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 無骨な指先で置かれた石がコトリと遠慮がちな音をたてる。厚みのある黒碁石が盤上でふるふると揺れた。  全然なってない。教師の癖になんて物覚えが悪いのだろう。(あまね)は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。対座する教師の日に焼けた顔は、真剣そのものだ。濃い眉をしかめ腕組みをして考え込んでいる。だが、たかがシチョウを追うだけのことで、何故こんなに真面目くさって考える必要がある? 石の取り方など基礎中の基礎だ。 「うむ、中々の難問だな」 「ちっとも難しくありません。先生は馬鹿ですか?」  周はピシャリと言った。碁笥(ごけ)から石を取り上げ、黒、白、黒、白と盤上の練習問題に回答を打ち込んでいく。石が碁盤を打つ小気味よい音が狭い部室に響いた。 「さっき説明したじゃないですか。シチョウの追い方はこうです。正しく追えば、獲物は稲妻のようにジグザクに逃げていく。その逃げる頭を打つ、こう打つ」 「なるほど、稲妻の喩えは分かりやすいな。もっかい同じのやっていい?」 「お好きにどうぞ」  教師は「やった」と子供じみた声を上げると盤上の石をかき集め、碁笥に戻し始めた。これでも囲碁部の顧問だなど。周はうんざりして椅子の背もたれに背中を預け、室内を見回した。内装は他の教室と同じ。広さは八畳ほどと手狭だが、今は新部長である周の城だ。  この春に周が入学するまで、ここは囲碁部とは名ばかりのオタク女達の巣窟だった。『ピカリンの囲碁』とかいう漫画のオタクが、菓子をつまみながら萌え話とやらで時間を無駄にする場所。周は先輩方の怠惰な様子に腹を立て、男ばかり五人の新入部員を集めて囲碁部に乗り込んだ。団体戦をして勝った方が部を取り仕切るという勝負を持ちかけたところ、先輩方は受けて立たずに顧問の馬籠(まごめ)を引っぱってきた。それが今、周の目の前で喜々として練習問題を並べているアホ教師だ。  馬籠は学生時代はアメフトをやっていたそうで、ワイシャツの肩はいまにもはり裂けそうなほどだ。捲った袖からのびる前腕は周の三倍は太かった。いかにもな体育会系だが、担当教科は日本史。周に碁を教えてくれと頼んできたのも、「清少納言や紫式部も嗜んでいたとかいう囲碁を俺もやってみたいなと思って」とかいう文系っぽい理由だ。しょうもない先輩方から頼まれて周を追い出しに来たはずが、毎日のように放課後の部室にやってきては周に碁を習う。  壁に一枚の古い表彰状を納めた額が飾られている。県女流囲碁大会個人戦優勝とある。現在はクソみたいな弱小部にも、過去には強い時代があったのか。それとも、単に箔付けのために一個人の功績を部の功績であるかのように讃え続けているのだろうか。ぼんやりと考えていたら、 「周、」  弾んだ声に遮られた。 「今度は成功しそうな気がする。見ててくれ」  周は肩を竦め、盤上に視線を落とした。黒に抱えられた白一(もく)が脱出しようと走り出す。それを黒が執拗に碁盤の端まで追い立てる。白は稲妻を描いて逃走する。やがて黒は白を完全に包囲した。成功。さっさと石を片付ければいいものを、馬籠はわざわざ死に石を盤上から取り上げ、碁笥の蓋に入れた。得意そうな顔で周を見る。まるで犬だ。飼い主が褒めてくれるのを待っているような。周は「御名答」とだけ言って、壁の表彰状に目を戻した。  下校を促す校内放送が流れる。 「さて、そろそろお暇するか」  馬籠は腰を上げた。周も道具を片付け、帰り支度をした。 「お帰りなさい」  媚びた笑みを浮かべる母親を無視して、周は二階の自室へと上がった。昔は異常なまでに過干渉だった母親は、周がキレて一発殴ってからというもの、別人のように大人しくなった。下らない小言を言わなくなったのはいいが、貼り付けたような笑みには虫唾が走る。  そんな風に卑屈に笑うのは母親だけではない、小中学時代の教師も同級生も、周を畏れ腫れ物扱いしつつ、「いつか人を殺しそう」と陰口を叩いた。周にしてみれば、こちらが謙虚にしていたのを相手が勘違いして横暴に振る舞った結果でしかない。