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てつや君

 肩を優しく揺さぶられて意識が浮上する。身構えるよりも早く、蜂蜜よりも甘い声が寝起きの鼓膜へとろりと絡みついた。「おはよう、お寝坊さん」  ああそうだ、昨晩はあの自称社長へ着いて行ったんだっけ。思い出した彼は、ようやく詰めていた息をほっと吐き出した。一瞬で冷たくなった剥き出しの肩が、少しの荒れもなく、柔らかい掌の温もりを感知する。先細りの指先が一瞬鎖骨の窪みを掠めたことが、相手の臭わせる情事の片鱗としては唯一のものだった。  彼の身体は、まだ内臓と言わず肌と言わず、膿んだ熱を保ち続けていた。腹筋が引き攣れそうになるほど巧みなフェラチオから始め、ロマンチックな正常位、乗った興に導かれる獣のような後背位、ついには我慢できなくなって挑みかかった騎乗位に至るまでのフルコース。  のろのろと身体を起こした彼の背中へ、手がさりげなく当てられる。自称社長は身を丸めすらして、深々と目を覗き込んできた。この仕草にやられてしまったから、初対面にも関わらず、持ち帰られる気分になったのだ。落ち着いた美しさを持つ男の造作の中で、唯一生き生きと輝いている部位。馴染みのバーテンダーがわざと薄めに作るハイボールでも、酔いしれることは十分可能だった。「来る?」と短く囁かれ、彼はそのアーモンド色をした瞳を見つめながら、一も二もなく頷いた。そのことに後悔はしていない。だってあんなにも素晴らしい夜を過ごせたのだから。 「今何時?」 「6時半。悪いね、早く起こして」 「ううん、普段もこんなもん」  性急に床へと脱ぎ捨てたシャツとユニクロの薄手パーカー、それにエドウィンのジーンズは、椅子の上へきちんと畳んで置かれている。両手で差し出しながら、男は一瞬手首に視線を投げた。しっくりと身に馴染みながら、ぴんと立った筋は決して取れないスラックスと同じく、巻かれた腕時計は高級品。恐らくはオメガーー昨日と同じものをつけているのだとしたら。眦に目脂がこびりつくほどしょぼついた視界では断定が難しい。 「7時半には家を出ようと思って。君、それで間に合う?」  下がった眉毛は何だか大型犬みたいだった。見とれていたから、返事が少し遅れてしまう。 「サークルのメンバーと渋谷へ集まるって言ってたよね。一度家に帰って着替えた方がいいかなと思って」 「すっかり忘れてた……ありがと」  自らの話をしっかり聞いてくれるような行きずりの相手と、一夜明け穏やかでまともな会話を交わしていることに、彼はようやく気が付いた。そんなことは本当に久しぶりだった。叩かれたりこそしないものの、大抵の場合射精した後の男なんてそっけないし、そもそも朝まで他人の家で過ごすことの方が珍しい。夜遊びはするがちゃんと帰宅する真面目な息子だと、彼は己を認じていたーーそう言えば昨夜は母親に電話をしていない。今頃さぞ不審がっていることだろう。たまの帰省なのだから、余計な心配まで持ち込むなとヒステリーすら爆発させるかも知れない。  押し込んだ気怠い体がパーカーの中で迷子になっている様子が、そんなに滑稽だったのだろうか。逆さに窄んだ袖口でじたばたする左の指先に気付き、伸ばしてやりながら、男はふふっと鼻先に笑いを広げた。そんな仕草すら侮辱的ではなく、本当に柔らかな音色で作るのだ。 「バスルームに歯ブラシを出してあるから、良かったら使って」 「うん」 「僕は卵の様子を見てくるけど、目玉焼きは固焼き? それとも半熟派?」 「固焼き……」 「奇遇だね、僕もそうなんだ」  今にも笑い出しそうに朗らかな声を追いかけ、パーカーの襟元から首を出す。踵を返す事で見せつけられた背中は広く程良い筋肉に覆われ、棒でも入っているかのように真っ直ぐ伸びていた。脊柱湾曲症の疑いがある彼が思わず憧れてしまう程に。  本当に、あんな猥雑なバーを訪れるのが場違いな男だった。見かけるようになったのは数ヶ月前だろうか。掃き溜めの鶴に目を付けていた輩はさぞ多かったことだろう。けれどあの男は、あくまで捕食する側だった。