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初恋レッスン

 僕は恋をしたことがない。そもそも恋をする必要性を感じない。恋をした結果が恋人になることで、その先にある結婚を目指すものならば、僕はすでにゴールの手前にいると言ってよかった。  母譲りの美しい容姿を持つ僕と恋人になりたいという人も、父のあとを継ぐことが決まっている僕と結婚したいという人もたくさんいるのだ。実際に選ぶのが僕か父さんかの差はあるけれど、恋人や将来の伴侶を得るために恋をするのであれば、僕には必要ない。 「それは反対ですよ」  シュッシュッと赤ペンが丸を描く間に落とされた声。何か間違えただろうかと解いたばかりの課題へ視線を向ける。黒色の勉強机の上、開かれた問題集にわずかでも不安に思うところはなかったはずだが。 「あ、こちらは満点でしたよ」  小さく息を吐き出すように笑われる。丸つけの終わったノートを閉じ、小塚(こづか)先生が眼鏡を外した。授業の終わりの合図。今日はいつもより早いな。  週に四日、家庭教師の小塚先生はやって来る。授業は十七時から十九時の二時間。目の前に置かれているデジタル時計は十八時半を示している。満点を取ってしまったのだから仕方ないか。今日用意していた課題はすべて終わってしまったのだろう。 「明日はこの続きからやりましょうか」  返されたノートを受け取り「ありがとうございました」と小さく頭を下げれば、ふわりと柔らかな温かさが下りてくる。自分よりも大きな手が小さく跳ね、くすぐったくなる。僕の頭に触れるのは今ではもう小塚先生だけだ。 「(あらた)くんが頑張ってくれたのであと三十分ほど残っているのですが、何かやりたいことはありますか」  離れていく体温と引き換えに、小塚先生が椅子ごと僕へと向き直る。キッと背もたれが軋む音が響くくらいに部屋の中は静かだ。エアコンもついているのかどうかわからないくらい息を潜めている。 「やりたいこと……」  問いかけを咀嚼しながら視線を彷徨わせる。机に備え付けられた本棚には学校の教科書のほか、こうして家庭教師をしてもらっている間に解くべき課題や自分で読み進めるべき分厚い本が隙間なく並んでいる。「やるべきこと」はたくさんあるが、「やりたいこと」と言われるとすぐには浮かばない。本の読み聞かせをお願いするような歳ではないし、知りたいことは自分で調べられる。三十分足らずの時間でできる適切な答えはなんだろうか。 「新くん」  ゆっくりと丁寧に紡がれた名前。決して大きくはない声だけど、意識が一瞬にして引き寄せられる。 「これは問題ではないからね」  クスクスと小さな笑いが頭の上から降ってくる。小塚先生の後ろにある窓は夜の色を広げていて、この心地よい時間がもうすぐ終わることを教えている。あと三十分。どうせ時間がきたら終わるのだ。そんな短い時間で叶えてもらいたいものなんてない。本当に望むものは叶えられないと知っているから。 「やりたいことがなければ、聞きたいことでもいいよ」  聞きたいこと、と言葉を変えられ、少しだけムッとする。解けないだろうと問題を差し替えられた気分だ。  ――それは反対ですよ。  ほんの数分前に聞いた声が頭の奥で再生される。課題に対してではなかった言葉。直前に交わされていた会話の内容を引っ張り出す。ああ、そうか。 「小塚先生」 「はい」  くるりと椅子ごと回して、小塚先生を正面から見上げる。 「さきほどの反対の意味を教えてください」 「……ああ。あれですか」  ふふっと薄い唇の隙間からこぼれた笑い。細められた目がゆっくりと元の形へと戻り、深い黒色の水面が向けられる。 「恋人を得るために恋をするのではないのです。恋をするから恋人になりたいと望むのです」 「結果的に恋人になるのだから同じですよね」 「――そう、思いますか?」  静かな問いかけだった。反対だと自分で言っておきながら、答えを委ねる意味はなんだろうか。まっすぐ繋がった視線の先、深い瞳の奥。出会ってから一年、その水面は小波ひとつ立ったことがない。揺らしてみたい。衝動にも似た気持ちが湧き上がる。コクン、と小さく唾を飲み込んでから口を開く。 「僕はそうだと思いますが、そもそも恋をしたことがないので立証ができません」  両膝に置いた手をきゅっと握る。問題ではない、と小塚先生は言ったけれど。これは僕に与えられた課題だ。僕は答えが知りたい。 「なので、小塚先生が教えてくれませんか」  大きくなった瞳。わずかに傾けられた顔。後ろで結ばれている髪が白いシャツの表面で音を立てる。 「先生、僕に恋を教えてください」 「……」  パチパチと瞬きが繰り返された後、ふっと柔らかく表情が崩れる。 「新くんらしいですね」 「え」 「いいですよ。そのお願い、僕が叶えましょう」  お願い、と言われたことに胸の中が痒くなる。自分から望んで何かをすることが久しぶりだったからだろうか。顔がじわりと熱くなる。 「あの、先生は恋をしたことがあるんですよね?」 「ええ。もちろん」 「どんな方に恋をしたのですか?」 「どんな……」  視線がチラッと机の上に向けられる。残り時間はあと二十分ほど。静かに息を吐いた小塚先生は「では少しだけお話しましょう」と小さく頬を上げて笑った。 