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恋叶う

 年の離れた兄が高校でできたという友人を連れて来た時、僕は初めて「恋」というものに襲われたーー。 ❖❖❖  高学年になって学童に通うこともなくなり、放課後は家で過ごす僕の日課は、約2時間後に帰宅する兄を出迎えることである。  その日も僕は、リビングでパートに行く前に母が用意してくれていたおやつをつまみながら宿題をこなしていた。  玄関の方からガチャッと鍵の開く音と兄の気の抜けた「たでぇま」という声が聞こえると、僕はテーブルの上に筆記用具を放り出して兄を出迎えるためにリビングを飛び出す。 「にーちゃん、おかえり!」  そう言って玄関にいた人物に飛びついた。  途端に僕の鼻腔を抜けたのは、いつもとは違うおしゃれな香り。間違ってもうちで使っている柔軟剤とは違うそれに驚き僕がその人物から離れると、頭上からやはり兄とは違う声音でクスクスと笑われる。  恐る恐る見合えると、ゆるくウェーブかかった栗色の髪色の綺麗な男の人がいた。 「えっ? ええっ?」  状況が飲み込めず僕があたふたしていると、呆れたような声で兄が「何してんだ、お前……」と言われて一気に熱が顔に集中した。 「颯、いつもこんなにかわいくて熱烈な出迎えしてもらってるの?」 「ん。まーな」 「そりゃ、彼女も作らず真っ直ぐ家に帰るわけだね」  兄とお兄さんの会話についていけず目を白黒させていると、兄が僕の頭に手を置いて「ほら、ちゃんと挨拶」と自己紹介するように促した。 「こんにちは、はじめまして。にーちゃ……兄の弟の叶です。字は願い事が叶うでかなうです」 「ふふっ……。はじめまして、叶くん。俺は、お兄さんのお友達の久我陽一です。陽一は太陽の陽に漢数字の一でよういちです」  緊張で変な自己紹介になってしまったけれど陽一さんが微笑んでくれて、その大きくて温かいてで僕の頭を撫でて……。  その時、僕は初めて「恋」というものに襲われた。  顔に熱が集中する。鏡を見たらきっと僕の顔は、完熟トマトも顔負けぐらい赤くなっているのではないかとすら思う。  心臓が早鐘を打つ。運動会のリレーでゴールした時と同じくらいドキドキして耳から湯気が出てるんじゃなかと錯覚する。  頭がクラクラする。(兄ちゃんとお風呂で我慢対決をしてのぼせた時とおんなじだ……)  その日は兄から何かを受け取ってすぐに帰ってしまったけれど、陽一さんは週に1、2回遊びに来るようになった。  僕はなんだか嬉しくて、陽一さんが来そうな曜日だけはいつもはすぐ食べてしまうおやつを取っておいて、兄たちと一緒に食べるという口実を作った。  それ以上の進展はなかったし、小学生の僕はただ大好きな陽一さんが遊んでくれるということに満足していた。 ❖❖❖  僕と陽一さんの関係に進展があったのは僕が中学2年生、陽一さんが大学1年生のときのことだ。  そろそろ僕は高校受験のことを考えなくてはいけない時期だったので母に塾に行くかと聞かれた。  けれどそれなりに真面目に勉強して来たので高望みしなければ近くの高校は余裕だろうと進路指導の先生に言われていたので、母の提案は断った。  その選択は正しかったようで、後日僕は陽一さんから嬉しい提案を受けた。 「叶くん、来年は高校受験があるでしょ? おばさんから叶くんの家庭教師をしてくれないかって頼まれてるんだけど、叶くんはどうしたい?」  飲み物を買ってくると兄が席を外すと、陽一さんがまるで秘密の提案をするみたいそう言ってきた。  すると、僕の心臓は途端に踊り出す。 「陽一さんが先生になってくれるの?」 「そうだよ。叶くんが良ければだけどね」 「え! そりゃ、願ってもないくらい嬉しいけど、陽一さんはいいの?」 「もちろんだよ。