革を掴む。それは木村の真上にあるつり革だった。
まずい。
顔を下げると木村がぐんと頭を上げる。だが、木村は目を閉じたまま。やはり寝ているらしい。
安心したのもつかの間、徐々に後方へと傾く木村の頭は、やがてごんっと鈍い音を立てて窓にぶつかる。が、それでも木村は目を覚まさない。髪がはらりと左右へ滑ると木村の寝顔が現れる。
こいつ、こんな顔だったんだ。
眉毛はきちんと整えられており、鼻はやや高く、唇は薄い。一ヶ月以上同じ教室で過ごしたクラスメイトの顔だが、なんだか初めて見た気がする。すると遠くの山々の隙間から太陽が差し込み、木村を橙色に照らすと顔の側面から光沢の反射が俺の目に入ってきた。これって。
「ピアス?」
無意識に声が出た。すると、先ほどまでの深い眠りが嘘のように木村はすぐに目を覚まし、俺を認識するととっさに長い髪で耳を隠す。ガタンガタン。電車の振動が二人を揺らす。先に言葉を発したのは木村だった。
「見た?」
「……見た」
「そっか」
それだけ言うと、木村は諦めたのか耳から手を離した。長い髪が耳全体を隠し、ピアスは見えない。
「座りなよ」
あぁ、と木村と少しだけ距離を空けて座る。
電車は次の駅に止まるとドアが開く。が、誰も乗ることはなく、再び進み出す。車窓からは朝の青っぽい町が流れているが見える。
「あのさ」ふいに、木村は顔だけをこちらに向け「黙っといてもらえる?」とだけ言った。
「別にいいけど」
「…………」
「…………」
「早いね」
沈黙に耐えられなかったのは俺だった。
「え?」
「いや始発って、学校まだ開いてないから」
俺たちが通う高校の最寄り駅まではおよそ三十分。駅から学校までが歩いて十分。それでも校門の開門時間の七時半にはかなり時間がある。
「今日は学校行かないから」
「そう、なんだ」
「ちょっと用事があって」と木村ははぐらかす。
「そっちは?」
「俺は、なんとなく目が覚めたから」
「そっか」
会話が死に、沈黙の中で疑問が生まれる。
なぜ木村は学校へ行かないのか。なぜ学校へ行かないのに制服を着ているのか。なぜ始発の電車に乗っているのか。
しかし、そんなことよりも。
「それ見せてくれない?」
髪に隠れた輝きをもう一度見たかった。
木村は少しだけ考えて、髪を耳にかける。再び露わになった耳をよく見れば耳たぶに銀色の輪っかが一つ、そして耳の内側にもう一つ小さな銀色の球体が付いていた。他にもポツポツと窪んでいる。
「なんでつけてんの?」
「なんでかぁ」
えー、と苦笑いを浮かべる木村。
「かっこいいから、じゃダメ?」
「ダメじゃない、けど」
けど……。なんだろう。
電車は駅に止まり、誰も乗せないまま、また進み出す。
「初めては、好きな歌手の真似、かな」
木村はそう言うと表情が和らぐ。
「中学の時、いろいろあって学校行ってない時期があったんだけど、その歌手の歌を聴いて……ダサいけど、生きる希望みたいなのをもらったんだ。その人に自分を重ねていて。その人が生きているから自分も頑張れる、みたいな」
言った途端に恥ずかしそうに頷く木村は右耳についたピアスを指でなぞる。
「それにさ、ピアスって一ヶ月くらいつけてないと穴が塞がるからずっとつけたままにするんだ。だから学校でもバレないように隠して。そしたらなんか自信、かな。ピアスをつけてるって思うとなんか背筋が伸びるというか胸を張れるというか。強くなれる気がするんだよね。実際はただのクラスに馴染めてない陰キャだけど」
そう言うと、木村は首をすくめた。突然の自虐にリアクションが取れずにいると「あのさ」と木村が切り出す。
「僕も一つ聞いていい?」
「なに」
「なんでこの車両なの?」
木村はおもむろに顔を左右に振り、車両全体を見回す。この八両編成の最後尾の車両を。
「いいタイミングだね」
「どういう意味?」
「外見て」
