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第1話
ジャケットの袖にシミがあることに気づいた。なぜ見落としていたんだろう。クローゼットから出した際に汚れやほつれはないか、確認したはずなのに。しかし、いまさら気づいた所で後戻りは出来ない。急かすように俺を乗せたエレベーターの箱は6階に到着した。長い廊下を歩き、指定された会議室に向かう。
都内にある青川スタジオで特撮ドラマ『クロウマンⅡ』の顔合わせがこれから行われる予定だった。『クロウマンⅡ』は一世を風靡した特撮ドラマ『クロウマン』の約10年ぶりの続編だった。
『クロウマン』は天涯孤独の身の黒川龍がカラスのような覆面で顔を隠し、社会に蔓延る不正に立ち向かっていくという内容で、子ども向けとは思えない内容が話題になった。なぜそんなに詳しいかというと、俺が25歳の時に主役の黒川龍を演じたからだ。
会議室にはプロデューサー、ディレクター、脚本家らが集まっていた。大半がまだ席に座らず、立ち話をしている。この中に俺のことをまだ覚えている人はどれくらいいるのだろう。
俺は俳優の仕事以外に、派遣のアルバイトをしていた。昔はアクションが出来るのを売りにしていたが、年を取る度にどんどん仕事が減っていった。俳優業とアルバイト、どちらが本職なのかわからなくなっていた。
そんな落ち目の俺にクロウマンの時にプロデューサーを務めていた冨澤さんがまた声をかけてくれた。思いがけない誘いだった。クロウマンの続編を作るにあたりゲスト出演ということで、クロウマンのラスボスを演じてほしいということだった。ヒーローを演じた俺が悪役をやるなんて皮肉な話だったが、すぐに出演を決めた。既に俺は仕事を選べるような立場ではなかった。
「熊ちゃん、元気にしてた?」
丸眼鏡の初老の男性が近寄ってくる。冨澤プロデューサーだった。少し老けた気がする。それはお互い様なのかもしれない。
「冨澤さん、お久しぶりです」
冨澤さんは俺の名前である熊谷 衛から熊ちゃんと呼ぶ。35歳になってまで熊ちゃんと呼ばれるのは少し気恥ずかしい。
「先に今回クロウマンⅡで主役を演じる近藤花近くんを紹介するよ。花ちゃん」
今回のクロウマンⅡは初代の主役の黒川龍の子どもの黒川隼人が主人公の話だと聞いていた。冨澤さんに呼ばれて青年がやってくる。あまりの端正な顔立ちに息を飲む。大きな瞳は驚くほど澄んでいて、鼻筋が通っていてる。4000人が受けたというオーディションで選ばれたことだけある。まだ高校生くらいに見えた。陶器のような滑らかな肌に涙が一筋走った。ぎょっとした。近藤花近は突然泣き出した。
「すいません、クロウマンの大ファンで。だから、熊谷さんに会えて感激しちゃって」
大粒の涙がボロボロと溢れる。突然のことに言葉も返せない。
「俺、熊谷さんみたいに演技もアクションもできる俳優になりたと思っているんです」
涙で輝く瞳で俺を見た。居たたまれない気持ちになってくる。
「そりゃ、どうも」
苦し紛れに俺は言葉を返した。
周囲も優しい眼差しで近藤花近を見ている。なんだよこの空気は。
「花ちゃんは、クロウマンの大ファンでね。オーディションの時のクロウマン語りは熊ちゃんにも聞かせたかったよ」
冨澤さんは丁寧に説明してくれたが、俺は曖昧に頷くしかなかった。花近は花近のマネージャーに促されその場から離れた。
「大丈夫なんですか、あいつ」
周囲に聞こえないように小さな声で冨澤さんに囁いた。
「大丈夫。演技は申し分ないから」
プロデューサーの冨澤さんが言うのだから間違いないんだろう。
「まあ俺が鍛えてやりますよ」
「ほどほどにね。ドラマの中で君たち親子役なんだから」
「へ?」
俺の腑抜けた声に冨澤さんはケラケラ笑った。
「今回のラスボスは闇落ちした黒川龍なんだよ。熊ちゃんほんと昔から台本読まないね」
冨澤さんは微笑みながら毒を吐いた。そういうところもプロデューサーは変わっていない。
「だから便所までついてくんなっていってんだろうが!」
「でも、演技についてお聞きしたくて……」
「聞いてやるから便所くらい一人で行かせろや」
