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第1話

「お前は俺が守るから……」  そう言って、泥だらけの僕を制服が汚れるのも気にすることなく、ギュッと胸に抱きしめてくれた。大粒の雨が降りしきる湿った空気の中。なぜか彼の胸元からは優しい太陽の匂いがした。空腹のまま帰る家もなく彷徨い歩いていた野良猫の僕を拾った彼の名は栗原(くりはら)悠真(ゆうま)。それが彼との出会いだった。  勝ち気で、少し生意気そうな男……というのが第一印象。でも、僕を覗き込む栗色の瞳はどこまでも真っ直ぐで、これほど曇りのない人間の目を見たのは初めてだった。触れたい……そう思って手をのばすと、彼はくすぐったそうに首をすくめて笑った。 「名前、決めなきゃな。そうだ……俺の名前の一文字をとって、ユウってのはどうだ?」  正直、名前なんか何でも良かった。とりあえず食にありつければいいという安易な気持ちで、僕は彼の家に向かった。今どき、捨て猫を拾ってきたという息子を手放しで歓迎する家は少ない。アレルギーだの病気があるのではないかと勘ぐる者もいる。しかし、彼の家族は僕の姿を見て「辛かったね」と涙を流してくれた。  世の中、捨てる神ばかりじゃないと僕は思い、小さく喉を鳴らした。その日から僕は、栗原家の一員になった。  悠真は自宅から徒歩十五分ほどのところにある公立高校に通っていた。制服である青いチェックのスラックスとグレーのブレザーが似合う十七歳。学校ではサッカー部に所属し、女子生徒からも人気があるようだ。時々リビングのテーブルの上に置きっぱなしになっているスマートフォン。その画面に流れるメッセージアプリからの情報に過ぎないが、同級生をはじめ同じサッカー部のメンバーからも慕われているのがわかる。しかし、今の悠真は僕と過ごしている時間が一番楽しいと言ってくれる。そのせいで、彼女なんかいらないとまで言い出した。これにはちょっと責任を感じたが、時間が経てばいずれその思いも薄れていくだろうと、時の流れに身を任せることにした。人間の思いは移ろいやすい。最初は可愛がるが、そのうち飽きてくる。僕は身をもって経験しているから、人間の言葉はハナから信じないようにしていた。  でも、悠真と暮らすうちにそれが間違いだということに気づいた。彼は有言実行の男だった。出逢ったときの言葉通り、僕を何より大切にしてくれた。そして、いつでも悠真のそばにいたいと思うようになっていた。 「――ったく。こんな難しい問題わかるわけねーだろ。これを宿題にするって、田中先生も鬼畜だよなぁ。ユウもそう思うだろ?」  僕は勉強机の上に座り、先程から一字も進んでいないノートを見下ろした。苦手な数学のテキストをペラペラと捲りながら眉間にシワを寄せる彼。そのシワに前脚を伸ばすと、くすぐったそうに首をすくめた。 「お前がいるだけで癒やし。俺、頑張れる気がする。ユウ……大好き」  栗色の瞳を輝かせてそう言う悠真に応えるように、僕は小首をかしげて小さく鳴いた。 『僕もだよ』  小さな心臓がトクンと跳ねた。僕の声に嬉しそうに笑う悠真の顔をずっと見ていたい……。でも、それは叶わない。人間と猫では生活スタイルだけでなく言語も寿命も違う。僕が悠真を「好き」と言ったところで、この思いは永遠に伝わることはない。だから僕は、彼の手足に寄り添い、顔を舐め、ベッドで共に眠る。  日曜日、サッカーの練習から帰ってきた悠真はリビングの床の上に大の字で寝転んだ。 「疲れたぁー!」  少し開いた窓から吹き込む爽やかな風が白いレースのカーテンを揺らす。僕は、それに飛びつきたい衝動を必死に堪え、悠真の胸の上に乗ってまだ汗が乾ききっていないユニホームに顔を埋める。彼が身じろぐたびに香る柔らかな太陽の匂いが大好きだった。 「ユウ、重い! でも……暖かくて気持ちいい」  微笑みながら目を閉じた悠真からゆったりとした寝息が聞こえる。僕は静かに立ち上がると、彼の口元に鼻先を近づけた。ほんの一瞬、彼の唇に触れる。人間の世界ではキスといって、好きな人へ気持を伝えるためにすることだと聞いた。悠真は事あるごとに僕にキスをくれた。でも、僕からするのは今日が初めてだった。  