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第1話
夏休みに入って暑く忙しない日々が続いていた。
町を練り歩く金魚売の声が聞こえる。咲き終わった朝顔が軒下でしぼんでいる。
大正の世になって数年、日々は穏やかだ。
去年までは蝉取りや花火や縁日などを楽しみにしていたが、十二歳にもなるとそんな子供っぽいこともしていられない。学校の課題も多く辟易していた。
それでもその夏は特別で大切な夏だった。
寄宿制度のある第一高等学校の学生である兄が、夏休みで家に帰って来ていた。
僕は勉強を見てもらおうと兄の部屋に行く。ふすま越しに気配を感じた通り、兄の部屋には客人がいた。
その人は明るい眼の色をしておっとりと僕を見た。
それが土岐さんだった。
優しそうな人だった。
少し眉が細く、目尻は下がっていて、いつも微笑んでいるようだった。
僕なんかまだ子供なのに話し相手になってくれた。
トランプのババ抜きで負けてくれた。
もっと真剣にやってくださいと文句を言う僕に向けて、「本当に勝負事には弱いんだよ」とまた笑った。
「土岐は正直すぎるんだ。嘘がつけない」
兄さんが救いにならないことを言う。
土岐さんはまた笑った。
綺麗な笑顔だった。
それは僕の胸の鼓動を速くさせた。
でも、まだ年若の僕には、そのことが示す意味なんか分からなかった。
子供だったのだ。
土岐さんは文京区にある第一高校の学生の中でもとても出来が良いらしく、兄に勉強を教えたりすることがあった。そんな時、僕はいつも部屋から追い出された。
「今日は遊べなくてつまらなかったろう。ごめんね」
帰り際、そう言って気を使いキャラメルを一つくれた。
僕はそれを食べずにずっと取っておいた。もったいなくて、神々しくて、口にするのが憚られたのだ。
土岐さんは足しげく兄の元にやって来た。
いっそ泊って行けばいいのにと僕が言うくらいには頻繁な訪問だった。
ギャマンの瓶に入れたキャラメルは少しずつ数を増やし、瓶を振ると乾いた音を立てた。
僕は瓶を見ながら土岐さんを思った。
第一高校の学生の大半は東京帝国大学に進む。兄も土岐さんもそのつもりらしかった。
兄も土岐さんも優秀だった。文武両道という言葉があるが、土岐さんは主に文を、兄は武を重んじていた。
反して自分は学業不振だった。
兄と比べられるのが嫌で親に反発したりもした。
豪放磊落な兄とは似ても似つかぬ矮小な自分が情けなかった。
けれど結局兄の度量の広さには敵わず、そしてやはり兄を尊敬していたので、なんやかやと理由をつけては兄の元に足を運んだ。兄は身内のひいき目を差し引いても男らしい美丈夫だった。
土岐さんはいつものように兄の部屋に来ていた。とても馬が合うらしくいつも和やかな雰囲気だった。話をしている時もあれば、寮歌を歌っている日もあった。
「嗚呼玉杯に花うけて」
兄のだみ声と違って、土岐さんの声は聞きやすく綺麗だった。
魅力的な笑顔は僕の胸をわし掴んだ。
なんだか分からないけど胸がちりりっと痛んだ。
土岐さんのような優しい友人を持っている兄が羨ましかった。
そして僕は、ふたりと年が離れているのが猛烈に悔しかった。
兄をうらやましく思った。土岐さんと同じ年で学級も同じだったからだ。撃剣部に所属して剣道に邁進しているのも同じだった。
優しい土岐さんが棒を使って殴り合いをするのは意外な気がした。
「土岐さんに剣道は似合わない気がします」
ある日、兄が所用でいなかった午後、それを言葉にするとどこか寂しそうな笑顔が返って来た。
「男として少しでも強くありたいからね」
柔らかい笑みはやはり剣道をするような野蛮な人には思えなかった。
失礼を承知でさらに言い募る。
「野蛮な喧嘩なんかやめたらいいのに」
「喧嘩と違って剣道にはしきたりがある。礼を重んじる。決して野蛮なんかじゃないよ」
「でもその手、剣道で怪我したんでしょう」
僕が追及すると土岐さんは困った顔をした。いたずらがばれた子供のような表情で手の傷を隠す。上に乗ったほうの手の甲はとても白い。
「これは、私が下手で弱いからだよ」
わざわざ怪我なんかしたい気持ちが僕には分からない。やはり剣道など向いてないと思った。