我慢に我慢を重ねてついに爆発した場面だけを切り取って、それが周の全てであるかのように吹聴する人々のほうこそ、どうかしている。  あの教師はどうなんだろう? 周はさっさと宿題を終わらせてノートパソコンに向かい、考えた。 『じゃあまた来週な。気をつけて帰れよ』  別れ際、いつものように馬籠は言った。邪気のない笑顔。生徒と碁を打つことがそんなに楽しいのだろうか。あるいは、実はポーカーフェイスの達人で、それとなく説教を切り出す機会を窺っているのか。おそらくは後者だろう。馬籠に課せられたミッションは、三年のオタク女どものために部室を取り返すことなのだから。  気になることがもう一つ。馬籠は初めて部室を訪れた日、壁に掛けられた表彰状をしげしげと見ていた。その横顔には憂いが浮かんで見えた。過去に女流囲碁大会で優勝した女。それと馬籠に何の関係が。教え子ではないのは確かだ。馬籠は新任教師なのだから。ならば、知己の相手……昔の恋人とか?  検索しても女の個人情報は一切分からなかった。地方紙の記事すら出てこない。囲碁の盛んではない土地柄ゆえだろうか? 周は顎に手を当てて画面を見つめていたが、ふと我に返った。バカなことを。馬籠と女の関係など、どうでもいいではないか。なにしろあの教師は「女のすなる囲碁といふものを男もしてみむとてするなり」が動機で碁を始めたような奴だ。どうせ女にいい顔がしたいだけの、格好つけのニヤけた野郎なだけだ。そんな者に構う暇があるなら、碁の腕を研鑽すべきだ。周はブラウザを閉じ、囲碁対局ソフトを起動した。  翌週は中間試験だった。期間中は全部活が活動禁止。部活がなければ、三年の副担任で日本史担当の馬籠と、一年生で世界史を選択した周が顔を合わす機会はない。何がまた来週だ。というか、先週は教師にとってはテストの準備期間だったのにもかかわらず囲碁部に顔を出していたとは、とんだ不良教師だ。試験前に余分な事で苛つかされて、周の気分は最悪だった。  放課後を過ごす場が学校にないので、周は寄り道して本屋に行くことにした。成績優秀な周の場合、テスト前日だからといって特別勉強に時間を費やす必要はないのだ。  こんな田舎の本屋といえば、限りなくレンタルビデオ屋に近い漫画屋みたいなものだ。だが最近は小学生の間で囲碁が流行っているらしく、実用書のコーナーには囲碁の:棋書(きしょ)が平積みされていた。ほとんどが大人向けだが、その中で漫画が表紙の教本が異彩を放っていた。 『ピカリンとまなぶ囲碁のきほん』  どうせ虚仮威しの類だろうと周は思ったが、愛用している棋書の著者の本だったので、手に取ってパラパラとめくってみた。漫画なのは表紙だけで、中身は子供にも分かるように囲碁のルールや対局の進め方を解説したものだった。周が持っている入門書よりも良書かもしれない。これを片手に馬籠に指導すれば……と思っていたところ、背後から肩を叩かれた。振り返れば、馬籠があの人好きのする笑顔で立っていた。 「なんだ、周もその漫画が好きなんじゃないか」 「いえ、全く。それにこれは漫画ではありません。入門者向けの教本です。私よりも先生くらいの素人に向いていると思われます。子供向けに書かれていますが、このくらい平易な方が、却っていいでしょう」 「もしかして、俺のために探してくれたのか?」 「うぬぼれないでください。ただ著者が私の尊敬するプロ棋士なので、手にとってみたまでです」  辛辣な言葉を浴びせたのに、馬籠は気分を害した風でもない。手を差し出してくるので、周は本を手渡した。馬籠は眉間に皺を寄せてページをめくった。 「俺なんか初心者もいいところだから、これが教本として名著なのかも分からん。だが、周が推薦するんだからいい本なんだろうな。今、仕事中だから買って帰る訳にはいかないけど」 「先生。何故こんな所にいるんですか」 「お前さては担任の先生の話をちゃんと聞かなかったな? テスト期間は生徒たちが勉強サボって遊びに行かないように見回りするって、いってただろう」 「……失念していました」  そう素直に言った周に、馬籠はふざけて肘を当てた。周が睨むと、馬籠は悪餓鬼の顔でニヤリと笑った。 