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第1話
春になるといつも思い出す。幾本も立ち並ぶ満開の桜の花びらが、まるで薄紅の雨のように降り注ぎ、その中で声も上げずに泣いていた小さな子供の姿を。
甘く花の香りを持ったバース性も分からぬその子供に、凍りついた僕の心が動かされた懐かしい思い出。
あれはそう――まだ僕が人形と自分で揶揄していた、感情も意思も押し殺し淡々と生きてた少年時代。
医師から政界に進出した父の伴で市内のどこかに連れられた時の事。そこは個人宅というには広大で、純和風の平屋建ての屋敷と満開の桜が咲き誇る庭が印象的だった。後に父の政治家進出を後押しした人物だと知る。
僕は薄い青の空に白くたなびく雲の中を舞う桜の幻想的な様子をぼんやりと眺めていると。
「敬夜 」
父の静かで重厚な声が耳に届き、抑揚なく「はい」と返して歩きだす。
振り返った僕の眼前には父の背中と、その先の碗木門 のある平格子の引き戸の左右に、よく京都の街で見かける竹でできた犬矢来 の緩やかな曲線の囲いを認めた。
雁掛けに並べられた飛び石の上を歩き、行き止まった僕の目の先には”紫藤 ”という力強い毛筆の文字で書かれた表札があった。
洋風な建築で育ってきた僕の目にはとても新鮮に映った。
父が格子戸を滑らせ開くと広い三和土 があり、上り框 の艶光りする上に和装姿の老女が僕等を出迎えるように正座で佇んでいた。
「いらっしゃいませ、宮城 様。夫も今かとお待ちしてましてよ」
「それは申し訳ございません。翁の所にご案内をお願いします」
父はにこやかに老女と会話をしているが、彼女の目が僕の存在に気づいたように少しだけ開かれる。
「あら、宮城様のお子様ですの?」
「ええ、上の敬夜です。敬夜、ご挨拶しろ」
「初めまして、宮城敬夜と申します。お見知りいただければ幸いでございます」
僕は四十五度に半身を倒して老女に挨拶をする。
「そう、敬夜君というのね」
何故か老女は少し顔を曇らせ、寂しげに微笑んだ。
「それじゃあ、暫く話をしてくるから大人しく待っていなさい」
「はい。分かりました、父さん」
応接として使用している和室に通され、老女が淹れてくれた日本茶を飲み込んだ時、おもむろに父は立ち上がり僕を見下ろすようにして告げる。
それに応えるように僅かに頷くと、了承したと受け取ったのか、父は来た時に通った回り廊下とは反対の襖を開き、老女と共に出て行った。これまでにも何度か訪れているのだろう。
僕は手で包んでいた茶碗を漆塗りの茶托に乗せ小さく溜息を吐く。父の交友関係など今に関係がなくなる。
こうして父の命令に従っている振りをしているが、あと数年して自立できるようになれば、僕は父の元から離れようと考えていた。
父は僕がアルファだと信じきっている。まだバース判定もしていないというのに勝手なものだ。
今は従順な人形のふりをしているが、ひそかに投資で貯蓄を増やしているし、最悪自分の体を使って稼いでもいい。
宮城という家から出て、父という束縛から解放されればそれでいいのだ。
決して誰にも邪魔させない。
膝の上に置いた拳を固く握りしめ、唇をきつく結び決意を噛み締めていると、回り廊下のほうから細い鳴き声が耳に届く。
「……仔猫の鳴き声……?」
ふと、微かな声音に結んでいた唇が綻び、疑問の声が漏れる。
もしかしたら、どこからか入り込んできた仔猫が迷子になって親猫を探しているのだろう。
