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幸三がいなくなることは、多少なりとも考えてはいたと思う。……が、その逆は気にもしていなかった。
俺は自分自身に呆れつつ、幸三の問いに首を横に振る。
幸三はそんな俺を見て、怖い話をするかのようなトーンで、その人物の名前を言った。
「牛丸 章二 サンだよ」
「……それって、営業部の?」
「そう。その牛丸サンだ」
牛丸章二は、この会社で最も有名な男の名前だ。
二十代にして、契約成立件数が営業部で常に三本の指に入っている、凄腕の営業マン。
入社してからずっと営業部所属で、入社したその年から異例の業績をたたき出していたらしい。周りの話題に疎い俺でも、その人の噂は知っていた。
つまり牛丸さんは、それほどの有名人だ。……しかも、有名なのはその業績だけが理由ではない。
彼の甘いルックスに、営業部だけでなく彼とは違う事務部にも、好意を寄せている人が沢山いるらしい。
バレンタインの時期になると、女同士の凄まじい争いがあるとかないとか。あとは、確か。……【抱いた女は星の数】という、とんでもなく凄い話も聞いたことがあるぞ。
公私ともに、とんでもない人。それが、牛丸章二という男。
俺はそこでふと、当然すぎる疑問を抱く。
──営業部の時期部長とまで噂されているその人が、そもそもどうして事務部に?
幸三は左手を自分の口元に当てるようにして、小声で話す。
「部長になるために他の部を経験させようって話じゃないかと、オレは思ってる」
「あぁ、なるほどなぁ……」
確かに、そういう理由ならこの異動も納得だ。一理ある。幸三にしては、珍しく筋の通った意見だ。
俺が頷くと、幸三はまた回転椅子のキャスターを滑らせて自分のデスクに戻った。
そしてまた、大声でぼやき始めたのだ。
「なんで、なんでっ! よりによってオレとそんなすげぇ人がスイッチなんだよーッ!」
幸三は勢いよく自分のデスクに突っ伏したかと思うと、大声で嘆く。
「比較さーれーるーッ!」
「おっ、おい……っ!」
幸三が騒いだことにより、周りの職員が俺たちに視線を送った。周りに注目されて、俺は思わず狼狽える。
……だが、なるほど。そういうことか。今になって、幸三が落ち込んでいる理由がやっと分かった。
営業部の高業績記録保持者と、スイッチ。つまり【入れ替わる】ことによって、幸三は凄腕営業マンの後任となる。
幸三としては、異動自体に文句はないらしい。だが、前任者と比較されるのを嫌がっているようだ。
……そう考えると、不憫に思えてくるな。さすがの俺でも、幸三に同情してしまった。
「まぁ、なんて言えばいいのか分かんないけどさ。とりあえず、元気出せって」
デスクに突っ伏したままギャンギャンと文句を言っている幸三に、俺は不器用ながらも声をかける。
「俺は、幸三が凄い奴だって知ってるよ。だから、大丈夫だって」
「ブン……ッ!」
幸三は顔を上げて、目をキラキラと輝かせながら俺を見る。
ほんの少しでも幸三が笑顔になってくれたなら、俺は十分力になれたと思う。
結局のところ、俺がなにを言っても人事異動に変更はない。それなら、幸三の話を聞くくらいやってやろう。
俺は力強く、そしてしっかりと頷く。それを見て、情けない顔をしていた幸三も真剣な表情になり、俺以上に力強く頷いた。
──幸三なら、大丈夫。
──三年間、ずっと隣にいた俺が保証するさ。
だが、こんなことを口で言うのは恥ずかしい。だから視線でそう訴えると、幸三は左手の親指をグッと立てた。
そして、ニコッと笑う。
「──引き継ぎ、メッチャ雑にやって牛丸サンをポンコツにするわ!」
──どうやら俺の気持ちは、なにも伝わっていなかったらしい。
あまりのショックに迷走しているのか、現実逃避をしているのか、それとも本気で言っているのか……。幸三は上に向けて立てていた親指を下に向けて、ニヤリと悪役のような顔で笑っている。
──あっ、コイツ無理。思わず、三年振りにそう思い直した。
俺は幸三から視線を逸らして、途中まで入力していたデータの打ち込み作業に戻る。
……あっ、そうだ。
さっきの幸三への保証、取り下げます。
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