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ぼくらが永遠だったころ

 近頃私は目を閉じて、この世界が永遠に幸福だったときのことばかり考える。  その文章は、そんな一文から始まっていた。  万年筆の青いインクで書かれたその黄ばんだ紙片は、亡くなった遠縁の親戚から譲られた本の中に挟まれていた。 「貴文くん、ドイツ語専攻でしょう?」  叔母がそんなことを言って、てのひらにおさまるくらいの、小さな革張りの洋書を譲ってくれた。ヘッセ詩集。専攻といってもまだ一年生の山崎貴文にわかったのは、そのタイトルだけだった。  ぱらぱらとめくっていると、本があるページで自然に開いた。紙片の挟まれていたページだったが、自然に開いたのはそれだけが理由ではなさそうだ。何度もそのページを開いたのだろう。開きぐせがついている。 「Allein? あ-、英語のアローンか」  スマホにそのページのタイトルを打ち込んで、意味を確認する。孤独。ひとり。ひとりぼっち。  孤独という詩を好んで読んでいたその親戚は、どういう人なのだろう。  そう思うと、その意味不明な単語の羅列に興味がわいた。貴文は紙片を取り出して開いてみる。きれいな手書き文字だったが、これもドイツ語だ。 「これも勉強か」  貴文はそう呟いて、その紙切れに書かれた文字を、スマホの翻訳サイトに打ち込み始めた。    ◇  近頃私は目を閉じて、この世界が永遠に幸福だったときのことばかり考える。  しかしあのころについて話すには、まず彼、トニー・オーウェンについて語らなければならない。  トニーは私の幼なじみだった。彼の父は、私の街にやってきた英国人の宣教師で、彼は生まれていくらも経たないうちに私の街にやってきた。私の父は英語を勉強していて、彼の父と話が合った。  私は父親たちがシェイクスピアだのスピノザだのの話をしているのに飽きて、ぼんやり教会の庭に座りこんでいた。  トニーの父親は私にもやさしかったが、近所の子供たちは彼らと親交のある私に対し、口さがないことをよく言った。 「痛っ」 「遼太郎! おまえの親父はまだ外国人とつきあってんだな!」  その日、庭にいた私に対し、数人の少年が私に石を投げたのだった。私は顔を背けた。当時、5歳くらいだったと思うのだが、私は体も小さくて、からまれたら小さくなって波が去るのをただ待つことしかできなかった。  また石をぶつけられると思い、私は目を閉じて身を固くしていたが、いつまで経っても次の石は来なかった。  私がおそるおそる目を開けると、私の前に、額から血を流したトニーがいた。それが私たちの出会いだった。 「痛いなあ。石は本当に痛いから、喧嘩には使わないほうがいいよ」  当たり所が悪かったのか。金色の前髪を朱色に染めて、微笑む大柄なトニーは怖かった。ただでさえ西洋人は大柄なのに、怪我をしながらにこにこしているなんて気持ちが悪い。 「喧嘩をするより仲良くしよう。君、名前は?」  トニーはそう言って、右手を差し出していた。今から考えると、彼は牧師の息子なのだ。そんな博愛主義を持っていてもなんらおかしいことはなかったのだが、子供心にそんな態度を取る彼はとても奇妙な存在だった。  私に石を投げていた子供たちはおそらく、トニーに話しかけられていたことだけでも恐怖だったのに違いない。蜘蛛の子を散らすように去っていき、その場には私だけが残された。 「えっと、君。遼太郎、だっけ? 相馬さんのとこの子だよね? 大丈夫?」  彼は私に向き直る。青い瞳がキラキラと輝いていた。 「うん、大丈夫。あの、……君は大丈夫?」  彼は自分の前髪をつまんだ。 「ああ、これかあ。まあ洗っておけば大丈夫だろう」  彼はそう言って微笑んだ。 「それより君、ぼくの部屋に来ない? ずっとここにいても寒いだろうし」  そうして私に手を差し出した、彼の笑顔に私は一瞬で虜になったのだ。  それから、私は父が教会に行くのを心待ちにするようになった。父がトニーの父親と話している間は、私はトニーの部屋で、彼といろんな話をするようになったからだ。西洋文学、不思議な神話、好きなスポーツ、彼の母親のおいしい料理、彼の生まれ故郷の話……。  