「土岐さんの手は綺麗で好きですよ。怪我なんかして欲しくないです」
僕が土岐さんの友人なら絶対に辞めさせるのにと考えて、一番の友人である兄はどうなのだろうと思いを馳せた。
土岐さんも思うところがあったようで、ふと息を吐く。
「明くん。君は尊と同じことを言うんだね」
尊というのが兄の名だ。最初土岐さんは兄を名字で呼んでいたが、兄と僕と区別がつかなくなるためか、それぞれの名前で呼ぶように変えたのだ。
まろやかな声で土岐さんに名前を呼ばれると僕の胸はいつもほっこりした。
「兄さんが僕と同じことを?」
意外だった。バンカラで硬派な兄らしくない。
そして焦った。兄さんもきっと土岐さんのことが好きなのだと。
急がなければ土岐さんは兄のものになってしまうと、なぜだか確信していた。
「僕、土岐さんの手も、土岐さんも好きですよ」
言ってから、自分の気持ちにはっきりと気がついた。
耳から火が噴き出そうだった。
でも口は止まらなかった。
「土岐さんをお嫁さんにしたいくらい好きです」
男の土岐さんになんてことを。
頭では分かってたのだが、相応しい言葉が浮かばなかったのだ。
土岐さんは目を丸くしている。
それからいつものような優しい笑みを浮かべて言った。
「好きだと言ってくれてありがとう。本当に君は尊と似ているね」
言葉に含みが感じられた。
「それってもしかして、僕と同じことを兄さんも言ったんですか?」
土岐さんは首を縦にも横にも振らなかった。
それでも、答えは明らかだった。
眼の色になんとも言えない艶があった。
兄は土岐さんを好きなのだ。そしてそれを土岐さんに伝えたのだ。
「それで土岐さんはどう答えたんですか?」
「内緒だよ」
優しい微笑はひどく残酷で僕は声が出なくなった。
あまりに意気消沈した僕の様子に土岐さんはしばし迷い、迷ってから白状した。
本当に嘘のつけない人だ。
それが土岐さんの魅力でもあり、そういうとこも僕は憧れていたのだが。
「ごめんね、明くん。尊に気持ちを……心憎く思っていると答えたよ」
控えめな言い方だが好きという意味だ。
やはりそうなのだ。
目の前が暗くなった。
「僕には資格がないのかな。僕がまだ幼いからだめなのかな。僕が兄さんと同じ年の人間だったら僕を相手にしてくれた?」
兄と好敵手になれたのではないか。
土岐さんを争う立場になれたのではないだろうか。
「うんと……ね」
土岐さんは困ったように眉を顰める。
「たくさんの人の中で尊だけが光って見えたんだ。『見つけた』って感じだった。年齢なんかどうだって、尊だけが特別なんだ。変な例えになるけど、もし尊が君と同じ年だったとしても一番好きになったろうね」
冗談めかした言い方にも土岐さんの優しさが滲んでいた。
眼が夢見るようにうっとりとし、『ああ、本気で兄さんを好きなんだ』と僕は絶望する。
僕は兄さんにかなうところがない。
読み書きでも、算術でも、武道でも、肝っ玉の据わった兄さんは本物の漢だ。
以前、泥棒を捕まえて警察につき出したくらいの猛者だった。
僕なんて足元にも及ばない。
「兄さんが好きだから、だから僕と仲良くしてくれたんですか?」
いじけた質問は恋しい相手を困らせていた。
「そんな風に思わないでくれ。尊とは違う意味で君のことを好きだよ」
「土岐さんは優しすぎるよ」
僕はそのままその場で涙をこぼしてしまった。
日本男児のくせに人前で泣いてしまったことが恥ずかしく、また、兄さんならこんな時でも涙なんか流さないだろうと思うと、やっぱり悔しかった。
そんな気持ちを察してくれたのか、土岐さんは「ごめんね」と囁いて前にうずくまった僕の頭を撫でてくれた。
「子供扱いしないでよ」
反射的にその美しく白い手をはねのける。
自分でも嫌になるくらい子供だった。
ますます恥ずかしい。
土岐さんはもう一度「ごめんね」と言って立ち上がった。
「そのうち君も本当の恋を捕まえられるよ」
この感情がなんなのかは、言葉で表せない。好きなのに。土岐さんが好きなのに。
「お兄さんはお兄さん、君は君だよ」
拗ねたことを言った僕を土岐さんは励ましてくれる。
「君にも君に相応しい誰かがいるはずだ。その人物と会ったなら絶対に分かる。きっと輝いて見えるから。『見つけた』って思うから……」