そう自己解釈をして、すっかり冷めてしまった湯呑茶碗に手を伸ばす。
温めの温度で淹れられたお茶が舌の上で甘く転がる。程良い渋みが喉を通ると爽やかさが口の中に広がっていく。余り日本茶を飲む事はなかったけど、そんな僕にでも茶葉は良い物であると分かった。
正しい姿勢を崩さぬまま、心はお茶の香りで寛でいると、再び細い声が聞こえてきた。
今度は注意深く耳を澄まし聞いてみる。これまで仔猫の泣き声だと認識していたけど、よくよく耳にするとそれは人の声のようにも聞こえた。そう、とても幼い子供の声。
「まさか。この家には幼い子供はいないはず……」
かつて紫藤の家には息子がいたが、彼はオメガだったために家を継がず、現在は海外にいると父から聞いていた。
「だとすると、この声は一体……」
居ないはずの声。不意に好奇心が湧き、僕は静かに立ち上がると、回り廊下側の襖をそっと開いた。
薄く開いた隙間から目だけを出し左右に動かす。廊下に人影すらなく、それを認めた僕はそろりと廊下に体を滑らした。
周囲に首を巡らせ声の元を探す。人が生きている気配がないほど静寂に包まれたおかげで、声の場所は悩むことなく見付けることができた。
とはいえ、他人の家を好き勝手に動いていいものかと思案する。だが直ぐに否定がよぎり、中庭に続くガラス戸を開く。手入れが行き届いているのか、軋む音ひとつたてずにすんなりと僕を中庭へと招いてくれた。
「ぁ……」
中庭に降り立った途端、口からは感嘆にも似た声が零れ落ちる。
一面にソメイヨシノの木々が所狭しと佇み、天からは薄桜色の花弁が風に乗ってヒラヒラと舞い躍る。その光景は幻想的で、僕の心をしばし奪っていた。
暫く淡く視界を覆う光景を眺めていたが、僕は今だ消える事のない声と桜に導かれ、木々の合間に身を進めた。
入るまでは陽光に反射した桜の花弁が淡く照らされていたが、奥に進むにつれ埋め尽くすほどの桜花が影を作り、辺りは薄暗くなっていった。
あれだけ綺麗だと感じていた姿が、今はうすら寒く感じる。蠱惑的な雰囲気を桜に対して感じたからだろうか。
……っく、……ひ……ぅ……。
奥に進んで行くごとに鳴き声が明確になっていく。同時に甘い花の香りが鼻に届くようになる。
「誰か……いるの?」
こんな場所に居たら、家人にも父にも咎められそうで、僕は声を顰めて周囲にいるであろう声の主に尋ねる。どうやら僕の声は届いてないのか、小さな鳴き声は止まず細く紡がれていた。
それにしても、この声は誰なんだろう。どこか見知らぬ他人の子供が興味本位で入り込んだは良いけど、迷って帰られずにいるのだろうか。
聞かされていた情報を元に思案していると、少し離れた辺りでガサリと茂みが揺れる。それと同時に泣き声は止み、そちらに顔を動かして確かめようとした僕は、現れた影の姿に小さく息を飲んだ。
月の光を集めたような淡い金色の髪と、飴玉のような琥珀の瞳を持つ幼い少年が蹲っていた。
「……おにいさん……だれ、ですか……」
ふと聞こえたたどたどしい声音に、呆然としていた意識がはっと返る。
「僕は……」
「おじいさまの……おきゃくさま……です、か?」
更に怯えの色を深くさせ子供が告げた言葉に、僕は先程とは違う驚きを瞳に滲ませた。
「え、と。今、『おじいさま』って言った?」
「……はい、いいましたです」
少年は僕からの質問に惑うことなく、小さく縦に首を揺らした。この家のひとり息子は成人して独身だと聞いていた。この子は一体……誰なんだ?