元々、家庭教師のアルバイトしようかなって考えていたところだったからね」 「じゃあ、よろしくお願いします、でいいのかなぁ?」 「こちらこそよろしくね。なんの準備もしてないから、今日は叶くんの宿題のお手伝いくらいしかできないけどプレ授業してみる?」  今まで兄と遊ぶために来ていた陽一さんが僕のためにこの家に来るというだけで、ワクワクと胸が高揚する。  兄の友人、友人の弟ではなく、先生と生徒。たったそれだけの変化だけど、僕にとってはなんだか特別な関係になったような気がしてならないほど、僕の中で生まれた恋心は育っていた。 ❖❖❖ 『陽一さんが好きです』  高校受験を終えた僕は、バレンタインのチョコレートと一緒に長年育てた恋心を伝えた。  心のどこかで期待が無かったといえば嘘になる。  だから、陽一さんの「ごめんね」の一言は僕に大きなダメージを与えた。  唯一の救いは、高校受験までという約束の家庭教師の日が終わっていることだ。 (多分、今後は陽一さんの顔まともに見れないんだろうな……。また友人の弟になっちゃうのかな。それとも、もう会いたくないって思われちゃってるかな)  暗い部屋の中、自分の匂いが染み込んだ布団に包まっていると、頭の中をいろんな考えがぐるぐる巡る。  陽一さんと過ごした日々がまるでドラマのように脳内再生されて余計惨めになった。萎れた恋心が涙や鼻水になって体から出ていってしまう。そんな感覚が切なくて悲しくてたまらない。 「叶、入るぞ」  ノックもなしに部屋に入ってきた兄は、僕が籠城しているベッドの下に腰を下ろした。 「部屋、入っていいなんていってないもん……」 「そうだな。でも、兄ちゃんは泣いている弟を放って置けないんだ」 「過保護……」 「いい兄貴だと思うんだけどなぁ」 「まぁ、それは否定しないけど……」 「なぁ、叶。叶の辛いこと兄ちゃんに話してみ?」  自分の友人を弟が恋愛の対象として見ていると知ったら兄はどんな顔をするのだろうか。  そう考えると怖くて、喉の奥に力が入ってどんな言葉も僕の口から出ることを拒否する。  僕が何も言わないから部屋のなかはシンと静かなままだ。 「急に話せって言っても、話辛いか。叶、お前の告白はうまくいったとは言えなかったかもしれない」  兄が切り出した内容に驚き、思わず布団から飛び出した。 「お前が陽一のことを好きだってのは、なんとなく気づいてたからな」  兄から告げられた真実に唇が震える。けれども、何か言わなければならないという気がしてなんとか言葉を絞り出した。 「ーー変だと思った?」 「別に変ではないと思う。アイツは顔も性格もいいからな。……陽一はちゃんとお前の告白に向き合ってくれたか?」  冗談を交えながら兄が問う。 「ーーうん。断られたけど、ちゃんと僕の想いは最後まで聞いてくれた」 「そっか。実らなかったかもしれないが、いい恋をしたな」 「フラれたのにいい恋って何か違う気がする」 「でも、片思いをしている間楽しかったんじゃないのか?」  今はひたすら悲しい気持ちばかりが目立っていたけれど、振り返ってみれば陽一さんに片思いをしていた4年間はすごく楽しかった。 「すごく……、すごく楽しかった……」 「それは、いい恋をしていた証拠だな」  そこで兄は漸く僕の方を見た。子供みたいにぼたぼたと涙をこぼす僕の顔をティッシュで雑に拭いながら頭を撫でてくれた。  僕は兄の言葉に何度も頷いた。 ❖❖❖  高校の3年間。僕が、陽一さんに会うことはなかった。  最初の1年は僕が顔を合わせづらいと思っていたのを察したらしい兄は陽一さんを家に呼ばなくなったし、その後の2年は陽一さんが就活やゼミ、卒論で忙しくしているというので会う機会がなかった。  けれど、僕の大学進学を祝うホームパーティーの日、久々に陽一さんが遊びに来た。  