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雪見障子

布団から上半身を起こした状態で読書をし、しばらく。 なんとなしに雪見障子を見やると、白い粒が降っていた。 どうりで、いつもより静かだと思っていたら。どうりで、いつもより体の調子が悪いと思ったら。 またこの時期がやってきてしまったか。 重たいため息を吐いた。 元々体が弱く、調子がものすごくいいという日はないが、特に冷え込むこの季節は、起き上がれるか、そうではないかの二択だ。 今はまだ起き上がれるのだから、まだ良い方なのかもしれないが、その状態がいつまで続くのか。 と、そう思っているうち、軽く咳き込み始め、もうそろそろ持たなくなってきたかと、小さく息を吐いた。 そうして。少しの間の後、黒い服を着た者がその障子の前にやってきた。 雪見障子のおかげで誰が来たのか、ひと目で──と言うよりも、ここに来るのは一人しかいない。 「坊ちゃん。入りますよ」 誰よりも柔らかい声音で断りを入れ、障子を開けた。 鴨居に当たるか当たらないかぐらいの身長がある彼は、少しばかり屈みながらも、こちらに見るなり、目尻を下げた。 どくん、と脈打った。 誰にも向けられなかったその表情が見慣れないから、そんな反応をするのかと思っていたが、最近ではそうじゃない可能性も考えていた。 しかし。そうであっても赦されない。 「坊ちゃん? どうされました? やはり、冷え込んできてしまいましたから、具合でも──」 「触るなっ!」 憂いを帯びた表情ですぐそばにしゃがみ、手を触れてこようとしてきたが、触られたくなくて、そう吐いた。 が。さっきよりも悲しげな顔が眼前に迫ってきたことによって、いたたまれず、目線を下げた。 「・・・・・申し訳ありません」 「・・・・・いや・・・・・・・・・・大丈夫だ」 そう返したきり、二人は何も言わず、気まずい雰囲気が流れた。 彼にだけはそんな態度で言いたくはないのに。彼にだけは嫌われたくないのに。 どうして、上手く言えないんだろう。 読みかけの本を強く握った。 「・・・・・ぁ、坊ちゃん。寒くないですか? もう少し暖かくしましょう」 「・・・・・頼む」 肘に掛けてあった半纏を掛けてくれた後、手の届きそうな場所に置かれた陶器製の火鉢の中を火箸で炭を動かしているようだった。 四畳半程度しかない部屋とはいえ、周りしか暖まらない火鉢では心もとない。 けれども、この家の後継ぎになる資格がない自分にはその程度しか与えられない。 火箸で動かしている彼の手元を諦めにも似た目で見つめていた。 「この調子ですと、積もりそうですね」 ふと、彼の顔を見ると、彼は障子越しに見える雪を見つめていた。 「お身体に障りますから、より暖かくしておかないとなりませんね」 「・・・・・だから、雪なんて嫌いなんだ。布団から起きるのがやっとで、何にも出来やしない」 「そうですね・・・・・」 そう吐き捨てると、彼はどう反応をしていいのか分からない、困ったような返事をしていた。 またやってしまった。 次から次へと嫌いなものが増えていく日々を送っているのもあって、息をするように面白くもないことを言ってしまう。 かと言って、素直に謝罪する口はない。 下唇を強く噛んでいると、「ですが、」と弾ませた声で言った。「私は好きですよ」 唇が緩み、目を瞠ると、彼は笑みを含んだ顔で語った。 「私が住んでいた地域では、滅多に降らなかったところですから、降る度に心から嬉しい気持ちが湧き上がってきて、庭に駆け回りたくなるのです」 「なんだそれ、犬みたいだな」 「ふふ、そうですね。犬みたいです」 彼が庭で駆け回っている想像をしてみると、なんだか笑えてきて、つい笑ってしまうと、彼もつられて笑っていた。 あ・・・・・とてもいい顔だ。いつまでもその顔を自分に見せて欲しい。 と、思っているのも刹那、思いきり冷たい空気を吸ってしまったせいで、むせてしまった。 「坊ちゃんっ!」 慌てて駆け寄ってきた彼は、非常に焦った顔をして、背中をさすってくれていた。 そうしてくれるとすぐに幾分か咳が落ち着いてくる。 初めて会った時もこうしてくれたことを思い出す。 彼はうちの父親が、仕事先で路上で死にかかっていたのを拾ってきたのだという。 なんでそんなものを拾ってきたのかと思ったが、世話をしてきた者達が、主人の僅かな変化でもすぐに気づける、かなり優秀な者達であったが、それを上回る自分の傍若無人な振る舞いに辟易をし、あの時であと数年も生きられるかどうかと言われていたものだから、適当な者を選んだのだろう。 