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現状維持も悪くない
人を恋しいと思ったコトなんてなくて。
女の子と付き合ってみたりもしたけど、冷たいとキレさせてばかりで。
俺には、その辺の能力なんて無いんだなって気づいたから、無理に恋愛をしようとしなくなった。
毎日、行きたくもない会社に行って、生活費を稼いで帰る。
会社と家の往復で、寄るのは駅前のコンビニくらい。
休日も、家でだらだらと過ごす。
それで良かった。
なに不自由なく暮らせていた。
お前が俺の後輩になるまでは。
「大丈夫、です……」
涙目の震えた声で言われたら、指導係を仰せつかった俺は、助けない訳にはいかなくなる。
今から遡ること15分前。
明日の朝イチで使う資料に載せるために、大量のデータを入力し終えた犬養 に、経理から内線が入った。
慌てふためく犬養の姿から、経費精算のクレームらしいコトを悟った。
「はい。はい、つけましたよ?」
電話で応対しながら、机を漁った犬養は、資料の隙間からひょっこりと顔を出している領収書に目を止めた。
「ぅあっ。ごめんなさいっ。出し忘れてました! 今、持ってきます」
慌て領収書を掴み経理へと走る犬養の背中に、心の中で“頑張れよ”と声を掛けておく。
経理のお姉さまは、意外に怖い。
帰ってきた犬養は、自席に座り、ほっと一息。
マウスをちょこちょこと動かし、スクリーンセーバのかかった画面を戻す。
「……っ?!」
言葉では表しきれない声に上げた犬養は、真っ白になっていた。
ちらりと横から覗いた画面には、無情にも“エラー”の文字が踊っていた。
4時間ほどを費やし、一生懸命に入力したデータが、すべてパーだ。
就業時間の終了を告げる音が、事務所に虚しく響く。
「大丈夫か?」
いや、大丈夫ではない。
4時間分の作業が飛んで、大丈夫な筈がない。
「大丈夫、です……」
声を震わせ、涙目で強がる犬養。
その涙目が可愛いなとか、要らぬ所でときめいた。
嘘だろ? ……自分を疑った瞬間だ。
指導係として面倒を見るようにと指示されている以上、知らぬ存ぜぬは通用しない。
「半分やってやる。寄越せよ」
差し伸べた俺の手には、何も乗らない。
「保科 さんのお手を煩わせる訳には……」
「間に合わねぇ方が不都合なんだよ」
資料を引ったくり、作業を始めた。
しょんぼりと肩を落とす姿は、怒られて悄気る小型犬そのものだ。
「このシステム、昔からそうなんだよ。席離れる前に保存が基本。な?」
パチパチとキーボードを叩き、画面と資料に視線を往復させながら、声だけで慰める。
「……はい」
萎れたままの小さな声で返事をした犬養は、手許に残る分の入力を始めた。
翌日、深々と頭を下げ、缶コーヒーを差し出してきた。
俺が、いつも飲んでいるマイナー銘柄のブラックだ。
たくさん並ぶ自販機から、よくそれをチョイスしたもんだと感心する。
「いつも飲んでるの見てましたから」
へらっとした笑顔を浮かべる犬養に、またしても俺の心臓は、ばくんと音を立てる。
うわぁ。マジか。
俺、マジかぁ……。
自分の気持ちに気づいてしまった。
遅い遅い初恋だ。
サボってきた恋愛に、俺の偏差値は低すぎる。
経験値など、皆無に等しい。
こうなれば、もう残された選択肢は“見てるだけ”の1択だった。
当たり前だが、雛鳥は大人になり巣立っていく。
指導係など、入社から3ヶ月も経てば要らなくなる。
犬養も、めでたく俺の手を離れた。
めでたいんだ。喜ばしいコトなんだ。
思えば思うほどに、寂しくなる。
それ以上に、不安が募る。
この3ヶ月で、どれほどやらかしてくれたコトか。
懲戒やら、厳重注意なんてコトにはなっていないが、俺は何度、こっそりと犬養の尻を拭いたかわからない。
どこか抜けてる犬養。
そのクセ、誰にも頼らずにどうにかしようと足掻き、傷口を広げる。
傷口が広げられる前に、俺は先回りで対処するクセがついていた。
1人で頑張ろうとする精神は認める。
認めるが、だ。
「頼れる人がいるうちに、頼るコトを覚えるのも大事だろ?」
犬養を心配する余りに、頼ってこない不満を同期の門部 に零す。
昼休み。
近所の蕎麦屋で、麺を啜っている。
半量になったざる蕎麦を見ながら思う。
1人前として認められたいという気持ちも、わかる。
でも事実、犬養は、今の蕎麦の残りの量。
つまり、未だに半人前なのだ。
「それは、お前が悪い」
犬養の心配をすると見せかけた俺の不満の声は、すぱんっと切り捨てられた。
きょとんとした瞳を見せる俺に、門部は半目の視線を寄越す。
「だって、目の前に壁がねぇんだもん。困ってねぇのに、頼るもなんもねぇだろ」
……確かに。
「過保護なんだよ。先回りで危ないもの全部取っ払ってたら、勉強する機会もねぇだろ」
はっと鼻であしらわれ、言葉に詰まる。
「失敗して、恥ずかしい思いをしたり、叱られたりして、成長していくんじゃねぇの?」
どうよ? と細めた瞳で俺を見やる門部に、同じような視線を返してやる。
「お前は怒られ過ぎの学ば過ぎだったけどな」
コイツが褒められていた姿を見たコトのない俺は、尤もな正論で言いくるめられた悔しさに嫌味を返した。
経験しなければ、経験値なんて積めなくて。
経験値を積まなければ、人は成長などしない。
