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第1話

 自分の恋愛対象者が男であることに気づいたのは、もうずっと昔。悠輔がまだ中学生の頃だった。あの日は朝のお天気お姉さんが「傘を持ってお出かけください」と、雨も降っていないのに傘を開きながら言っていたこともあり、傘を持って学校へ向かった。お天気お姉さんの言った通りに下校時刻にはしっかりと雨が降っていて、ちゃんと忠告を聞いておいて良かったと思ったことを今でもはっきりと覚えている。  傘をさして歩き出すと、しばらくしてドスッと誰かがぶつかって来た。ビックリして振り返ると、そこには同じクラスの辰巳隆文がずぶ濡れになって立っていて、悠輔は慌てて傘を隆文の方へと寄せる。 「これじゃ浜名が濡れる」 「俺よりすでに辰巳の方が濡れてんじゃん」 「まさかこんなに降ってくるなんて思ってなかったし。どうしようかと立ち尽くしてたら浜名が傘さして帰るとこが見えたから思わず走った」 「そうだったんだ」 「ということで、悪いけど途中まで一緒にいい?」 「風邪引かれても困るし、嫌だなんて言わないよ」 「サンキュ」  人付き合いが得意じゃない悠輔は、クラスに友達という友達もいなくて隆文と話したのも数えるほどしかなかった。そんな相手と一本の傘に肩がぶつかるほどの距離で歩いていることが不思議な感覚で、何度も隆文へと視線を向けてしまう。その度に見える隆文の横顔が雨に濡れているせいかとても綺麗で、胸の奥がトクンと音を立てた気がした。  別に特別なことがあったわけじゃない。雨が降っていてたまたま同じクラスの奴が傘を持っていたから同じ傘に二人で入ったという些細な出来事だったはずなのに、悠輔にとっては自分の人生を大きく変える出来事となった。  気がつけば隆文のことを目で追いかけている自分がいる。目が合えばドキドキして窓の外へと視線を移してしまう。初めはこの気持ちが何なのかわからなくて自分がおかしいのかもしれないと思うこともあったけれど、これが恋だと気づいたときに全てが繋がった。 「よう、久しぶり」  仕事帰りのスーツを身に纏った姿で待ち合わせ場所である同窓会の会場へ悠輔がやって来ると、同じくスーツ姿で来ていた隆文が声を掛けてきた。相変わらず綺麗な顔をしていて、一瞬であの頃の気持ちが溢れ出してくるのを感じる。 「久しぶりだね、辰巳くん」 「高校卒業して以来だから、十年ぶりだな」 「そうなるね」 「高校の卒業式で十年後に同窓会しようって言ってたけど、まさか本当に実現するなんてな」 「本当にね」  十年ぶりに再会した隆文はあの頃と何も変わってなくて、気まずさを感じさせることもなく話してくれる。それだけでも悠輔の心は救われていた。  本当は同窓会の通知が届いた時、参加するかしないか悩んでいた。会ってしまえば忘れようとしている想いが消せなくなってしまうとわかっていたからだ。それでも会いたい気持ちが勝ち、今ここにいる。そして、まだ自分の中にある隆文への想いがあることを沸々と思い知らされていた。  高校時代の同級生がどんどん集まってくると、いつの間にか隆文の周りは人で溢れ返っていて、悠輔は遠くからその輪の中心にいる隆文を見つめていた。自分は学生時代と何も変わっていなくて、思わず笑いそうになるのを必死で堪えていると、ふと視線がぶつかった。 ―えっ……?―  まさかそんなはずはない。きっと気のせいだと煩く動き出した心臓を抑えるのに精一杯な悠輔は、近くを通りかかったウエイターの男の人に飲めないにも関わらずウィスキーを注文した。すぐにグラスに入ったウィスキーが手元に届き、それをグイッと飲み干す。  あっという間に酔いが回り、火照った体を冷やそうとテラスへ出て風に当たりながら、さっきの視線を思い出していた。体の奥がドクンと疼く。まるであの日の出来事が蘇ってくるような感覚……。  同じ高校へ進学した二人は、高校三年のクラス替えで同じクラスになった。入学してからも、目立つ存在の隆文のことは探さなくても当たり前のように飛び込んでくる。気持ちを伝えなくても、見つめているだけで十分だと思っていた。