そう言いおいて土岐さんは部屋を出て行った。
懇意な関係になる、心も身体も、重ね合う。契りを交わす。男色関係を持つ。そういうのを念友というのだそうだ。寮生の間では珍しいことでもないそうだった。
兄と土岐さんは念友だったのだ。
少し不思議な感じはしたが、嫌ではなかった。
例えば上級生が下級生を育て導く。その中で身体と身体も重ねる。ますます絆が強くなる。
互いを尊重し愛し合うというのは、男と女だけのことではないのだと、第一高校に入ってから僕は知った。
あの日、男の僕が男の土岐さんに寄せた思いを、土岐さんは胡麻化すことなく受け取ってくれた。
報われなかったけれど、誰かを思う気持ちの大切さと貴重さとを学んだ。
この春、ふたりは希望通りに東京帝大に進んだ。学部は違えど今も当然仲が良い。
焼ける。
でも僕はもうあの日のような涙は出ない。
どんなに恋焦がれても兄には土岐さんで、土岐さんには兄なのだと理解していたからだ。
かけがえのない存在。
替えの利かない相手。
求めあう魂。
互いが互いの特別であること。
土岐さんの前で泣いたあの日からずいぶん月日が立っていた。
僕は第一高校の二年生になっていた。
剣道で日々精進している。
まだ運命の相手には遭遇していない。
でも焦りはなかった。
今は学問と武道にいそしむ時なのだ。あまりに偉大な兄だけれど、少しでも近づきたい。あまりに優しい人だから、土岐さんのようになりたい。
いいお手本がいるのだ。その魅力を感じながら、自分なりに歩んで行ければいい。
真剣に素振りを繰り返すと頭の中が空白になる。
手には心地よい痺れ。
自分を律する高揚感。
そんな時、不意に道場の入口で沸き起こった喧騒に、僕は竹刀を止めた。
「なにを騒いでるんだ」
「おう、なんだ。明か」
三人とも見覚えのある顔だった。
大柄な身体に隠されるように、一人の人物が抑え込まれている。
無理やり拉致してきたらしい。
僕は顔を顰めた。
僕の不愉快に気がつかないのか、得意げに戦利品の説明をしてくれる。
「あんまり可愛いものだから稚児遊びを教えてやろうと思ってな」
悪びれない声に僕の眉はぴくりと動いた。
「今年の一年生で一番かわいいメッチェンだ」
捕まった下級生は身を捩っているが、腕を押さえられてかなわない。
「こいつ、ちっともなびきやしない」
「変に弁が立つし、頭がいいもんだからうまく逃げられる。今日こそは捕まえたぞ」
麻袋を頭にかけられた憐れなさまで暴れているが、三人がかりではどうにもならない。
僕は呆れて言った。
「そういうのは一方的なものじゃないだろ。互いが互いを思い合って繋がるものだ。違うか」
「明は頭が固い。身体が繋がったら心も繋がる。そういう順番もあるだろう」
「そんなのは詭弁だ。卑怯な真似はするな」
力づくなんて犯罪ではないか。
「かわいそうだろう。逃がしてやれ」
僕は手を伸ばし囚われの人物の頭からすっぽりと麻袋を取った。
乱れた前髪の奥から聡い眼がこちらを見ている。
瞬間、目の前で火花が散った。
これは。
その下級生も酷くびっくりしたようで、目を見開いたままでいる。
『見つけた』
僕の心が大きく動いた。
「仕方ない。明は真面目だからな」
戒めを解き、やれやれと諦めて去っていく暴漢たちの背中。下級生の肩からほっと力が抜ける。
「どうして今日は捕まったんだ」
「撃剣部に入って剣道をしたかったんです。だから見に来たんだけど」
言いにくそうに口ごもる。
「その…、先輩に教わりたくて」
印象的な黒い瞳に僕の姿が映っていた。
「僕にかい」
「はい」
美しい成りの少年は、頬を紅潮させて熱く僕を見つめる。
僕も狂おしい思いで彼を見つめていた。
「入学式の時から先輩に憧れてて……僕、先輩が好きなんです」
唇を震わせながら必死に伝えてくれる恋情。
胸の内がじわりと熱くなる。
ああ、そうか。これが恋という奴か。
彼は僕にとって特別な存在になる。そう確信した。
僕は土岐さんの言葉を思い出す。
『そのうち君も本当の恋を捕まえられるよ』
初恋はかなわなかったけれど、僕は真実の恋を手に入れたのだ。
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