従兄弟で８歳年上の陸兄(りくにい)は、僕の初恋だった。 健康的な小麦色の肌。すらりと高い背丈。柔らかくて明るい笑顔。陸兄の何もかもが突然、僕の中に飛び込んできた。一目惚れだった。 陸兄と出会った時のことは、今でもはっきりと覚えている。僕は店の手伝いをしていた。僕の実家は生花店で、僕が生まれる数年前に、生花店を開くことが夢だった母親の始めた店だった。 僕は長男で一人っ子だった。小さい頃は病気がちで、そのせいか成長も遅かった。身体も小さくてひょろひょろで。いつも青白い顔で無表情だった僕を、周りの子供は人形みたいで気持ちがわるいとからかった。小学校を卒業する頃には、僕はすっかり消極的で人見知りな子供に育っていた。友達もいなかった。 そんな僕が唯一楽しかったのは、店の手伝いだった。色鮮やかな甘い匂いの花々に囲まれていると、とても落ち着いたし、優しい気持ちになれた。世話をしながら、嬉しかったことや悲しかったことを、ただ淡々と花々に話した。花たちだけが友達だった。 あの日も、朝からずっと店の奥で黙々と作業をしていた。ちょうど、4月から中学３年生になる前の春休みだった。 僕は、市場から入荷したライラックの切り花を水揚げしていた。水の張ったバケツの中にライラックを入れ、先端から２、３センチのところをハサミで斜めに切る。それを無心でひたすら繰り返したていた。だから、母親に後ろから声をかけられるまで、誰かが店に入ってきたことなど全く気づかなかった。 『桐(きり)。こちら、従兄弟の陸人(りくと)くん。覚えてる？　陽人(はるひと)叔父さんの息子さんの。昔、会ったことあるでしょ？』 従兄弟？　陽人叔父さん？ 言われてもピンとこなかった。陽人が父親の兄なのはもちろん知っていたけれど。仕事でずっと海外暮らしだったから、僕が会ったのなんて小さい頃のほんの数回で、顔すらまともに覚えていない。 そんな状態だったから、陽人叔父さんの息子なんて、もっと覚えているわけがなかった。 内心、面倒臭いなと思いながら、作業の手を止めて振り返る。従兄弟だろうがなんだろうが、ほぼ初対面の人間と会話をするなんて、僕にとっては苦痛でストレスなだけだった。 でも、振り返った瞬間。 え。 目の前に現れた従兄弟に目を奪われた。 強い衝撃が、僕の頭を突き抜ける。痺れたような、奇妙な感覚。 それは、高揚するというよりも、むしろ驚きに近かった。 太陽みたいだ。 一瞬で、周りを明るくするような。その光で何もかも浄化させてしまうような。 こんな人がいるんだ。 『百合(ゆり)さん、会ったのは桐が小さい時だから、きっと覚えてないよ』 そう言って、陸兄がしゃがみ込んだ。僕と同じ目線で顔を合わせる。どきっ、と僕の心臓が鳴った。 『こんにちは。俺、陸人。桐の従兄弟だよ。よろしくな』 とっさに視線を逸らした。僕には陸兄の優しい笑顔が眩しすぎたから。俯いて、なんとか挨拶を返す。 『……こんにちは』 『それ、何の花？』 ちらっと、陸兄を見上げると、視線は僕の後ろにあるバケツの中に注がれていた。 『……ライラック』 ぼそっと答えると、陸兄はへえ、と物珍しそうにまじまじとライラックの花を眺めた。 『すごく可愛らしいね。俺、好きかも』 陸兄が再びこちらを向いた。 『俺さ、植物のこと全然わからないんだけど。色々教えてくれる？』 『……うん』 この時から。僕の一番好きな花は、ライラックになった。 「桐。そろそろ支度して」 母親の声にはっとして我に返る。手元にはちょうどラッピングが終わった、フラワーアレンジメントあった。木製のカゴに花を2種類だけ使って生けた、シンプルだけど数でボリュームを出し豪華に見せたものだ。 出かける準備で忙しい母親に変わって店番をしながら仕上げたアレンジだった。一輪ずつ丁寧に生けている内に、陸兄との出会いをふと思い出したのだ。 どうして思い出したのかはわかっている。この花籠が僕から陸兄へのプレゼントだからだ。きっと最後になるプレゼント。だから、僕らしくもなく感傷的になるのも無理はないと自分で思った。 アレンジに使った道具を片付けて、店じまいにかかる。