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 どこかの会社の女社長と俺は、同じようなことを先輩にしてしまった。  先輩の気持ちを無視して、強引に押し付けようとして。……結果、先輩を深く傷つけた。  自己嫌悪でぶっ飛んでいるのか、今は兎田主任が全く怖くない。  ジッと兎田主任を見上げるも、なぜだか足を下ろされてしまった。 『……チッ。気色悪ぃ』  それが面白くなかったのか、兎田主任は俺に背を向けて、怠そうに事務所から出て行く。  それを見送ってから、俺は兎田主任が持ってきたクリアファイルに入っている商品のデータ入力を始めた。  入力作業をしていると、辺りはすっかり暗くなって。また一夜を職場で明かしてしまいそうになった俺は、さすがに慌てた。  せめて一日くらい、きちんとベッドの上で寝よう。そんなことを考えた俺はなんとかアパートへ戻り、浅い眠りに何度も目を覚ましつつ、朝を迎えて。  ……そして、今に至るというわけだ。 「最近子日さん、朝早いですよね」 「確かに、珍しいよな。おはよう、子日」 「おはようございます」  いつも早く出勤している女性職員と課長が、俺を見て驚いた様子で挨拶をする。  誰かが、事務所にいる。ましてや、いつも出勤する時間が大して早くもない俺がいることに驚いたのだろう。  すると、職員がまばらに出勤してくる時間帯になって。……俺の隣のデスクに座る人が、出勤してきた。 「おはよう。……最近早い、よね」 「えぇ、ちょっと。……おはようございます」  先輩がどんな顔をしていたのか、俺は知らない。先輩の顔を、ここ最近見ていないから。  ただ向けられる声だけは、いつもと違う。それだけは、知りたくもないのに分かってしまった。  最近は、いつもの【アレ】を言ってこない。……まぁ、無理もないだろう。俺が先週、あんなことをしたのだから。  ──先輩の首に付けたキスマークは、さすがに消えているといいな。  ──先輩は今、右手首を掴んだりしていないだろうか。  それを確認する勇気が、俺にはどうしたって出せなくて。  周りの職員は俺たちのことを、どう思っているのだろう。なにも言ってこないということは、一先ず『二人の間に、なにかがあった』程度には認識されているっぽいが。  ……頼むから、このまま触れないでくれ。あまりよく眠れていない俺の頭では、うまい言い訳が思いつかないからな。 「えっと。……あっ、子日君。コーヒーでも──」 「自分で用意していますので、結構です」 「あっ、そ、そっか。……それじゃあ、なにか他の──」 「すみません、先輩。作業に集中したいので」 「あっ。……ご、ごめんね……っ」  先輩が謝る必要なんて、どこにもない。もとをただせば……先に俺が、先輩との約束を破っただけだ。  だから謝るべきなのは、俺の方で……。 『ごめん、なさい……っ。ごめんなさい、先輩……っ!』 『変わってしまって、ごめんなさい……っ! あなたが求める俺でいられなくて、ごめんなさい……っ! 嘘吐きで、ごめんなさい……っ!』  あの程度の謝罪で許されるのなら、この世界は狂っている。少なくとも、俺の世界は関節が外れてしまっているだろうが。  ……その大切な関節を砕いたのはそもそも、俺自身だったか。  それ以上先輩と会話することなく、俺は作業を続行した。

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