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 あ……気持ち悪い……。  晟一(せいいち)は視線を下に落とした。初めての電車通学を始めて1ヶ月半、早くも選択を誤ったと後悔していた。何で、近くの公立にせえへんかった? 仲の良い奴らと離れて、そんなにあの高校に行きたい理由は何やった?  知る人もいない慣れない高校生活に疲れている上に、ここ最近異様に蒸し暑い。すし詰めの電車の中は、汗と脂のような臭いが立ちこめ、晟一の嗅覚を蹂躙(じゅうりん)する。それを肺に入れたくなくて、呼吸を浅くすると、眩暈(めまい)がしてきた。  つんつんと右肩をつつかれた。ぼんやりとそちらを見ると、眼鏡をかけたスーツの男が、手振りで何か指示してきた。 「何……」  彼は口を開かない。何やねん。晟一は八つ当たり的に、胸の中で彼に突っかかったが、場所を代わってやろうと言ってくれているのがわかった。その顔には、自分に対する心配が浮かんでいた。  彼は貫通扉の(そば)に立っている。(もた)れられたら、少しは楽だ。 「すみません……」  晟一は呟き、周りから嫌な目で見られながら、眼鏡の会社員とごそごそ動く。扉に上半身を預け、目を閉じて深呼吸した。  人を詰め込むばかりの電車は、晟一の降りる駅で一度中身が入れ替わる。晟一は左に立つ会社員に、小さく礼を言った。彼は柔らかく微笑して、会釈した。世界史の教科書に載っている、古い仏像の写真を思い起こさせる表情は、何故だか印象に残った。  晟一は翌週、その眼鏡の会社員に、同じ時間の電車で再会した。進まない列にやきもきしながら電車に乗り込み、奥を目指すと、貫通扉の傍に彼が立っていた。 「あ……」  晟一が思わず声を洩らすと、相手も眼鏡の奥の目を見開いた。満員電車では、とにかく位置取りが大切だ。晟一は網棚に素早く鞄を置き、彼の横に立つ。 「こないだはありがとうございました」  彼は晟一の言葉に、柔らかな笑みを口許に浮かべたが、何も言ってくれなかった。おかしな間が空く。そして電車の揺れが小さくなると、彼は吊り革から右手を離し、小指を立てて自分の顎に2度触れた。  え……手話? 晟一はどきっとする。話さへんのやなくって、話されへんのか。彼は眼鏡の奥の目に笑いを浮かべ、戸惑う高校生を見つめる。 「あ、その、すみません、手話はでけへんので……」  会社員がうんうんと頷いてくれるので、晟一はちょっとほっとする。彼は扉に少し凭れながら、スーツのポケットから小さなメモとペンを出した。筆談しようっちゅうこと?  手話を使う人は、耳が聴こえず話せないというイメージがあったが、彼は耳は聴こえている様子だ。  会社員は電車の揺れを逃がしながら、器用に細くて小さなペンを動かす。 (今日は体調は大丈夫ですか?)  白い紙の上に書かれた字は、整っていて見やすかった。 「はい、マシです」 (よかったです。急に暑くなって体がしんどいですね) 「はい……」  何でもない話題だったが、意思疎通の方法が少し違うと新鮮だ。会社員は面倒がらずに、その後も晟一にきちんと応じてくれた。  やがて晟一の降りる駅に着き、会社員に挨拶して、降りる人波に流される。彼はやはり柔らかい笑顔で見送ってくれていた。何となく嬉しく、同時にもうちょっと喋りたかったな、と思った。  その準急の、後ろから3両目の京都寄りの扉から乗ると、眼鏡の会社員に遭遇する確率が高いと晟一は学んだ。  彼はある朝、クーラーが効きすぎた車内で名刺をくれた。大阪寄りの駅の前にある、大きな家電会社に勤めていて、名前は石野(いしの)宏一(ひろかず)。晟一が自分の名を彼のメモに書いた時、一の字が同じですねと笑顔を向けられ、何となくどぎまぎした。  石野は整った顔立ちをしていて、20代半ばのようだが、落ち着いた雰囲気を持つ人だった。電車で一緒になるほんの15分、片やメモを使い片やぎこちない敬語で話す2人は、前に座る人にたまに好奇の視線を向けられつつ、テンポの緩い会話を交わす。  満員電車での通学への嫌悪感は、石野のおかげで緩和され、高校でも友人ができ始めた。晟一は彼にお礼が言いたかったが、言葉が見つからないし、照れ臭くて言えなかった。

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