俺は溜め息をついた。クロウマンの読みあわせが始まると、近藤花近はなにかにつけて俺についてきた。演技についてアドバイスが欲しいらしい。たしかに花近は俺に憧れてると言っていたが、常軌を逸している。なにか下心でもあるのかと疑ってしまう。俺には芸能界のツテなんてないのに。
それに花近はプロデューサーが言うように演技に問題はなく、正直俺のアドバイスなんて不要に思える。読みあわせが終わると役者たちは各々部屋から出ていく。
「冨澤さん、お願いです。俺にアクションをやらせてくれませんか?」
まだ椅子に座ったままの冨澤さんに花近が頼み込んでいた。不穏な雰囲気を察して皆そそくさと部屋から出ていく。
「前にも言ったよね。花ちゃんには変身前のクロウマンを演じてもらうって。変身後は君の仕事じゃない。そういう契約なんだよ」
悔しそうに花近は顔をしかめた。いまや特撮ドラマの変身後のアクションはスタントマンにやらせることがほとんどだ。俺の時は養成所で殺陣を勉強してたので、変身前も変身後も両方演じたがそれ自体珍しい事だろう。
「劇団でアクションも習いました。だから……」
「花ちゃんは映画の主演も決まってるんだよね?」
初耳だった。花近は俯いたまま頷いた。花近にとっては嫌な切り札だったようだ。
「もし怪我したらどうなるか賢い君ならわかるだろう」
花近は黙り込んでなにも返せないでいる。若手俳優が撮影現場で大ケガをするなんてことがあれば大ニュースになるだろう。冨澤さんは花近の肩を叩いて部屋から出ていった。残された花近は力なく近くの椅子に座り込んだ。俺も冨澤さんと同じように部屋を出た。あいつがへこもうと俺の知ったことじゃない。そう思うのに気になってしまう。廊下にある自販機でペットボトルのお茶を二つ買い部屋に戻った。
「ほれ」
ペットボトルのお茶を投げると慌てて花近はキャッチした。
「ありがとうございます。やっぱり熊谷さんは優しいヒーローですね」
眩い笑顔を俺に向けてくる。
「おべっかは止めろよ。俺はヒーローなんかじゃねぇよ」
実際は普通のおっさんでしかない。才能もないのにまだ俳優業にしがみついたままだ。
「ヒーローですよ。俺は小さい頃から熊谷さん演じるクロウマンが好きでした」
じっと俺を見上げて奴は言った。まるで告白みたいだと思った。
「俺小さい頃から体力なくていじめられてたんですけど、クロウマン見て強くなりたいって思ったんです」
花近の真摯すぎる言葉に俺はどう返していいかわからなくなる。
「そういうの困るんだよ。勝手に俺なんかに期待すんな」
花近の顔から笑顔が消えていく。この青年の期待に応えたい気持ちと、熊谷は大したことないと早く幻滅してほしいと言う気持ちがせめぎあう。俺はすごい俳優じゃない。落ちていくのただの凡人だ。呆然としたままの花近を残して俺はその場を去った。本当に情けない。
「熊谷さん、息子さんの演技が気になるんですか」
「バカ言うな」
仕事を終え暇をもてあましたメイク担当の女性がからかうように言ってきた。
俺の出番はまだ先だが気になって、ロケバスに乗り込み栃木のロケにまでついてきてしまった。栃木にある有名な竪坑櫓で撮影が行われることになっていた。とある画商が贋作を本物と偽り儲けていたことがクロウマンの耳に届き、クロウマンは贋作だけではなく画商の倉庫ごと燃やしてしまう。怒り狂った画商の男と社員たちがクロウマンを追い詰める場面の撮影だった。初代も尖っていたが、続編も相変わらずだ。クロウマンが昔からアンチヒーローと呼ばれただけある。花近が演じるのは変身前で、今回はアクションシーンがほとんどなのでやつの出番は少なかった。俺の言葉で多少ショックを受けているかと思ったら杞憂に終わった。花近は普段通りだった。気にしていた俺が馬鹿みたいだ。