俺は、犬養の成長の機会を悉く潰していたコトになる。
すまん、犬養。
心の中で犬養に謝り、ふと気付く。
……経験値がなく苦労しているのは、今の俺じゃねぇか。
「ぁああ……」
思わず、嘆いていた。
急に吠えた俺に、門部の訝しげな眼差しが刺さる。
「……自分の経験値不足を嘆いただけだよっ」
なんだか悔しい思いのままに、門部へと八当たる。
「お前の犬養贔屓は、そこからか」
ふむふむと何やら納得顔する門部。
「は?」
何を言ってるのだと喧嘩腰の声を放った俺に、門部の顔がにたりと笑む。
「好きだけど、どうしたらいいかわかんねぇんだろ? 見えないところで守ってやるくらいしか思いつかねぇんだろ?」
何故にバレた? と言わんばかりに、門部を見詰める俺に、くつくつとした笑い声が返ってくる。
「お前が犬養大好きなのは、お前以外の皆が知ってる事実です」
びしっと親指を立ててくる門部に、俺の羞恥心が爆発する。
青いねぇと、揶揄 ってくる門部に俺は、あわあわと言葉を紡ぐ。
「好きって……。ほら、やっぱ最初の後輩って可愛いもんだろ? 助けてやりたくなるだろ」
男が好きだなんて、犬養にときめいたなんて、知られたくない。
しどろもどろになりながら、言い訳を紡ぐ俺に、門部はジト目を向けてくる。
「言い訳なんて要らねぇよ。今時、同性好きだからって変な目で見るヤツなんていねぇって」
馬鹿じゃねぇの? と呆れた瞳を向ける門部に、俺の中の羞恥心が、どこかに吹っ飛んだ。
「俺、普通に女の子好きだと思ってたんだよ。まさか、まさかだよ? 後輩の男を好きになるなんて思わねぇだろ?」
整理しきれない感情は、考えるより先に言葉を紡がせた。
今まで動いたコトのない心が揺さぶられたコトも。
同性を好きになったコトも。
初めてのコトすぎて、俺には自身の心が片付けられない。
そもそものターゲットを間違えていたせいで、俺は恋愛に割 くべき時間を省いてきた。
「ろくに恋愛なんてしてねぇし、どうすればいいのかもわかんねぇし、もう見てるしかねぇじゃん……」
拗ねたように唇を突き出す俺に、ぶははっと豪快に吹き出した門部。
そんな顔しても可愛くねぇよと前置きし、言葉を繋ぐ。
「影で助けて見てるだけって、思春期かよっ。どんだけピュアなんだよ?」
堪えきれないと、げらげら笑う門部に、俺はむっと顔を曇らせ、声を荒らげる。
「経験値で言ったら、思春期以下だよっ。悪かったな」
「ま、これから経験すればいいんじゃね?」
蕎麦湯を注ぎながら、ちらりと俺を確認した門部は言葉を繋ぐ。
「犬養もよくお前のコト見てるし、満更でもねぇんじゃね?」
揶揄い半分で、俺に期待を持たせる。
「満更も何も。犬養にそんな気はねぇよ……」
テーブルに片肘をついて、黄昏るように遠くへと視線を飛ばした。
期待したら、落ち込むだけだ。
ほら、よく言うだろ。
初恋は、実らないって。
蕎麦屋から戻り、仕事を始める。
隣で犬養が手に持っているのは、この後の社内打ち合わせ資料だ。
うん。それ前回のな。
「犬養。それ前回のじゃね?」
俺の声に反応し、手許の資料に視線を落とした犬養は、わかりやすく驚く。
「ぁわっ」
机の上にある自分の資料を犬養に差し出した。
「俺、予備の分も出してあるから。これ持ってけ」
予備のために数部印刷してあるのは、本当だ。
そして、何度となく犬養が資料を取り違えたコトがあったのも事実。
……また、先回りしてしまった。
「すいません。いつも、ありがとうございますっ」
ぺこっと頭を下げた犬養は、古い資料を机へと戻し、大事な賞状でも授かるかのように恭しく両手で受け取った。
「ちゃんと確認しような?」
こんな一言を乗せるのが、精一杯だった。
やっぱり犬養に、恥ずかしい思いはさせたくない。
でも、成長を促すためには、気づかないフリをするべきだったのかもしれない。
……俺の意思の弱さよ。
「はい……」
蚊の泣くような声で、しょんぼりとした返事をする犬養。
落ち込ませたかった訳じゃねぇんだけど。
なんとも言えない心地悪さに、俺も席を立ち、まだ下がったままの犬養の頭を、ぽぷりと叩く。
「予備が無駄にならなくて良かったってコトにしとくか」
わしゃっと犬養の頭を撫で、その場を離れた。
会社に行きたいと思えるようになったのは、お前の姿が見れるから。
手伝ってやろうと思ったのは、お礼を言う時のお前の笑顔が可愛いから。
構わないようにしようと思ったのは、お前を成長させるため……、だったんだけど失敗した。
しょぼんとなった犬養は、何だか可哀想で見てられなかった。
俺はきっと、これからも犬養の先回りをしてしまう。
それは、犬養の成長の邪魔をする。
だけど、どこかで、俺がいないとまともに仕事が出来ないままでいてくれないかな、なんて狡いコトを思っている。
そうしたら、俺は犬養に必要な存在になれるだろ?
不本意ではある。
求めてほしいのは、先輩としての頼りがいではなく、恋人としての癒しだからだ。
……まぁ、いいか。
求める理由は何であれ、俺が必要だと思ってくれればいい。
とりあえず。
俺と犬養の関係は、現状維持。
俺の恋愛偏差値も、現状維持。
現状で満足しておくことにするか。
【 E N D 】
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