「駅まで送ってやるよ」 「何故? 私だけ変に特別扱いされるいわれはありません」 「ここらをぶらついてた生徒達はみんな帰したから、あとはお前さんだけなんでね。こんな日は、早帰りの学生をカモろうとする悪い大人とか、いるだろう? お前は大人しそうに見えるから、そういう奴らに絡まれそうだ」  大人しそう。初めて言われた。これまでの他人からの評価は大概「暗そう」だった。 「買い物はいいのか。じゃあ行くか」  周が結構ですと答える前に、馬籠は着いてこいとばかりに颯爽と歩き出した。  確かに、上背があり体格に優れている馬籠は、護衛として優秀かもしれない。だが周だって、大人しそうな顔と細身ではあるものの、ここ一年で三十センチも背が伸びて、高校生男子の平均身長ど真ん中になったのだ。教師に守られる必要はない。  駅までの道程を、二人きりで歩く。無言の時が続く。集団の中にあって一言も利かないのなら周にはよくあることだが、一対一で無言はさすがにキツい。 「先生、」  思わず考えなしに呼びかけた。 「うん?」 「あの……部室の賞状の人、先生の知り合いですか。じっと見ていたから」  よりによってこの話題。口に出した次の瞬間には頭の中が後悔でいっぱいになった。 「あぁ。俺の幼馴染」 「好きだったとか?」 「まさか。ただの気の合う友達だった。親同士が仲良くてな、小さい頃からよく遊んだ。アイツは気が強くて才能があって努力家で、何をしても一番だった。昔はただ、すげーって思ってた。だが、親から女の子に負けるなんて情けないって言われたのが悔しくてな。ある日、些細な事で口喧嘩になって、つい売り言葉に買い言葉で『お前は本当に女ですか?』って言ってしまった。そしたら口を利いてくれなくなって、それっきりだ」 「死んだんですか」 「いんや。今年、医学部を卒業したって噂だ。きっと元気でやってるだろ」  また、馬籠の表情が憂いを帯びる。ただ友達と絶交になっただけでそんな顔をするものかと周は思う。 「さて、俺の話はお仕舞い。部活のことだ」  ほら来た。昔話で気を惹いておいて、やはり説教する気満々だったのではないか。 「何ですか」 「三年生の件だ。お前は気に病まなくていいんだぞ」 「気に病む? 私があんな奴らの事で?」 「憂鬱そうな顔してたからさ。三年が部室に顔を出さなくなったのに責任を感じてるんだろう?」  あまりの勝手な解釈に開いた口が塞がらない。そんな周にお構いなしに馬籠は続ける。 「彼女達がヘソを曲げたのはお前さんのせいじゃない。俺が注意したからなんだよ。今、空前の囲碁ブームだろう。囲碁部への入部希望者は、周たちの他にも何人かいたんだ。だが彼女達が部室を占拠して騒いでいたもんだから、怖くて入りづらいという苦情が顧問の俺の所に来ていた」 「私は、気にしてなんかいません。一体何なんですか。ご機嫌取り?」  馬籠は困り顔で後頭部を掻いた。 「いやそうじゃなくて……、もう心配は無用だってことだよ。三年はお前さんに囲碁部を返せとはもう言って来ない。部長はこれからもお前がやってくれ。この話は試験前にしようと思ってたんだが、つい、お前に碁を教わるのが楽しくて切り出せなくてな。すまなかった」 「謝罪は結構です。そもそもあんな奴ら、歯牙にもかけていませんでしたから」  じきに駅前広場に辿り着く。もう護衛は不要と思ったのか、馬籠は大通りの傍にある神社の手前で足を止めた。 「そういう訳でこれからも頼むよ、部長。あともう一つ。入部希望者には女子もいるが、女だからって邪険にしないこと」 「分かっています。盤上の勝負に男女の別などありません。入部するからにはみっちり基礎から仕込んでやります」  そう周が宣言すると、馬籠はぷっと吹き出した。 「その好戦的な目な。紗征(さゆき)そっくりで、つい肩を持ちたくなる……いや忘れてくれ。気をつけて帰れよ」  馬籠の背中が遠ざかっていくのを周は呆然と見送った。紗征……あの表彰状に記された名だ。駅のほうから発車を知らせるアナウンスが響いた。

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