トニーはやさしくて、彼の話はどこまでも興味深く、そのころの私の世界はどこまでも幸福だった。 「ぼくの故郷はブライトンといって、海辺の街なんだ。海水浴場があって、観光客がたくさん来る」 「海? このへんでも、藤沢あたりまで行けば海水浴場があるよ」 「藤沢か。行ったことないなあ」 「ぼくはある。先祖の墓がそっちなんだよ」 「海岸、見たいなあ。海の向こうに、ぼくの生まれた故郷があるんだ」 「藤沢の海岸からは君の国が見える?」  私が言うと、彼はおかしそうにくすくすと笑った。 「イギリスはそんなに近くはない。船に乗ったら、何ヶ月もかかるんだよ」 「そっか。寂しいね」  私がそう言うと、彼は私の手をとってやさしく微笑んだ。 「遼太郎、君はやさしいね」  そう言う彼の瞳は慈愛に満ちていて、私の胸は高鳴り、息苦しい気持ちになった。トニーの笑顔は、どうして私をそんな気持ちにさせるのだろう。  私は彼が長く故郷に帰れないことが、かわいそうだと思ってそう言った。彼もそんな私の気持ちがわかっていた。  だが、彼が故郷に帰ることは、そんなに先のことではなかったのだ。  季節はめぐり、私は十四歳に、トニーは十七歳に。昭和八年の、日本が国際連盟を脱退した春になっていた。 「ねえ、遼太郎。ぼくはあさって、イギリスに帰ることになったんだ」  春のあたたかい日差しの中。トニーは珍しく思いつめた顔をして、私にそっとそんな告白をした。  父親が勤務先の教会から帰国を命じられたと彼は行った。  トニーが英国に帰る。その単純で当たり前の言葉が、私にはすぐ理解できなかった。もちろん、彼はそうした方がいい。世間では、英国、米国との戦争をすべきだという話でもちきりだった。このままこの国にいるのは彼にとって安全なことではなかったし、彼だって、故郷に親戚もいるだろう。そんな日は、いつか来るだろうと思っていたのだ。 「……そうなんだ」 「あの、遼太郞。ぼくを許して」  なぜ私が彼を許すのか。その質問ができないうちに、私の唇は彼のそれでふさがれていた。  触れるだけの、静かな口づけ。  本当に一瞬だったと思う。それでもまるでそのとき、時間が止まったような気もした。 「あの、……ごめん」  私から逃げるように去っていく彼の手を私はつかまえて、その耳にささやいた。 「ねえトニー。最後に一緒に、海岸に行かない?」  それからはすぐだった。  数十分の小さな冒険。トニーが二人分の電車の切符を買ってくれ、私はその姿をずっと眺めていた。 「遼太郎、行こう」  彼は微笑んで、私を車内に誘う。電車の行き先は、私の知らない地名だった。  車内の客はまばらだった。彼の隣に座って、私は彼の手を握った。トニーは少し驚いたような顔をして、それから微笑む。  そのまなざしに熱を感じながら、私はずっと考えていた。この電車をずっと乗っていったら、国家のない私たちだけの世界までたどりついたりしないだろうか?  ひとときの逃避行はすばらしかった。まだ観光客のいない春先の海岸の隅で、私たちは誰にも見つからないようにこっそりと口づけを交わした。まるでずっと、そうなるのが当然の、恋人どうしのようだった。  それでも私たちの冒険には終わりがあって、夜には私は彼の自宅の教会まで戻ってきた。  それでも私が彼の手を離さないでいると、彼は胸ポケットから、小さな本を取り出した。 「この本を君にあげる。ドイツ語ならば、この国で持っていても許されるだろうから」 「ヘッセ詩集?」 「そう。ぼくはこのヘッセの詩が一番好きなんだ。とくにこの『独り』という詩が」  彼はそう言って、開きぐせのついたページを開く。 「『この地上には、たくさんの道がある。でもすべての行き先は同じだ。馬に乗っても車に乗っても、二人で行っても三人で行っても、最後の一歩だけはひとりで踏み出さなければならない。だから、すべてのつらいことに対して、ひとりで立ち向かうことに勝る、どんな素晴らしい知恵も技術も存在しない』(※1)」 「どういう意味?」 「人間はひとりで死ぬんだから、ひとりでつらいことに立ち向かわなければいけないっていうことだよ」  私は彼がなぜ、今そんなことを言うのか理解できなかった。