呆然としていたものの、その小さな子を間近に見て気付く。少年の顔や体には痛々しいまでの痣が沢山あった事を。
古いものから新しいもの。白い肌に幾つもの痣。それは誰が見ても暴力の跡だった。
僕は思わず手を伸ばし「大丈夫?」と声を掛けながら触れようとする。だが少年は別の意味で捉えたのか、両手で頭を抱えしゃがみ込み、体を丸めて震えだしてしまった。
「ごめ……さ……。だれにも……みられちゃいけないのに、おじいさまとの……やくそく……やぶって……しまいました。ごめんなさい……いたいの……や……です……」
ガタガタと震える子供から紡ぎだされたのは、僕にではなく誰かに対する謝罪。おじいさまと言っているから、相手は今父が会ってるこの家の主なのかもしれない。
だとすると、こんな小さな子に折檻しているのが、その人物なのだろうか。
自分が暴力を受けた訳ではないのに、胸に苦い物が広がっていくのを感じる。
まだ幼い、こんなに礼儀正しく、綺麗な子に対する酷い仕打ち。それは僕の胸を締めつけ、気付けば必死に耐え続ける子供を強く抱き締めていた。
「おにいさん……?」
突然された行為に、子供は弱い声で僕を呼ぶ。僕はその声に応えず少年を抱き締め続けた。
甘い花の香りが強くなる。優しくて泣きそうになる香り。守ってあげたくなる胸を締め付ける香り。
ああ……自分はなんて非力な存在なのだろう。
父に抗うこともせず、ただ言いなりになって従う毎日。この小さな子供一人救う事も出来ない。
それに対して、この小さな子は自分の存在を認めて貰えないにも拘わらず、懸命に生きている。弱いのに、健気に、でも強くあるこの子を尊敬すらしている自分がいた。
守りたい。この子を救えるように強くなりたい。
そして、いつか必ずこの子をこの檻から助け出そう。その為には本当の意味で大人になりたい。
何も求めなかった僕が初めて強く願った瞬間だった。
僕は抱きしめていた腕を静かに解き、幼く傷だらけのこの子に誓う。
「いつか……いつか必ず、君を助けに行くから。それまで待っててくれる?」
子供は言っている言葉の意味を理解しようとしているのか、しばらく僕を見つめながら押し黙っていた。が。
「おにいさんが、ぼくをおむかえにきてくれるのですか?」
「うん。大人になったら必ず君を迎えに行くから。だから待ってて」
頭から滑るように撫で、丸い頬にある痣を包むようにして誓いの言葉を告げると、少年は今までに見たことのない満面の笑みを綻ばせ、はいと頷いたのだった。
約束を交わした数年後、バース判定の時期と同じくして僕は家を出た。結局僕はアルファだった。
日々を生きる事、本格的に動き出したバンド活動で多忙を極めていく内に、あの桜の木の下で誓った約束は次第に薄れていった。
あの子は今頃どうしているだろうか。元気で、あの家の主に愛を注いで貰っているだろうか。
時折ふと姿も朧げな少年を思い出し、僕の足は立ち止まる。それは決まって、桜の花がひらひらと舞い散る春の日だった。
もう、こんなに汚れてしまった僕は、君を助ける事はできない。
だからどうか一日も早く、幸せを見つけて欲しい。そして、あの変わらぬ笑顔で過ごして欲しい。
初恋の彼の幸せを祈る度に、僕の胸はじんわりと温かくなっていくのだった。
そして──
「──あ!」
「え、急にどうしたの、敬夜?」
結婚して一年目の春。
新しいアルバムのレコーディングで久しぶりに帰宅し、惰眠を貪っていた僕は懐かしい夢を見て飛び起きる。余りにも唐突な出来事に、寝室の窓際に居た番は淡い金の髪を揺らして振り返り、琥珀の瞳を大きく見開いて驚きの声を上げていた。
「あのさ変な事訊くけど、紫藤の家って、桜の木が鬱蒼と生えて無かった?」
「うん。あるけどどうして?」
「いや、ただなんとなく」
「ふふっ、変なの」
苦笑した僕は煙草に手を伸ばしたが、すぐにその手を引く。今、番の前では禁煙だったのを思い出したからだ。
「悪いけど、珈琲をお願いしてもいいかな」
「ブラックだよね?」
「うん」
いつもの会話に胸が温かくなる。
寝室の窓の向こうには眼下に広がる薄紅の桜が満開だ。
僕は番に微笑み、幼い頃の思い出を胸の奥にしまった。
そう、幼い日の約束はすぐに果たせなかったけど、僕の傍には大人になった初恋の人がいる。
そして遠くない未来、僕等の間に新しい宝物が増え、思い出も降り積もっていくだろう。
ベッドから降りて、春の空を背に少しだけお腹の膨らんだ番の元へと向かう。
少年時代の僕と幼い番が手を取り合って、約束を果たした喜びに満面の笑みで再会を果たす姿が淡い空に溶けていくのを、心の中で感じていたのだった。
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