3年ぶりに見る陽一さんは相変わらずかっこよくて、僕の心臓は飛び出してしまうのではないかというくらい激しく鼓動を刻んでいる。  なんと言葉をかけるべきかと悩んでいると陽一さんが「久しぶり」と声をかけてくれた。  それからのことは、正直緊張しすぎて何を話していたのかさっぱり覚えていない。けれど、昔みたいに沢山陽一さんと話せたことが何よりも嬉しかった。  パーティーの後片付けをするということで、主役の僕と特別ゲストの陽一さんは母と兄に2階へ追いやられた。  正直何を話していいのか分からなかったけど、廊下で立っているのも変な話なのでとりあえず陽一さんを僕絵の部屋へと招く。 「叶くんの部屋に来るの久々だね。少し印象が変わった?」 「う、うん。これから大学生になるからちょっと大人っぽいインテリアにしたいなって思って机とベッドを変えたの」 「いい部屋だと思うよ。でも、一人暮らししたいとかなかった?」 「ちょっと憧れたけど、僕って甘やかされて育ったから多分家事とか不安だったし、兄さんも最初は家から大学に通ってたから僕もそうしようかなって思ったんだ」 「確かに、一人暮らしは色々大変だからね。余裕が出るまでは実家でっていうのもありかもしれないね」 「陽一さんは大学入学と同時にひとり暮らし始めたんだよね」 「俺の家には可愛い弟がいなかったからね」 「それって、ひとり暮らしに関係あるの?」 「あるよ」  陽一さんの声のトーンが少し下がって、彼の言葉に真剣さがのる。 「えっ……」 「叶くんにね、ずっと話したかったことがあるんだ。聞いてくれるかい?」  僕がゆっくりと頷くと陽一さんは言葉を続けた。 「高校受験が終わった年のバレンタイン、叶くんの気持ちを伝えてくれたよね。あの時は今は応えられないって言ったの覚えてる?」 「ーー覚えてます」  あの時の切なさが胸の中心から迫り上がってきて、鼻をツンと刺激した。多分、今の僕は情けない顔をしてるだろうと思って、陽一さんに見られないように少し俯いた。 「あの時ああ言ったのはね、君を束縛したくなかったからなんだ。高校生になったら小中学校と違った友好関係が広がるからね。そんな時、俺が叶くんの足枷になるのは嫌だったんだ」  思いもよらない単語が出てきたことに驚いて顔を上げると、真っ直ぐと僕を見つめる陽一さんと目があった。 「えっと……」 「俺は叶くんのことが好きだよ。もちろん恋愛の対象として」 「ええっ?!」  突然の陽一さんからの告白に心臓が飛び跳ねる。 「その驚き方、やっぱりあの時ちゃんと俺の話聞いてなかったんだね。ちゃんと、今は応えられないって言ったんだけど……」 「なんか、陽一さんの『ごめんね』があまりにも衝撃的すぎて……」 「僕の言い方が悪かったんだ。もっといい伝え方があったはずなのに……、叶くんのことを悲しませたよね」 「その日のうちに兄さんが、『お前はいい恋をした』って言ってくれたので、僕は自分の恋心を尊重することができました。なので、今でもあの時の恋心はここにあります」  右手をそっと胸のところへもっていくと、陽一さんの右手がその上に重なった。 「もしね、嫌でなければその想いをもう一度僕に向けてくれたら嬉しいのだけれど……」  陽一さんが家庭教師をしてくれるという話をした時みたいに、まるで秘密の提案をするように言った。  目を覚ました恋心が僕の中で暴れ出す。 「大学って高校の時より友好関係広がると思うんだけど、今言うのはなんで?」 「高校生の叶くんに恋人が出来ても、奪う自信はあったけど大学で恋人が出来たら太刀打ちできない気がしたから」  ちょっと悪い顔をしてそう言い切る陽一さんの言葉は、どれほど僕を喜ばせただろうか。 「僕、陽一さんの恋人になりたいです」

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