高校生ともなれば、色々な恋愛もするし、隆文が誰かと付き合っていることも知っている。苦しくないわけじゃないけれど、自分が恋愛の相手になれないことはわかっていたし、それを望んでいたわけでもない。ただ、好きだという想いだけがそこにあった。  同じクラスだとわかった悠輔は、逸る気持ちで教室へと向かってドアを開けた。一番乗りだと思っていたそこには、もうすでに人がいて、ドアへと振り返る。 「おっ、浜名じゃん」 「辰巳くん……」 「やっと同じクラスだな」 「そ、そうだね」 「よろしくな」 「うん……、よろしく」  同中だった二人の何でもない会話。それでも悠輔にとっては堪らなく嬉しくて、同じクラスになれたことも、自分の存在を覚えていてくれたことも全てが喜ばしい事だった。  同じクラスで過ごす日々は楽しくて幸せで、一番近くにいるわけではないのに、行事ごとがあると必ず隆文は悠輔を輪の中にさり気なく入れてくれる。そんな優しさも好きだった。  そんなある日、あの日も雨が降る放課後の帰り道で、悠輔は傘をさしながら歩いていた。学校の近くにある公園へ差し掛かった時に見つけた二つの影……心臓がグッと締め付けられる。そこで見つけたのは、隆文と二年の夏から付き合っていた月村さんという彼女の姿だった。雨の中、一つの傘で肩を寄せ合っている二人に、この時初めて嫉妬という感情が溢れた。それはきっと、あの中学の時の出来事が頭を過ったからだ。  見ていられない……。早くここから立ち去らなきゃ……そう思うのに体は思うように動いてくれなくて、今にも流れてしまいそうな涙を奥歯を嚙むことで耐えるのに必死だった。  しばらくすると、寄り添っていたはずの二人が離れていく。月村さんは足早に赤い傘を揺らしながら去って行った。雨に打たれながらその場から動かずに月村さんの背中を見つめている隆文の姿から目が離せない。気がつけば隆文へと歩み寄り、自分の傘で覆っていた。 「浜名……」 「ほらっ、風邪引いても困るし」 「ははっ、何か前にもこんなことあったよな」 「そうだっけ?」  覚えていてくれたことが嬉しいのに、惚けた振りをする。そうすることで、今のこの状況を平然にやり過ごしたいという自分なりの考えがあったんだろう。 「俺ん家、ここからそんな離れてないし、雨止むまで寄ってく?」 「えっ? けど……」 「無理ならここから走って帰るし」 「じゃあ、とりあえず家まで送ってくよ」 「サンキュ」  あの時と同じように一本の傘に肩が触れそうな距離で並んで歩いていく。一つ違うのは、間違いなくあの時よりも濡れる範囲が増えていることだ。中学の頃よりもお互いに背も高くなったし、体もそれなりに大きくなっている。 「ここ、俺ん家」 「そっか」 「どうする?」 「じゃあ、雨が止むまでお邪魔させてもらおうかな」 「OK」  慣れた手つきで鞄の中から鍵を取り出すと、玄関のドアを開けて中へと招き入れられた。すぐそこにある脱衣所からタオルを持ってくると差し出される。受け取って濡れている場所を拭くと、そのまま隆文の部屋へと通された。 「適当に座ってて。何か飲み物持ってくる」 「あっ、ありがとう」  一度部屋から出て行くと、程なくしてコップを二つ手に持って戻って来た隆文は、それを目の前のテーブルにそっと置くと、ベッドに背中をくっつけて座っている悠輔のすぐ隣に腰を下ろした。  中学の時とは違う男らしさが増している隆文は、濡れたままの制服のシャツが薄っすらと透けていて、少し肌色が見えている。目のやりどころに困ってずっと自分の足元へ視線を落としていると、 「このままじゃ風邪引くかもしれないし、俺ので良かったら服貸そうか?」  と、問いかけられた。 「俺より、辰巳くんの方が着替えた方がいいと思うよ」 「そう?」 「だって、ほらっ、シャツが透けてる……」  見ないように膝に置いていた手を挙げて隆文のシャツに指を向けると、「マジか⁉」と確認して「ガチじゃん」なんて一人でツッコんでいる。 「早めに着替えた方がいいよ」 「じゃあ、悪いけど着替えさせてもらう」  そう言って立ち上がると、クローゼットを開けて中からパーカーを取り出し、こちらに向かって一枚ヒョイッと投げてきた。 