変身前のシーンを録り終えると、クロウマンに扮したスタントマンが現れた。黒いマントとカラスのような仮面は初代とほぼ変わっていない。竪坑櫓の屋上で画商の手下と戦い、そこから飛び降りるシーンの撮影だ。カメラが回りはじめ、スタントマンの演技に呆気にとられた。いや、下手くそ過ぎるだろ。手や足の動きなど俺の癖を真似してるようだが、仮面のせいで呼吸が苦しそうだし、視界が遮られてるせいで周りが見えていない。画商の手下を演じる役者たちもスタントマンのあまりのぽんこつ具合に混乱しているようだった。タイミングを誤り手下が持った棒が頭を直撃し、クロウマンが倒れた。クロウマンがやられるという悪夢のような場面だった。
「花近!」
カメラがまだ回っているのにも関わらず俺はクロウマンに近寄った。クロウマンの上半身を起こし、仮面を剥がした。やはり花近だった。息は苦しそうだが怪我はしてないようだ。棒も一見固そうに見えるが、実際は柔らかい素材で出来ている。
「お前なにやってんだよ」
カッと頭に血が昇り、やつの胸ぐらをつかんだ。
「スタントマンはどうしたんだよ。なんでお前がやってんだよ」
問い詰めるように俺は尋ねた。
「俺が嘘ついて代わってもらいました。変身後も俺がやることに決まったって」
「お前がそこまでの馬鹿だと思わなかったよ……スタントマンはどこだ?」
俺は辺りを見回した。
撮影現場が混乱するなかで最悪なことが発覚した。自分の仕事はもうないとスタントマンは現場を出てしまったらしい。こんな山奥だ、呼び戻したとしても何時になるかわからない。もともと撮影時間も押していたし、撮影許可も今日しか取っていない。役者たちに代われるものはいるか聞いたが誰もやりたがらない。たしかに、命綱があったとしても突然竪坑櫓から飛び降りろ言われても躊躇するだろう。後はCGでどうにかするという代案もあった。
スタッフの間に不穏な空気が流れはじめる。花近も事の重大さに気づきはじめ顔が青ざめていく。自分ならできると驕ったせいだ。ざまあみろだ。そう思いながらも、花近を見ると胸が傷んだ。彼は俺をヒーローと呼んでくれた。そんなやつを俺は見捨てるのか?期待に応えるのがヒーローじゃないのか。俺は周りを見渡しながら言った。
「俺が代わりにクロウマンやります」
「熊ちゃん、本当に大丈夫?」
「心配しないでくださいよ。今もジム通ってるんで」
クロウマンの衣装に身を包んだ俺は冨澤さんに笑い返した。嘘だった。ジムなんてここ数年行っていない。体力の衰えも日々感じている。周囲もクロウマン初代を演じた熊谷ならできるんじゃないかと期待をしているのがわかった。監督や画商の手下役と話し合い、それぞれの動きを把握する。付け焼き刃もいいところだが、必死で動きを頭に叩き込む。花近と同様に俺だってクロウマンⅡでは、アクションをすることは契約に入っていない。しかし、クロウマンⅡの放送もまだ始まってないし、俺がもし怪我したところで花近よりうやむやにしやすいだろう。穏やかそうに見えて冨澤さんはそういうところまで考えてる人だ。
屋上のシーンは何テイクが撮ったあとにOKが出た。まだ時計塔からの落下シーンがあるのにその時点で既に体が悲鳴を上げていた。仮面のせいで息が吸えない。スタッフたちが念入りに命綱を確認する。地上にはマットが敷かれていた。地上にいるスタッフが見守っていた。みな俺が成し遂げるのを期待している。花近もいた。カメラが回りはじめ、スタッフのゴーサインがでる。恐怖を振り切り思いきって地面を蹴った。年月が経とうともお前は俺のことをヒーローと呼んでくれた。お前が望んだヒーローってやつを見せてやろうじゃないか。俺の体は風を切り、落下していく。勢いよく俺の体はマットに落下した。怪我はしてないがそのまま横になった。周りから拍手が起きる。震える手で仮面を外す。息が苦しくて吐きそうだ。こんなことなら昼に弁当食べるんじゃなかった。花近が近寄ってきた。
「見てたか、鼻垂れ」
花近に向かって手を伸ばした。花近に手を掴んでもらいマットから引っ張り起こしてもらった。花近の目は充血していた。前みたいに泣き出すより幾分ましだった。あんまりおっさんに無理させんじゃねぇよ。
「俺はお前のヒーローなんだろ。はやく俺に追い付けよ」
花近は俺の手を強く握り返した。
「必ずあなたに追い付きます」
力強く彼は言葉を返した。
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