俺が最後尾の車両に乗る理由。それは、絶え間なく流れていく街の中にあった。広大なグラウンド。真っ白な四階建ての建物。
「俺、本当はあそこの高校に通いたかったんだ」
それから俺はつらつらと話し出す。
今年の二月、俺は高校受験に失敗したこと。今通っているのは滑り止めに受けていた公立校だったこと。
受かっていれば自転車通学だった。だけど今は電車通学だ。この乗るはずじゃなかった電車で、俺が着るはずだった紺色のブレザーを纏う生徒たちを見るのが辛くて、俺はいつも最後尾の車両に身を隠すように乗っていた。しかし電車通学をしているといやでも紺色のブレザーは目に入ってしまう。
「だから俺は始発に乗ることにしたんだ」
正直に言うと、今通っている学校は何一つ楽しくない。話も、趣味も合わないし、苦痛だ。だけど、一人でいる勇気もなく、一生懸命に他人とつるんでいる。俺はいつも、他人を気にして、何かから逃げている。だから。
「いいな」無意識に言葉が溢れた。
周囲を気にせずいつも一人で過ごす木村のことが、憧れの人を真似てピアスを空ける大胆な木村のことが、自分は隠キャだと言える強さを持つ木村のことが、今は羨ましいとすら思えてしまう。
「じゃあ開ける?」
ピアッサー持ってるよ、と木村はおもむろにスクールバッグの中を探る。そういう意味じゃなくて、と否定するより先にいつのまにか近づいていた木村に横向いて、とほほを軽く押され、耳を差し出す形になる。
「痛くない?」
「痛いよ、でも一瞬」
木村は慣れた手つきでピアッサーを開封すると、俺の耳たぶはプラスチックの固い感触と冷たい感触に挟まれる。
「あっ……」
他人に耳を触られる感触が不思議と悪くなくて。変な声を出てしまったことが恥ずかしくて。これから耳に針が刺さるのが怖くて。
どくどくと心臓がせわしなく、頭の中がぐるぐるする中、耳元で囁かれた木村の「いくよ」の一声に全てを委ね、俺は目を瞑る。
ばちん。
激しい痛みが走り、次の瞬間には消えていた。残るのは耳に感じる小さな重みと初めて感じる違和感のみ。
「似合ってるよ」
ゆっくりと目を開けると木村が微笑み、俺はとっさに目をそらす。
車窓から見える景色が次第にゆっくりになり、電車は高校の最寄り駅へとついた。
「じゃあね」
「……うん」
立ち上がり、木村を背にドアへと進む。するとつり革広告が目に入り、俺の足は止まる。
そのままドアは閉じ、電車はまたも進み出す。
振り返り、電車から降りなかった俺を見て眉根を寄せる木村を見つめる。
わかった、気がする。
木村が学校へ行かない理由。学校へ行かないのに制服を着ている理由。そして、始発の電車に乗っている理由。
葬式だ。
週刊誌の広告には最近自殺した男性歌手の告別式が本日都内で行われると書かれてあり、その歌手の写真の右耳には木村と同じピアスが輝いていた。
きっと、木村が憧れていた歌手はこの人だ。そして、木村の言葉を思い出し、俺はまた木村の隣へ、先ほどよりも近い位置に腰掛ける。
「用事が終わったらさ、一緒に学校行かない?」
「……学校過ぎちゃったけど」
「どっか適当なところで降りて戻ればいいよ。まだ時間はあるし」
始発なんだから、と俺は言葉を濁らせる。
木村は言った。この人が生きているから、自分も頑張れる、と。では、憧れであり、自分を重ねていた相手が死んでしまった世界で木村はどうするのか。ファンが後追い自殺をした記事に木村の未来を見た気がした。
木村は俺の想像を知ってか知らずか、くすりと笑う。
「他校の生徒と乗り合わせるかもよ」
「別にいいよ」
「ピアス効果だね」
違う。お前ともっと話がしたいからだ。
この想いは言葉にならなかった。指先に触れる木村の体温。俺たちの手は重なり、まるで元からその形だったように指先を絡め、握りあう。沈黙の中、電車は進む。
ただ、ジンジンと耳が熱い。
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