いや、理解したくなかっただけなのかもしれない。彼は重ねて言った。 「遼太郎、僕はもう今までのように、君を守ってあげることができない。だからこの本を、君のお守りにあげる。君はこれから、ひとりでつらいことに立ち向かうことになるだろう。でもそれは誰にでも必要なことで、一番素晴らしいことだ」  私はやはり、そのことについて理解したくなかった。トニーと離れること。トニーを敵と呼んで戦っていくこと。 「どうしてそんなことを言うの? 僕はずっと君と一緒にいたいよ。戦争なんか始まらないかもしれない。それに戦争がもし始まったとしても、僕は戦争が終わるのをずっと待ってる。だからまた日本に来てほしい」  トニーは困ったように微笑んだ。そんな未来のことなんて、私たちはどちらも想像できなかったのに。  そのとき、トニーの父親の声がした。隣に、妹の美枝子の姿も見える。夜はだいぶ更けていた。 「トニー!」 「お兄ちゃん!」  ふたりは私たちのところに駆け寄ってきた。美枝子が私に抱きつく。 「お兄ちゃん、見つけたあ」 「こんなときに、どこに行っていたんだ。みんなおまえを探してるぞ」  トニーの父親の、早口な英語が聞こえる。 「ごめんなさい。お父さん。最後に、遼太郎と海を見に行きたくて」  そっと重なっていたてのひらを外して、トニーは礼儀正しく微笑んだ。 「おまえたちが仲がいいのはわかってるがな。そうも言っていられないのは、おまえもわかるだろう?」  たぶん彼の父親は、十分に理解のある態度だっただろう。それでも、そのときの私が気になったのは、トニーの熱が私から離れてゆくということだけだった。今これを手放したら、もう二度とその熱は私のところに戻ってこないだろう。  私はもう一度彼の手をつかもうとしたが、彼はやさしく私の手を躱し、代わりにこの本を押しつけてきた。 「さようなら、遼太郎」 「トニー」 「忘れないで。どんなときでも、ひとりで行うことに勝ることはない」  彼が本から手を離し、私は慌てて落ちそうな本をつかんだ。その隙に、彼は私から距離をとってしまう。 「いやだ」  彼は諦めたような、悲しそうな表情で微笑んだ。その、青い目。今もはっきり思い出す。今から思えば、最後にあんな悲しそうな顔をさせるのではなかったと思うのだけれど。  彼の手が伸びて、僕の額の前髪をかきあげた。その額に、彼の冷たい唇がそっと触れてきた。 「大丈夫。ぼくたちはみんなひとりだよ」  そんなささやきを最後に残して、彼は私の元を去った。永遠に。  だから、つらいことにひとりで立ち向かうことに勝る、どんな知恵も技術も存在しない。    ◇  長い坂を上って、貴文は丘の上にたどりついた。  子供のころ誰かの法事で来たことがある。坂に段になるように重なっている、墓地。  相馬家の墓。探している名字を探し当てて、貴文はその前にしゃがみこむ。 「はじめまして。あの、この本を譲り受けた相馬美枝子の娘の夫の妹の子です」  五月の爽やかな風が貴文の頬に触れた。会ったこともない遠い親戚。 「俺が読んでよかったのかわからないけど」  本を譲ってくれた叔母の話によれば、戦争が終わったあとの遼太郎は、ずっと独身で、大学でドイツ文学を教えていたらしい。トニーの方はどうなったのか、貴文には知る術はなかった。  会ったこともない人の話なのに、まるで我がことのように感情移入してこの紙片を読んでしまって、こんなところまでやってきてしまった。 「『だから、つらいことにひとりで立ち向かうことに勝る、どんな知恵も技術も存在しない』」  紙片の最後の部分のドイツ語を、貴文は声に出して読んだ。そんなふうに思って、彼はこの土地で最後まで暮らした?  そのとき、甲高いカモメの鳴き声が聞こえた。貴文は声のする方を振り返る。 「海……」  その場所からは、遠くにきらきら輝く水平線が見えた。 終 ※1 https://lyricstranslate.com/en/hermann-hesse-allein-lyrics.htmlから私訳

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