今日は、昼から家族で出かける予定のため、店は昼までの営業だった。 慣れた手つきで店先に並べていた花を店内に運び入れ、入り口を施錠する。サインを『CLOSED』にひっくり返して、店内を軽く点検してから連結する自宅へと上がった。 自室のクローゼットにかけてあった、スーツ一式を取り出す。スーツを着るのは大学の入学式以来だ。陸兄が入学祝いに贈ってくれたスーツ。 陸兄に会ったあの日から。僕はずっと陸兄が好きだ。5年経って僕が大学生になった今でも、ずっと。 日本での就職を機に、5年前アメリカから単身で帰国してきた陸兄は、たびたび僕に会いにきてくれるようになった。 高校受験を控えていた僕に勉強を教えてくれたり、休日には色々なところに連れていってくれたりした。楽しかった。僕ひとりじゃできない、今までしたことのない経験を沢山した。陸兄といる時だけは自然と笑えたし、年相応にはしゃぐこともできた。 陸兄にとっては、生活ががらりと変わって大変な時期だっただろうに。子供だった僕はそんなことも気づかずに、陸兄が会いにきてくれることを手放しで喜んでいた。 それからしばらくして、陸兄が僕に構ってくれるのは、友達も趣味もない僕を心配した両親に、なるべく僕を気にかけてやってくれないかと頼まれていたからだと知った。 悲しかったし、傷ついた。 それでも。 『桐』 僕の名前を優しく呼ぶ声や、静かに微笑む顔。頭を撫でる手の感触。 それを失いたくなかった。それが例え嘘でも。陸兄が望んでしていなくても。 だから僕は、知らないフリをして陸兄に甘え続けた。 もうそれくらい。僕は陸兄に夢中で。引き返せないくらい、大好きになっていた。 でもそれも今日で終わりだ。 あと数時間後には、陸兄は他の女(ひと)のモノになる。 わかっていた。どれだけ僕が陸兄を想っていたって、報われることなんてないことを。それを承知で、いつか陸兄が離れていってしまう時までは、傍にいようと決めたのだ。 その時がついに来てしまった。それだけ。 だから大丈夫。覚悟はできている。 この長かった片想いに別れを告げること。 相手の人と会って、自分じゃ駄目なんだと思い知って、お別れにあの花籠を渡して。 それで、全てが終わる。 「桐ー、行くよー」 母親が階下から呼ぶ声がする。僕は急いでネクタイを締めると、部屋を後にした。 ★★★★★ 式が行われるホテルは、高級感の漂う外見の、突き抜けて背が高い建物だった。母親の話によると、中には見事なローズガーデンがあって、まるで外国の庭で式を挙げているかのような体験ができるらしい。 両腕に注意深く花籠を抱えながら、両親と一緒に親族の控え室へと向かう。 すでに到着していた親戚の人たちと一通り挨拶をしてから、両親に切り出した。 「陸兄のとこに行ってくる。花届けたいし」 あまり邪魔しないようにね、と釘を刺されながら、隣にある陸兄の控え室へ向かった。 扉の前で一呼吸する。大丈夫だ。ちゃんとできる。花を渡して、式に参加して、最後まで笑顔で過ごす。 コンコン、とドアをノックすると、どうぞ、と陸兄の声が聞こえた。そっと中を窺うようにして扉を開けると、椅子に座って携帯を弄っている陸兄の姿が見えた。他には誰もいない。 「桐」 陸兄は僕を認めると笑顔になって立ち上がった。陸兄は白いタキシードに身を包んでいた。髪もきちんと整えていて、いつもよりもっと大人びて見える。 ああ、陸兄が好きだな。そう自覚してしまう。 会う度に胸が疼いて、疼く度にもっともっと好きになる。僕の中が、陸兄でいっぱいになる。 これが最後なのに。最後にしなくちゃいけないのに。 「桐？」 はっと我に返る。慌てて笑顔で取り繕った。 「ごめん、なんでもない。今、大丈夫？」 「ああ、もう俺の準備は終わってるから」 僕は花籠を抱えながらそろそろと陸兄へ近づいた。すると、陸兄が花籠に気づいて目を向けた。 「花？」 「ん……これ、陸兄に。俺から」 そう言って、おずおずと花籠を差し出す。 今だ。言え。『おめでとう』って。笑顔で。言えたら、きっと最後にできる。忘れられる。 