濡れた鼻の感触に気づいたのか、悠真が薄目を開けて笑った。 「ありがと、ユウ。今、最高に嬉しいよ」  トクン……。また心臓が跳ねた。同時に悠真の心臓の鼓動が大きくなって、僕は慌てて彼の上から飛び降りた。背中を向けて、気持ちを落ち着けるために毛繕いを始める。ドキドキが止まらない。彼とキスするたびに僕は病気になってしまったのだろうかと不安になる。 「ユウ……。俺、今好きなヤツがいるんだ。そいつといると、つまらないことで悩んでる自分が恥ずかしくなって「こんなんじゃダメだ、強くなろう」って思える」  白いカーテンが波打ち、床に影を落とす。それを見つめながら、僕はわずかに俯いた。悠真は今、恋をしている。でも、それを素直に喜べない自分がいる。彼からそのことを聞くたびに、ドキドキしていた心臓がキューッと何かに掴まれるように痛くなる。それを悟られまいと、より一層毛繕いに集中してしまい密かにハゲてしまったことは悠真には秘密だ。人間にとって恋がどんなものなのかは知らない。猫同士がする子孫を残すためだけの関係でないことは確かだ。  悠真はその話をするとき、僕に見せたあの栗色の瞳をより輝かせる。僕よりも大切な存在。強くなって守りたいと思う人……。 (僕がいれば彼女なんかいらないって言ったのは嘘なの?)  ナゼだろう。悠真の手に噛み付いてしまう。傷つけるつもりはない。それなのに、頭を撫でて胸に抱きしめて「ごめん」という言葉を待ちわびている。それだけでいい。たったそれだけで、僕は冷静になれる……のに。 「ユウ、どうしたんだ?」  心配そうに僕を覗き込む悠真に背を向ける。尻尾を落ち着きなく床に叩きつけて、悠真の言葉を待っている。ワガママ、マイペース、自己中心的……なんと言われても構わない。僕はきっと悠真のことを……。 「――バカみたいだよな。叶うはずのない恋に憧れるとか」  レース越しに見える庭に目を向け、自嘲気味に笑って見せた悠真。彼はそれ以来、彼女の話を僕にしなくなった。  ***  よく晴れた昼下がり。スマートフォンの呼び出し音に目を覚ました僕の目に映ったのは、泣きながら身支度を整え、慌てたように家を出ていくお母さんの姿だった。  その日、悠真は家に帰ってこなかった。誰もいない家は静かなのに、僕はやけに胸がざわつくのを感じていた。しばらくして、白い大きな箱が家に運び込まれた。木の蓋に開けられた小窓をのぞき込むと、そこには悠真が眠っていた。 『悠真? 一緒に遊ぼう』  何度も声をかけるが、彼の嬉しそうな声も笑顔もない。そうしていると、お母さんが僕の頭を撫でながら言った。 「ユウちゃん。悠真は死んじゃったの。「ユウを守れなくてごめん」って言って、それっきり……。信じられないわよね……」  お母さんの涙がとめどなく僕の頭に降り注いだ。それは、悠真と出会った日の雨に似ていた。冷たくて悲しい……でも、どこか優しい雨。  サッカーの練習中に突然倒れた悠真は病院に運ばれたが、止まりかけていた心臓が再び動くことはなかった。息を引き取る直前、突然意識を取り戻した悠真が口にしたのは僕のことだったらしい。それだけを言うために最後の力を振り絞ったようだ。  数日後、悠真はもっと小さい箱に入って戻ってきた。僕はそこに掛かった白い布に爪を立て、鼻を摺り寄せた。もう、柔らかく僕を包んでくれた太陽の匂いはしない。その代わり、眩しいほどの笑顔を見せる悠真の写真を包み込んでいるのは白檀と花々の香りだ。供えられた果物の匂いに、キュッと眉間を寄せる。  今まで彼を見るたびにドキドキしていた心臓が、ポカリと穴が開いてしまったかのように空っぽになった。悠真のことが好きだった。生まれて初めての感情だった。その言葉を告げるすべを持たない僕は、自分が猫であることを恨んだ。  僕は白い箱を見つめ、悠真が行った世界にいるという『神様』に一生懸命願った。もう一度、彼に会いたい。そして、一生に一度しか経験することのない初恋を……この想いを伝えたい――と。  悠真のいない世界は色を失くし、僕のすべてを奪っていった。そして、悠真が眠る墓石の前で、僕は雨に打たれながら人生に終止符を打った。その時、ふわりと暖かな匂いが鼻を掠めた。 『悠真……?』  