ジャケットの二の腕が破裂しそうなほどの益荒男ですら、格子窓の向こうから秋波を送る女郎の如く、ひたすらアピールしているしかない。選ばれたら幸運だ、自分自身の肉体に関する意味でも、周囲からの羨望を思う存分浴び、自尊心を回復させると言う意味でも。  つまり、意外と自らはあの男へ惚れ込んでいたのだなと、彼はバスルームの鏡を見ながら考えた。やっぱり目脂はぱりぱりに乾いている。大学生の癖に、15歳は年上なあの男よりもよほど肌の張りがない。瞳も同じくどんよりとして、隈の上を通りでろんと眼球が垂れ流れて行きそうだった。  家賃が彼の父親の月給を遥かに超えるのではと思えるメゾンはバスルームは広くてぴかぴか、水垢なんてどこにもないように見える。床が大理石仕立てである可能性に気付いた瞬間、彼は裸足の足裏から忍び寄る痛い冷たさとは違う理由で、うっすら片足を浮かせた。  乳白色の高級な石が使われている洗面台の傍らで、据付の棚はこれ見よがしに扉か開かれたている。中には彼が名前を知らない化粧品がずらり。この有様なら、触れてきた唇があんなにも柔らかくて当然だ。  久しぶりに他人とキスをした。何となく躊躇してしまうのだ、肉体関係だけが目的の相手に唇を許すのは。心ない相手はかつて「深窓の御令嬢かよ」と冷徹なのかインテリなのか分からない文句で小馬鹿にしてきたことがある。  社長様はあの間抜けと違って、「キスしたいんだ、良いかな」と確認を取ってくれた。それまでは、タクシーに揺られている時も、リビングルームでもう一杯を勧める時も、急き立てる素振り一つ見せなかった。いっそ焦れたのは彼の方だ。夜の帳に沈む寝室でお伺いを立てられるや否や、相手の首に腕を回す。爪先立って顔を寄せれば、男は柔らかく笑い、優しく腰を抱き寄せた。誰かに身を委ねることへ、こんなにも安心感を抱いたのは、一体いつぶりのことだろう。  優しく頬を撫でる男の指の感触が蘇り、慌てて首を振る。歯ブラシを探さなければ。普段、歯を磨くのは食事を済ませてからなのが彼の習慣だった。だがあの夢のような男と向き合った時、その顔へ臭い息を吐きつけたくない。  ざっと視線を辺りに走らせたが、スーパーで売っている税込100円以内のパッケージや、ホテルからパクって来たような半透明のビニール袋は見当たらない。得た結論は、洗面台へつくねんと乗せられている、四角い紙箱こそが彼に与えられたものだと言うことだった。振り出して現れたのは鼈甲に似せた柄、植えられた柔らかい毛は間違いなく天然由来の素材だろう。  食卓についてすら、まだ信じられない気分で呆然としている彼に、男はスマートな微笑を絶やさない。 「大したものじゃなくて悪いけど、召し上がれ」  そう言って供されたのは至ってシンプルな朝食、要するに目玉焼きとその下へ敷かれた瑞々しいレタス、ミニトマトが2つ、ちゃんと切り目を入れたソーセージも2本。香ばしい匂いのライ麦入りイングリッシュ・マフィンにはバターがリンゴジャム、或いはその両方を付けろと言う意味らしい。 「十分ご馳走じゃんか」  まずマグを満たすインスタントのポタージュスープへ口をつけ、彼はぼそぼそと返した。気後れを隠すことは今更諦めている。そして男も相手の心情を知りながら、わざと何ともない気楽な態度を装ってくれるのだ。 「本当はね、朝はパンとコーヒーと果物か……プロテインだけの時もあるかな。でも君がいるから、つい浮かれちゃったんだ」  歌うような口ぶりでそう言ってのける男の面立ちは、広々としたキッチンで、朝露を纏ったかの如く輝いて見えた。本当に綺麗な顔の人だなと、惚れ惚れしてしまう。汚れているところなど想像出来ない……でも昨晩、己はあのこまめに調髪されているのだろう濡羽色の髪をくしゃくしゃに乱したし、薔薇色の唇にもっと汚いことも。 「待って、動かないで」  男が唐突に手を伸ばした時、彼がびくりと肩を竦めたのは所詮杞憂に過ぎない。前髪についた埃屑を白い指はつまみ取る。 「可愛い。君を見てると、弟がいればこんな風なのかなって思える」 「それって、近親相姦じみてない?」 