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ミイラ男とライラックキッス

(あぁ、憂鬱。今日もまた、あの宅配便屋が来る時間だ――)    由岐は朝から全く変化のないライラックの絵が描かれたキャンバスと腕時計を順に眺める。やがて観念したように筆を置くと、大きな溜息を吐いた。予想外にそれは部屋中に響き、反射的にビクリと首をすくめる。  いまだにこんな事にまだビクビクする自分に舌打ちしたくなった。ここはもう日本じゃないのに。由岐を虐めた粗悪な連中はもういない。イギリスのど田舎にある祖母の家は不便だが、人に会うことも滅多になく、コミュ障の由岐にとってはこれ以上ないほど快適だ。  由岐は高校を中退している。  なんてことはない。スマホを覗き見られゲイバレして、陰湿な虐めにあったのだ。  はじめは教科書にキモいと書かれるくらいだったが、逆らわないでいると虐めはどんどんエスカレートしていった。しまいには体育館倉庫で酷い有様で放置されている由岐を教師が見つけ、警察沙汰になる騒ぎになった。  腫れ物に触るような両親の態度に嫌気が指して、祖母がいるイギリスに行きたいと言ったのは由岐からだ。両親はホッとしていた。  英語は生活に困らないくらいに出来たが、もう学校には通うつもりはなく、一日中家でダラダラ過ごした。ずっと家にいる由岐に、祖母は何も言わなかった。  ただ優しく由岐の腕をとり、自慢の庭を見せて歩いてくれた。  パンジー、ストック、ガーベラ、クリスマスローズ、中でもライラックの樹は祖母の自慢で、由岐もこんなに大きな樹が庭に生えていることに感動を覚えた。次第に祖母と庭の世話をするのが毎日の習慣になった頃、突然祖母が亡くなった。  それから三年。  祖母がいた家をそのまま引き継ぎ、由岐は一人で暮らしている。一人には大きすぎる家だが、由岐が使うのはコンサバトリー、キッチン、バスルーム、寝室だけなので掃除もそんなに大変じゃない。コンサバトリーとは、ガラスの壁や天井に覆われた部屋で、日本で言うサンルームに近い。庭のライラックの樹がよく見えるので、祖母とはそこでよく過ごした。  朝早く起きてコンサバトリーで珈琲を飲んでから庭いじりをして、またコンサバトリーに戻ってキャンパスに向かう。  描く絵は庭の絵だったり虫の絵だったり様々だ。たまにパソコンで描いたちょっとしたイラストをブログにあげ、そのダウンロードで生計を立てている。ものすごく儲かるわけではないけど、この田舎で食うには困らないくらいにはなる。  さいわい、由岐は家族を持つ気はない。というか、恋人も一生作る気はない。友人さえ、ネットの中の浅い関係性でいいと思っている。この穏やかで退屈な毎日が、由岐は気に入っていた。 (コミュ障のゲイが、学校に通うなんて無理ゲー過ぎたんだ。一生引きこもって生きて、この家とともに朽ち果てればいいや)  今は買い物も全部ネットで出来る。祖母が亡くなってから、家から出たのはほんの数回しかない。だが、そんな由岐も毎日のように会わなくてはいけない人間がいた。  それが、宅配便屋だ。    コンサバトリーに差し込む日差しが強くなり、ガラスの壁から見えるライラックの樹の影が濃くなった。ライラックは今まさに見頃の五月を迎え、紫色のハート型の花弁は初夏の訪れを喜ぶようにいっしんに日差しを浴びて輝いて見える。だが、由岐はそれを胡乱な眼差しで眺めた。  宅配便がくる時間はいつも大体一緒だ。正午に近づくと、青い軽トラックが正面玄関に停まる。由岐はそわそわと部屋を出たり入ったりしながら、どこでそれを待つべきか迷った。  いっそライラックの樹の下で待機して、さりげなく花を渡してみようか。前回は失敗したけど、今日は渡せるかも、いや、やっぱり無理だ。  右往左往家の中を行き来する由岐に、チリンという鈴が聞こえてきた。 (来た!)  由岐は慌てて玄関ホールに向かい、扉を開けようとして一呼吸つく。慌てず、冷静に。なるべく普通の顔で。深呼吸をしてから、今度こそ静かに扉を開けた。  と、そこには――。   「……どちら様ですか?」  