神様が最後に見せてくれた幻影か。僕の前に手を差し伸べる悠真の姿を見たような気がした。  ***  フェンス越し、家の近くの公立高校に進学した俺はサッカー部員が声を上げて走る姿を見つめていた。その姿は憧れであるはずなのに、なぜか無性に寂しさを覚える。 「あれ? もしかして入部希望の一年生?」  後ろから声をかけられ、弾かれるように振り返る。そこには、うっすらと日焼けした肌をTシャツとハーフパンツで包んだ青年が立っていた。足元に視線を向けるとサッカーシューズを履いている。柔らかな栗色の髪と勝ち気な同色の瞳が印象的だ。目が合うとなぜか驚いたような顔をした彼は、訝るように俺を覗き込んできた。 「どっかで会ったこと……ある?」  俺は小さく息を呑んでから、ゆっくりと首を振った。彼からはわずかな汗の匂いに混じって、懐かしい匂いがした。そう――孤独だった僕を抱きしめてくれたあの太陽の匂い。雨に濡れた僕の体を、最期に包んでくれた優しい手がそこにあった。 「サッカー、興味ある? 良ければだけど……入部してみない?」 「俺に出来るかな……」 「出来るよ。なんでかな……。俺、お前と一緒にフィールドを走ってる光景が浮かんだ」 「え?」 「まるで……。ここで、お前と会うことが決まっていたような。運命っていうのかな……こういうの」  自分がおかしなことを口にしている自覚はあるのだろう。少し照れたようにはにかむ彼の姿に、俺はゆっくりと目を見開いた。 「ゆう……」 「え? 俺の名前知ってるの?」  驚く彼に、慌てて口元を覆う。無意識に口にしていたそれは、ずっとずっと前に大好きだった人の名前。今はもう、その姿も声も覚えていない。でも、彼が纏っていた香りだけは鼻の奥にしっかりと残っている。 「――俺、佐伯(さえき)勇気(ゆうき)。二年だけどレギュラーに昇格してフォワードやらせてもらってる」 「勇気……さん? 俺は……福田(ふくだ)(ゆう)」 「ユウ……」  トクン……。今、心臓が跳ねた。それまで虚無しかなかった胸がジワリと熱くなっていく。彼に呼ばれ、自身がそう呼ばれていたことを思い出す。そう――大好きだった『あの人』に。 「やっぱり、これって運命じゃねーの! 優、一緒にサッカーやろっ! 俺、いろいろ教えてやるからさ」  屈託ない笑顔。身じろぐたびに揺れる優しい香り……。  神様の存在はあやふやだったけど、もしもこの人が『あの人』の生まれ変わりで。あの時の『僕』の願いを叶えてくれるとしたら……。 「あ、あのっ。俺で、いいんですか。あ、いえ! そうじゃなくて……俺なんかが入部して大丈夫かなって」  勇気はまだあどけなさを残した顔をくしゃりとさせて俺に笑いかけると、揺るぎのない声音で言った。 「先輩の中には怖い人いるけど……。大丈夫。何があっても俺が守るから……」 「え……」 「俺、変なこと言った? お前見てると、守ってやりたくなるっていうか……ずっと一緒にいたいって思うんだ。まるで捨てられて鳴いてる子猫みたい」 「子猫?」 「拾ったら責任もって育てなきゃって。ここでお前を拾ったのも何かの縁だと思うんだ」  優は鼻の奥がツンと痛み、涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。  今、目の前にいるのはずっと前に失ってしまった大切な人。今度こそ、あの時言えなかった想いを伝えたい。一生に一度しか経験することのない初恋が、長い時を経て再び動き出す。 「よろしく、お願いしますっ」  勇気が差し出した手を躊躇うことなく握り返す。無理やり作った笑顔に一筋だけ涙が流れた。胸がドキドキして張り裂けそうになる想い。ちょっとのことで嫉妬して、素っ気ないふりをしてしまうけれど、禿げるほど気になって仕方がない存在。胸に空いていた大きな穴がゆっくりと塞がっていく。そこに詰め込むのは悠真への想いと、生まれ変わった彼への新たな恋心。  もう一度、あなたに初めての恋をさせてください。猫ではなく人間として……。                                         終

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