「例えだってば」  穏やかに崩れる相好すら、完璧さへ更なる魅力を付け加える要素にしかならない。笑うと可愛いんだなと、まだ遠目に男を見る機会しか与えられなかった頃既に気付いていたと、彼は今更思い出した。  この男と寝たかったのだと、認めるべきだ。しかもかなり強烈な欲求で。昨晩酔い潰れたふりをし、自らに甘えを許して本当に良かったと心から思う。澄ました顔をして袖にしていたら、機会は永遠に失われていただろう。  再び時計が確認された後、「家まで送るよ」と提案される。気付けば男の皿の中身は舐めたかの如く空っぽになっていた。 「そんな、いいのに。普段は自転車通勤なんでしょ」 「気にしないで。それに実は、最近ちょっとバイクはサボり気味」  道理で玄関から続く廊下へ立てかけてあったクロスバイクは新品同様だった訳だ。昨晩グラスを片手に、ビアンキだのルイガノだのと盛り上がった時、自らの愛車がジャイアントの一番安いラインであることを告白しそびれた罪悪感が、少し薄れる。  2人して照れてしまい、目を伏せた。男の長い睫毛へむせ返る含羞が乗り、色白の肌へ影を滴らせる様を目にして、芸術的感動を覚えずにいられる人間などこの世に存在するのだろうか。  もう何もかも忘れて、今からもう一度抱かれたいと、彼は強く思った。けれど男は三度時刻を改めて、椅子の背に掛けてあった上着を掴んだ。  幸い、地下駐車場に停められたアウディのセダンはさらりと清廉な象牙色に内装が統一され、欲望を溶かしてくれる。 「社長なのに重役出勤とかしないんだ」 「してるよ、20分位は。あんまり早くオフィスに顔を出したら、社員の息が詰まるだろう」  エンジンが掛かると同時にタッチパネルへ浮かび上がったのはFMラジオだが、男はすぐさま騒がしいDJの声を消してしまった。 「君のお気に入りからかけて。と言うか、知りたいな、君の好み」  運転席から投げかけられる流し目を見ないようにしながら、彼は自らのスマートフォンを弄った。こんな高級車でボーカロイドの新曲を大音量で流す勇気は無かったので、なけなしの洋楽プレイリストからオアシスを引っ張り出してくる。 「へえ、懐かしいね」  リアム・ギャラガーが気怠く声を張る『シャンペン・スーパーノヴァ』に呟きがゆったり絡まる。 「最近でも、まだギャラガー兄弟を崇めている子がいるんだ」 「嫌いだった?」 「いや。意外に思っただけ」  まだ空にはひんやりした蒼みが残り、道は空いているにも関わらず男は酷くこまめにクラッチを繋ぎ変える。 「僕らの世代でも、この曲って十分懐メロだから」  恐らくは天然のハーブ由来らしい車内の芳香剤へ揺蕩うふりをして、まだ腫れている目を閉じていたら、家の最寄駅まではあっという間だった。  ロータリーで彼を降ろしざま、男は「また会ってくれる?」と尋ねた。「うん」と答えざま首を竦めたのは、流れ込む朝の冷気のせいだと思われたかった。例えもう2度と誘いに乗らないとしても、悪者になるのは嫌だった。  アウディが去っていくのを見送りもせず、肩を窄めながら辿る帰路はとにかく寒々しい。白く曇った息は、先程マフィンにたっぷり塗り付けたリンゴジャムがおかしな変質をした結果、不快な生臭さを帯びている。全く違う匂いなのに、それは昨晩飲み下した男の精液を想起させた。  胸の詰まりを吐き出す為、大声上げて泣いてしまいたい。固く硬直した首の筋肉を無理に動かし、彼は滲んだ視界を傍らへ振り向けた。フェンス越しに眺める6年間通った母校の校庭は人っ子1人見当たらないから、あの頃との無変化が余計に強調される。己が転んで膝を擦りむいた、ささくれた砂場の囲い。てつや君のシャツへ盛大な錆汚れを染めつけた上り棒。  うぶな胸のときめきと、追い求め磨き立てられた夢想の区別はもはや付かない。けれど彼は例え経験していないとしても、断言することが出来た。一張羅が駄目になったところで鷹揚に笑っていたてつや君なら、寝坊しても構わない、早起きなんかよして一緒に眠ろうと言ってくれただろうと。 終

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