すっかり宅配便屋だと思って出たが、そこには奇妙な格好をした二人連れが立っていた。  右の男は黒いシルクハットに、内側が真っ赤な黒いマントを羽織って、これでもかというほど、フリルがついたレースのシャツに黒いズボン。  左の男は、もっと奇妙だ。全身包帯に覆われて目元だけ僅かに見えるだけ。背が高く、ガタイも良さそうなので恐らく男なのは間違いないが、それ以上の情報はさっぱり分からない。人間なのかも分からないほどである。   (吸血鬼とミイラ男のコスプレ?)    ハロウィンにしては時期はずれだし、なんでこんな格好をしている人が家を訪ねて来たのかさっぱり分からない。何らかの勧誘か、詐欺だとは思うが、どういったものか得体が知れず、由岐はイギリスに来て初めて軽い恐怖を覚えた。  扉をこのまま閉めてしまいたい……けど、怒らせて変な事されても困る。   「そんなに怯えないでくださいな、黒猫ちゃん」 「――は?」  吸血鬼男の言葉に思わず耳を疑う。もしかして、黒猫とは由岐の事を言っているのか? 「な、なな、なんですか、黒猫って……」 「黒猫は黒猫ですよ。にゃ~んってね。可愛いですよね。黒猫。ちょっとツリ目な所も、真っ黒なお目々も黒猫そっくり。私、大好きですよ、黒猫」  怯えて後ずさる由岐に、何故か吸血鬼男がグイグイと近づいてくる。のけぞるようにして避けようとしたところで、ミイラ男が由岐を庇うように間に立った。 (いや、この人も怖いんだけど……)  由岐は包帯だらけの背中を複雑な気持ちで見つめた。 「やや、ミイラくん怒っているのかい。僕はいわば君の命の恩人なのに酷いなぁ。……分かった分かった。早く自分の話をして欲しくて拗ねているんだね。んもう、せっかちだなぁ。そんなんだから、トラックに轢かれて死んじまうんだよ。ワッハッハ」 「え、え?」  今、トラックに轢かれて死んだとか言わなかっただろうか。意味の分からない冗談に、由岐は眉を顰めた。そんな由岐の様子に、吸血鬼男がミイラ男の身体の横からニョキっと顔を出しケラケラと笑う。 「あら、びっくりしてらっしゃる? 吸血鬼とミイラ男を見るのは初めてですかね。最近は減りましたからねぇ。吸血鬼がこんなにイケメンでびっくりした? まぁ、驚かれるのも無理はないですよねぇ。吸血鬼がこんなイケメンなんて普通知りませんもんね」  そうじゃない。色々そうじゃない。  由岐はこの男の言葉を全く信じていなかったが、とにかくやばい奴なのはハッキリ分かった。なんとかして早く帰ってもらわねば。 「か、帰って下さい……う、ううう家には金目の物なんて、な、何にもないんだ……」  カエルが潰れたような声だが、なんとか言えた。次いで震える手で扉を閉めようと試みる。  ところが、吸血鬼男が、上等そうな黒い先のとんがった革靴をドンと扉の内側に入れ、閉まるのを阻止してきた。 「ひっ」  その音に、由岐は思わずビクリと首をすくめてしまう。駄目。無理。怖い。どうしよう。ガタガタと震えパニックを起こしかけた由岐の肩を、ミイラ男がそっと撫でた。 「え?」  そのままトントンと背中を優しく叩かれる。まるで、大丈夫とでも言っているかのような仕草に、由岐は思わずまじまじとミイラ男を見つめた。身体の中で唯一外に出ている部分。深緑の瞳が優しく由岐を見つめ返しくる。この瞳には、見覚えがあった。間違いない。この静かな瞳は――。 「そうそう。我々を追い返さない方がいいですよ。なんてったって、このミイラくんは君の愛しの宅配便屋なのですから」 「はぁ!?」  思わず大声が出てしまった。 「びっくりしたでしょう。君の愛しの宅急便屋はミイラ男になっちまったんです。と言いますのもね、ここに向かう途中、子猫が怪我をしているところに遭遇しまして、車を降りて救助をしていたそうなんですよ。そこにトラックが突っ込んできて死んじまったわけですな。いやぁ、怪我してるのを助けるつもりが、自分が死んじまったら意味ないわな。ワッハッハ。……で、スプラッタな現場に紳士でイケメンな私が通り掛かりましてね。なにやら心残りがあるということで、ミイラ男にしてやったわけです」  聞いてもないのに、ペラペラと吸血鬼が喋り倒す。