覚悟を決めて、顔を上げた。 「陸兄、おめ……」 はっと息を呑む。予想もしていなかった陸兄の顔に、言葉が続かない。 陸兄は、僕が見たことのない表情をしていた。驚いたような、動揺したような、それでいて、今にも泣きそうな顔をしていた。差し出した花籠をじっと見つめながら。僕の前では笑顔しか見せたこととない陸兄が。 笑顔で『おめでとう』を伝えて終わるはずだったのに。 ダメだ。 言えない。やっぱり、言えない。こんな顔の陸兄を見てしまったら。 「あの、陸兄、俺、もういくね」 早口に告げて、花籠を傍のテーブルに置くと、陸兄の返事も待たずに控え室を飛び出した。 そのままホテルのロビーへと走る。 僕はやっぱりまだまだ子供だ。この期に及んで、まだ陸兄を諦めきれない。 このまま帰ろう。とても式でふたりの幸せな姿を見る余裕がない。両親には体調不良だと嘘をつこう。 鼻の奥がつんとして、視界がかすむ。 今、このホテルでこんなぐちゃぐちゃの顔をして走っているのは、きっと僕だけだ。 とにかくこの場から逃げ出したい。 僕は、ただ必死に走った。 ★★★★★ 半ば呆然として、桐が飛び出していった先を見つめる。 何が起きたのか。あまりにも突然で、あまりにも衝撃的で、すぐに頭が追いつかない。 桐の置いていった、花籠に視線を移した。控えめだが存在感のあるアレンジがされた二種類の花。とても桐らしい、と思った。 この花たちを見た瞬間。全てを悟った。 桐の気持ちも。自分の気持ちも。 ライラックとミヤコワスレ。 アメリカから帰国した時、桐の両親から桐のことを任された。桐は、中学３年生にしては背も低くて、身体も細かった。色白で目が大きく、女の子みたいだった。人見知りの桐と仲良くなろうと、桐が唯一好きだと聞かされていた植物から突破口を開くため、花言葉を学んだ。 だから、この花たちの花言葉は知っている。 ライラックは『初恋』。そして。ミヤコワスレは『別れ』。 自分はどうしようもない馬鹿だ。なぜ今まで気づかなかったのだろう。 昔から、愛情というものに疎いことは自覚していた。自分から女を好きになったことはない。たいてい、相手に言われるがまま付き合い始めて、なんとなく終わってしまう。その繰り返しだった。 ただ、流されていた。でも、それで別にいいと思っていた。 そんな中、出会ったのが婚約者の彼女だった。小さくて、細くて、瞳の大きな彼女は、どことなく桐に似ていた。そこから親しみが生まれて、告白されてあっさりと付き合い始めた。結婚を望まれた時も、何も考えずに快諾した。彼女は自分が初めて惹かれた女だと思ったからだ。 だが、それは間違いだった。 彼女に惹かれたのではなく、彼女が桐に似ていたから惹かれたのだ。 それを、今さら自覚するなんて。桐に告白と同時に別れを告げられた今、この時に。 このまま、何もなかったかのように式を挙げる選択もある。桐が決めたことを、そのまま受け入れてしまった方が楽なのもわかっている。 でも。 嫌だ。 桐より８歳も年上の自分が、子供みたいに駄々をこねる。 このまま、終わらせるなんて嫌だ。まだ、始まってもいないのに。 「桐っ」 気づくと、走り出していた。 後先なんてどうでもいい。何を失っても、どんな犠牲があろうと、どうだっていい。 桐さえ、手に入るなら。 こんなに全速力で走るのは久しぶりだ。桐のことならわかる。あいつはきっと、このまま逃げ出してしまう。 真っ直ぐにロビーへと向かった。視線の先に、正面玄関から外へ飛び出していく桐の後ろ姿が見える。 後を追ってホテルを飛び出した。 絶対に逃がしたくない。 今ならはっきりとわかる。 ライラックをバケツに浸しながら、不機嫌そうに振り返る桐の顔。色白の肌に大きな瞳。 桐の背中を目指して全速力で駆ける。腕を思いっきり伸ばして、桐の左手を掴んだ。桐が急停止して振り返る。その顔は涙でぐしゃぐしゃだった。 「陸……兄……どう……して……？」 息を切らせながら必死で言葉を紡ぐ桐を、思い切り抱き締めた。 そう。俺が好きになったのは、こいつだけだったんだ。 こいつが、俺の初恋だった。 【完】