「うわっ」 「おー、ナイスキャッチ」 「ビックリしたぁ……」 「俺だけ着替えるのもあれだし、浜名も着替えろよ」 「うん……」  渡されたパーカーをギュッと握りながら、ドキドキする胸を隆文に見えないように抑える。そのパーカーから香ってくる隆文の匂いに全神経が持っていかれそうになるのを、何とか耐えながらふいに隆文へ視線を戻すと、シャツを脱いで露になった姿が目に飛び込んできた。 「キレイ……」 「はっ?」  無意識だった。見たまま感じたままの言葉が口から出ていて、驚いたように悠輔を見ている隆文に思わず顔を逸らしてしまう。  間違いなくおかしいと思われたに違いない。今まで誰にも気づかれないようにしてきたのに、今のは完全にアウトだ。 「そういえば、浜名っていつも俺のこと見てるよな?」 「えっ?」 「気のせいかと思ってたけど、目が合えばすぐ逸らすし、今だってこんなに顔赤いし……」  覗き込んでくるほど顔が近くにあって、もう隠せないくらいの距離に隆文がいて、心臓がドクンドクンと大きく波打っている。 「俺、さっき香里に振られたの。見てただろ?」 「うん……」 「実はかなりショックが大きいっていうか、それなりに本気だったっていうか……」 「うん……」 「くっそっ、別に興味がないわけじゃないのに……」  近かった距離が少し離れていくと、何となく胸が苦しくて、悠輔は手を伸ばしていた。その手が、隆文の腕を掴んでいる。 「知ってるよ。いつも見てたから。辰巳くんが月村さんのことちゃんと好きだったってこと、俺は知ってる」 「浜名……」 「大丈夫だから。苦しいなら、俺が忘れさせてあげる」  掴んでいた腕を自分の方へ引き寄せると、悠輔はそのまま隆文に唇を重ねていた。誰かの代わりでもいい。もう何がどうなってもいい。今、隆文が愛しくてどうしようもない。そんな思いで、悠輔は隆文の体をそっと倒した。  酒で火照った体が風にさらされてちょうどいい温度まで戻って来た頃に、空から雨が降り出した。だからといって戻るにはまだ酔いが醒めていなくて、そのまま雨に打たれていると、ふと雨脚が途切れる。  顔を上げると、そこには傘で悠輔の体を覆うように立っている隆文の姿があった。 「辰巳くん……」 「ほらっ、風邪引くと困るし」 「それ、どっかで聞いたことある言葉だね」 「懐かしいだろ? 何で浜名といる時はいつも雨なんだろうな」 「さあ……」 「あの日も雨だったよな……」 「うん……そうだね」  思い出すように、視線を遠くへ向けて隆文が言った。きっと今、二人は同じ日の同じ出来事を思い出している。忘れられない肌のぶつかり合う感覚と、初めて感じる快感に夢中になったあの日のことを……。 「あの後から、俺を避けてた?」 「そんなことないよ」 「俺、ずっと浜名に会いたいって思ってた」 「どうして?」 「あの時、お前がちゃんと俺を見ててくれてたから。何か救われたんだ」 「大げさだよ。俺はただ、辰巳くんのことが大好きだっただけだから」 「知ってるよ。だから今日会ったら確かめようって思ってたんだ」 「確かめるって何を?」 「まだ俺のこと好きかどうかってこと」 「まさか……。そんなことあるわけないよ」  十年という月日で色々なことが変わった。変わらなかったのはそう、隆文への想いだけ。これだけが行き場のないまま彷徨っていた。 「もう、好きじゃない」  断ち切れない想いを振り払うかのように告げると、悠輔は背を向けて歩き出す。その腕が、勢いよく掴まれ引き寄せられた。 「俺にすればいいのに……」  耳元で切なげに告げられた言葉に、耳を疑った。あの雨の日、眠っている隆文の髪に触れながら、自分が伝えた言葉だったからだ。体を重ねても心は変えられない。わかっているから、言った後で思わず笑っていた。  これはきっと雨の悪戯で、雨が止めば消えてしまうだろう。だけど悠輔は、引き寄せられた腕の中に身を委ねることを選んだ。

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