実際、今までの側仕えよりだいぶ教養のなってない、無礼極まりない者であった。 今着ている服のボタンを掛け間違えるし、ものすごく苦い茶を寄越すし、言葉遣いも、そもそも読み書きがなってないから、そこから教える羽目にもなった。 そう、その時だ。音読をしている最中、例の発作が始まってしまったのだ。 その時は特に酷く、息をするのさえ苦しく、このまま死ぬと、淡い期待と少しの恐怖が入り混じった思いを抱えながら、咳き込んでいた。 そんな自分に咄嗟に、背中をさすってくれたのだ。 家の者でさえ、その咳が伝染るかもしれないからとしてくれなかった行動に、途端に治まったことにも驚いていると、彼は、「坊ちゃんのようによく咳き込んでいた人がいたもので、よくやっていたのです」と。 はっとした顔で彼の顔を見ると、ふんわりと笑っている中に、悲しそうな、寂しそうな表情が見え隠れしていた。 あの時は何故、そんな表情をするのかと、ある意味見てしまっていたが、今思えば、忘れられない想い人でもいたのだろうと。 そこまで彼の素性は語られなかったが、勝手にそう思って、軽く嫉妬していた。 父親が勝手にその辺で拾ってきた者を、勝手に所有物にして言えた義理ではないが、この先長くないのだから、少しの間だけ借りてもいいだろう。 「坊ちゃん、大丈夫ですか?」 「・・・・・ああ、何とか」 「それは、良かったです」 本当に心底安堵したような声が上から、吐いた息と共に髪にかかった。 生暖かい。 指先が冷える部屋の中では、その一瞬だけでも暖かく感じられ、自然と小さく笑んでいた。 「雪人(ゆきと)」 「はい、坊ちゃん」 名も無かった彼に付けた名前を呼ぶと、嬉しそうな声で返事をしたのを、フッと笑った。 「寒いから、暖をとってくれ」 「あ、はい。火鉢の火力が弱かったのですね。もう少し──」 「違う」 察しの悪い雪人に、苛立ち気に言葉を遮った。 あ、えと、と戸惑いの声が聞こえた後に、「では、羽織る物を持ってきますね」と立ち上がろうとするのを、すかさず裾を掴んだ。 「坊ちゃん・・・・・?」 「坊ちゃんじゃない。名前で呼べ」 「・・・・・失礼しました。では──(みちる)様」 耳朶を震わす、心地よい声。 これまでの人生、何もかも満たされたことが無かったから、この名はかなり皮肉だと自嘲し、今までの側仕えには呼ばせないようにしていた。 だがしかし。言葉遣いや読み書き、ボタンの掛け方を教え、そして、名を与えた『雪人』は、何もかも与えてくれたお礼にと、満が今まで欲しかったものを出来うる限り与えてくれようとした。 こんな生きていても意味の無い自分を、満たそうとしてくれた。 この想いを告げられなくても、もう十分なぐらい。 そんな雪人は「どうされました」と言うので、仕方なしに返した。 「僕を抱きしめてくれ。寒すぎる」 すると、笑みを深めて満の命令通りに、抱きしめた。 雪人はいつの間にか大きくなり、いつまでも小さい満をすっぽりと収めてしまう。けれど、それがより雪人の温もりが感じられるので、嬉しいことだ。 「満様。私もう一つ、雪が降っていて嬉しいことがあるのですよ」 「・・・・・・・・・」 この温もりが心地よくて、瞼が重くなり、雪人の声が遠く感じる。 それでも雪人は構わず続けた。 「積もったら、この想いも埋めてくれそうで。・・・・・立場上、想いも告げられないのは苦しいですが、それでもこうして、そばにいられるだけで幸せだと思うのです」 雪人の緊張気味の鼓動とは裏腹に、自身のは少しずつ聞こえなくなってくる。 息を吸った時についでに出たかのような、はっと言う声が聞こえた。「・・・・・今の言葉は、ただの独り言です」 「満様。積もったら、雪だるまを作りましょう。あとかまくらというのも作ってみたいです。・・・・・二人だけの、家を、作り・・・・・っ」 突然、嗚咽のような声が聞こえる。 何、いきなり泣いているんだ、と返そうとしたものの、上手く口が開けない。 「み、満・・・・・様・・・・・」 身体中力が入らない。雪人に抱きしめられているのに、段々と寒く感じる。 雪人の温もりを感じられない。 「・・・・・・・・・・っ」 想いを告げようとした人の名を声には発せられず、震える口で辛うじて動かした直後。 満の閉じられた目元からしずくが流れたのと同時に、上からも頬に落ちたのを感じたのをさいごに、眠りについた。

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