何を言っているのか一ミリも理解出来ない。でも、ミイラ男の瞳は確かに宅配便屋のものだった。では、本当に? 「ミイラなんて可哀想。なんで、イケメンで人気の職業、吸血鬼にしてあげなかったのか。なんてお思いかもしれませんね。ミイラ男にしたのにはちゃあんと理由があります。実はミイラはですね、なりたてほやほや二十四時間以内に初恋の人と思いを通じあってキッス出来れば人間に戻れちゃうんですねぇ。その代わり、キッス出来なければ脳も体も腐って、臭いわ馬鹿だわ、最悪のモンスターになっちゃうわけですが。まぁ、うまい話にはなんとやらです。ところが、貴方の愛しのミイラ男が初恋の人とキッス出来るかもしれないとか言い出すもんですから……」 「ちょっと、待って!」  放っておくと永久に喋り続けそうな吸血鬼男を慌てて静止した。情報量が多すぎて、頭が爆発しそうだ。なにより……。 「そ、その、い、愛しの……って、な、なに?」  恥ずかしい単語を言いたくなくて、モゴモゴと口を動かす由岐を気にした風もなく、吸血鬼男がケロッとした顔で答えた。 「おや。だって、貴方、宅配便屋のことお好きなんじゃないんですか? 彼が、多分貴方も自分の事を好きだっておっしゃっていましたけど……」 「はぁぁぁぁっ!?」  ミイラ男の方を見れば、頭を掻いて何となく照れているようだった。その頭をどつき回したい衝動に駆られる。何を言っているんだコイツは!? 「何だそれは!? 俺、言っておくけどコイツの事、迷惑としか思った事ないからなっ」  由岐の斬りつけるような言葉に、ミイラ男が本当にミイラになってしまったようにピタリと固まってしまった。その様子に胸の奥がズクンと痛む。でも、嘘は言ってない。心の中で言い訳するが、もう少し別の言い方があったかもしれないと、早くも自分の発言を後悔し始めた。 「おやおや。両思いだと言うからミイラ男にしてあげましたのに。とんだ骨折り損でしたな。両思いでなければ、キッスしても意味はない。それとも、試しにキッスだけしてみます?」  大して残念とも思っていなさそうな吸血鬼男が、ミイラ男の背中を押して由岐と向き合うように促した。緑の瞳が憂いを帯びて、静かに由岐を見つめてくる。由岐の心臓は痛み過ぎて、もうどうにかなりそうだった。 「もう、だから嫌なんだよ。あんたといると、頭と心臓がおかしくなりそうで、本当に迷惑。俺が怯えないように、音を立てずに荷物を運んでくれたり、あんたがライラックの樹の下で優しく微笑む度に、ギャーッて叫びだしたくなって。あんたが来る二時間も前から、俺は家中行ったり来たりして、もう本当こんな自分嫌。本当迷惑。もう、やだ……」  最後は涙声になってしまった。顔を真っ赤にして、スンッと鼻を鳴らす由岐に二人ともあ然としている。あぁ、こんな自分嫌われてしまう。なんて、思うのもまた嫌だ。恥ずかしい、消えてしまいたい。 「ツンデレの初恋ですなぁ……」  吸血鬼男が何か呟いていた。でも、由岐にはもう聞こえない。ミイラ男が包帯だらけの両手を由岐の髪に絡めた。それだけで心臓の血管が何本も切れた気がする。逃げ出したい衝動に駆られたが、緑の瞳に熱っぽく見つめられ金縛りにあったように動けない。初夏の庭の緑と同じ色だ。初めて会った時から、そう思っていた。 「俺は好きだ」  ミイラ男が低い声で囁きながら、唇と唇を合わせてきた。包帯越しのキスは、驚くほど熱い。死んだなんて、嘘っぱちで一芝居打たれたのかもしれない、と思ったけど、そんな事はもうどうでも良かった。 「あぁ、紫色のライラックの花言葉は、確か初恋でしたねぇ」  そんなデリカシーを持ち合わせていた事に驚きだが、吸血鬼がこちらを見ないように、庭を眺めながら誰に言うともなしに呟いた。 (そんな事は、知ってるよ)  吸血鬼男の存在など忘れてしまったかのように、ミイラ男は包帯をずらしキスを深めてくる。恥ずかしくて、心臓が痛くて、涙が後から後から溢れてしまうけど、今度こそハート型の花を渡せるかも、と由岐は密かに思ったのだった。      

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