「僕が恋をしているのは、僕よりもずっと年下の方です」 「年下……」  小塚先生は大学院生で、来月二十四になると言っていた。そんな先生が言う「ずっと年下」とはどれくらいの年齢なのだろうか。十離れていれば相手は中学生。僕は十二だから先生とはひとまわり違うことになる。 「ええ。ですが、とても素敵な方です」 「その方は先生のことが好きなのですか? お付き合いをされているのですか?」  気づけば「授業中の質問はひとつずつ」というルールを忘れていた。言葉を飛び出させてから「あ」と口を閉じる。小塚先生はそんな僕をまっすぐ見つめ、ふふっと小さく笑った。 「質問がたくさん出てくるのは興味がある証拠です。今は新くんのお願いをきく時間なので大丈夫ですよ」  僕は止めていた呼吸を再開する。興味がある証拠、と言われて自分でもそわそわと落ち着かない心地に気づく。知りたくて質問をしているはずなのに。 「僕のことが好きか、というのはまだわかりません。気持ちを直接お伝えしたこともありませんし、お付き合いももちろんしてはいません」  先生の答えが胸の中で響き、小さな風が生まれる。撫でられた内側でそわそわと居心地の悪かった心が鎮まっていく。 「その方は」  続けられた言葉に上がった視線は、一瞬にして深く黒い瞳に捕まえられる。 「初恋もまだのようなので」  薄い唇から放たれた言葉は静かにまっすぐ落ち、鎮まっていたはずの心に突き刺さる。ドクドクと心臓が騒ぎ出す。 「そ、れって」 「ですからこれから僕がいろいろと教えて差し上げるつもりです」  静かな声が肌を撫でる。細められた目の奥に視線ごと連れていかれる。ふわりと緩やかだった風が大きな竜巻となって吹き荒れる。これはなんだろう。ざわざわと落ち着かない。くすぐったくて、心地悪くて、温かいのにどこか痛くて、苦しい……どれも感じたことのない症状ばかりだ。 「そろそろ時間ですね」  パタリと本を閉じるように、小塚先生が視線を解いた。  気づけばデジタル時計は十八時五十八分を示している。もうすぐ大階段に置かれた時計が大きな音を響かせるだろう。小塚先生は素早く机の上を片付け、かけていた上着を手に取る。ふわりと柔らかな香りが鼻に届き、思わず「なんの香りですか」と尋ねていた。  椅子に座ったまま見上げている僕に、小塚先生は「香り?」と不思議そうに首を傾ける。さらりと束ねられている黒髪が肩を撫で、上着の表面で小さな音が鳴る。 「なんか、お花みたいな、いい香りがします」  お花ですか、と小さく笑った小塚先生がドアではなく、僕へと足を向ける。すっぽりと包むように影が落とされる。天井のライトを遮るように近づいてきた体にビクッと肩が跳ねた。結ばれた視線がゆっくりと傾き、床と平行になる頃、小塚先生の顔は僕の目の前にあった。どうして近づかれたのかわからず体が硬直する。黒い水面に自分の顔をハッキリと見つけられるくらいの距離。わずかでも動いたなら鼻の先が触れそうだった。先ほどの香りが濃さを増し、吸い込んだ空気から体の中に広がっていく。 「こ、づか、せんせい……?」  小さく震えるように響いた自分の声。固定されてしまった視界の中、小塚先生の瞼がゆっくりと下りていく。隠された瞳。解かれた視線。それでも僕は一ミリも動けない。わずかに左を向いた小塚先生の顔が近づいてきて、きゅっと息が止まった。 「新くんは甘い匂いがしますよ」  温かな息が左耳に触れ、落とされた声がぶわりと熱を広げる。 「ふえっ」  おかしな声が飛び出すと同時に金縛りが解けたように椅子ごと体が跳ねる。バランスを崩して落っこちそうになった瞬間、太い腕に抱きとめられた。ビックリしたからか、落ちそうになったからか。心臓が聞いたこともないくらい激しく音を立て、内側から耳を塞ぐ。 「すみません。驚かせてしまいましたね」  ふっと緩められた力で、両足が床に着く。小塚先生は立ち上がりながら「ではまた明日」と僕の頭の上で手を跳ねさせた。毎回当たり前に受け取っていた。数分前も同じことをされた。それなのに今この瞬間だけは何かが違う。遠ざかっていく温かさに、床に置いていたリュックを肩にかける動作に寂しさが湧き上がる。もっと、と心の奥で声がする。 「あ、えっと……」  また明日もよろしくお願いします、繰り返してきたはずの言葉はうまく言えなかった。心臓がうるさくて体が熱くて、ドアへと向かう背中を見上げることしかできない。  カチャリとレバーが下げられ、振り返った小塚先生はきゅっと唇の端を上げてから言った。 「最後にひとつ訂正をしておきますね」 「訂正、ですか?」 「ええ。恋はするものではなく、おちるものでしたから」 「おちる、もの……」 「明日からはもう少し本格的に学んでいきましょうね」  返事をする間もなく、屋敷内に大時計の音が鳴り響く。 「では失礼します」  ゆっくりと閉じられていく隙間で、小塚先生が小さく手を振った。一年間教わってきてそんなことをされたのも、自分が挨拶すらまともに返せなかったことも初めてで、振り返すという選択肢すら浮かばず戸惑いに飲み込まれる。  ――恋を教えてください。  数分前の自分の言葉が思い出される。教えてほしいとは言ったけれど。知りたいとは思ったけれど。でも、こんなの、もう――。  ぎゅっと握り締めた自分の手はひどく熱かった。

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