1 / 1

第1話

 恋をするのに時間は掛からないって言葉をよく耳にするけれど、そんな事ある訳ないと思っていた。  人を好きになるのが一瞬だなんて、何も知らない相手を好きになるなんてこと、ある訳ないと思っていた。  それはきっと、今まで恋愛というカテゴリに疎遠だったからなのかもしれない。  小学校の頃から眼鏡をかけて勉強ばかりしていたせいか、運動は出来なかった。  自分から話すのが苦手だったこともあり、クラスでは浮いた存在だった。  だからといって特に何があったわけでもなく、ただ毎日が過ぎて行く日々。  それは中学生になっても、高校生になった今も変わることはない。  そんな風に高校生活も終わるのだろうと、心のどこかで思っていたのも事実だ。  友達を自ら作る気なんて微塵もなくて、教室の窓際の一番前の席に座ったままいつものように小説を開き文字を追いかける。そうすれば時間はあっという間に過ぎて行く。  それでいいと思っていた。それが自然だと思っていた。  彼に出会うまでは……  年相応になると、だんだんと身の回りに変化が現れる。とうとうこの日がやってきた。右頬にぷっくりと姿を見せた赤い斑点。所謂、ニキビという奴だ。気になって仕方ないけれど、触ると跡が残るから触らないようにした方がいいと一つ上の姉さんに忠告されていたこともあり、必死で耐えている。  放課後に先生に頼まれていたクラスの提出物を集め終わり、ひと段落ついた田邊祐希は自分の席から窓の外を眺めていた。  何となく右頬に手が伸びていたのだろう…… 「触んない方がいいんじゃない? 折角綺麗な顔してるのに跡残ったら大変だと思うけど」  突然聞こえてきた声に驚いて声も出せずに顔を向けると、そこには同じクラスの櫻井孝宏が隣の席に座って祐希を見ていた。  慌てて教室の中を見渡してみるけれど、ここには今、二人の姿しか見当たらない。 「えっと……」 「ニキビ、潰したら跡残るから」 「それは、姉さんに聞いて知ってる。けど、何で……?」 「何でって……今にも触れそうだったから?」 「あっ……」  伸ばしかけていた手を勢いよく膝の上に引っ込めると、「そんなに思いっきり引っ込めなくても」なんて笑っている。  祐希は何が何だかわからなくて、どうするべきかフル回転で頭を働かせるけれど、テンパってしまっているこの状況ではいい案なんて出てくる訳もなかった。  誰かに話しかけられるなんて、どれくらい振りだろう…… 「毎日、雑用ばっかやってて嫌になんない?」 「雑用って……。でも、誰かがやらなきゃいけないことだから」 「それが田邊なの?」 「誰かに押し付けるくらいなら、僕がすればいいかなって。ほらっ、クラス委員だし」 「ふーん……」  パーマやカラーは校則で禁止されているのに、孝宏はどちらもしているようで、ふんわりとした茶髪の髪が風に揺られてそれを掻き上げる姿に思わず見惚れていた。  今までの祐希とは縁のなかったタイプの孝宏の存在に、正直戸惑いが隠せない。  何を話せばいいのかもわからないし、こうして隣で見られていること自体が気恥ずかしいというか、緊張してしまう。 「田邊ってさ、ずっと気になってたんだけど……」 「な、なに……?」  スーッと孝宏の腕が伸びてきたことに、思わず体を引いて距離を取りながら、目を瞑り顔の前に両手で拳を握りしめて構えた。 「そんな警戒しなくても……何もしないって」  聞こえてきた声に閉じていた目を薄く開けると、伸ばしていた手は机と椅子を握っているのが目に留まった。  祐希は構えていた手を静かに下ろすと、提出物のプリントを揃えようと体を正面へと戻し、プリントへと手を掛けて机の上でトントンする。 「田邊……」 「なに?」 「こっち向いて」  動かしていた手を止めると、言われるまま祐希は孝宏の方へと顔を向けた。  それと同時に、掛けていた眼鏡がサッと外される。 「ちょっ……」 「やっぱり……眼鏡ない方がずっと綺麗なのに……」  真っ直ぐに祐希の目を見て孝宏が言った。 ―どくん―  胸の奥が大きく脈を打つ。その目は祐希を捕らえたまま離してくれない。逸らすことさえ出来ずに、その場から動けなくなっていた。  だんだんと顔が近づいてきて、おでこがくっつきそうな距離感に耐えられなくなった祐希は、金縛りにあったかのように固まっていた体を必死で動かして席を立った。 「これ、職員室へ持っていかなきゃならないから」  そう言って、孝宏が持っている自分の眼鏡を取り返し掛けると、プリントと鞄を持って慌てて教室から出て行った。 ―はぁ、はぁ、はぁ―  無我夢中で走っている。まだ心臓がバクバクしていて、静まらない。あんなに誰かの顔が自分に近づいたことなんて今までなかったから、ビックリした。  職員室までの道のりがやけに遠く感じる。  綺麗って……櫻井孝宏は確かにそう言った。同じ男である祐希に間違いなく言った。そんなこと今まで一度だって言われたことなんてなかったし、誰かにそう思うこともなかった。  それなのに……あんな風に見つめられたら……孝宏の顔が頭に焼き付いて離れない。 「失礼します。後藤先生、これ」 「おお、田邊。お疲れさん」 「いえ。じゃあ、僕はこれで……」 「お、おい。お前、体調悪いのか?」 「どうしてですか?」 「顔がやけに赤いけど……」 「あっ……いやっ、別に……」 「そうか? ならいいけど……。あんま無理すんなよ」 「はい……」 「気を付けて帰れよ」 「はい。失礼します」  職員室を出ると、祐希は自分の頬にそっと触れてみる。 「熱い……」  さっきの余韻が残っているのか、頬はまだ熱を持っていた。それとも、教室を飛び出した後に思いっきり走ったからなのかもしれない。どちらにしても、孝宏のことが原因ということに変わりはないだろう。  自分の人生で、まさかこんなにもドキドキする出来事が起こるなんて思ってもみなかった。  夕日が傾き始めた帰り道、深く息を吸って大きく吐いてみるけど、祐希の心臓は、なかなか静まらなかった。  次の日から、祐希の中で何かが変わり始めた。気がつけば視線の先に櫻井孝宏の姿がある。孝宏はいつも誰かと一緒にいて、よく笑っている。まるで子供みたいに目尻を下げて優しい顔をして笑うんだ。そして、楽しそうに肩を組みながら、近い距離間で話をする。  今まで一度だって気にしたことのない他人のことを、これほど意識している自分に、正直驚いていた。  読書をすることで時間が過ぎるのをやり過ごしていたはずなのに、いつの間にか祐希は孝宏を視線の片隅に映すことに夢中になっていた。  これって一体……  十七年間生きてきた中で初めて抱く感情に、答えが見つからなくて、どれだけ考えても正解なんてわからなくて、この胸の高鳴りを鎮めることが出来なくて、ただ自然に身を任せることしかできないでいた。 「ニキビ、治ったみたいだな」 「櫻井くん……」 「跡も残ってないし、触るの我慢した?」 「うん。姉さんにも、櫻井くんにも忠告されてたからね」 「そっか。でも、田邊っていつ見てもやっぱ綺麗な顔してんのな」 「えっ?」 「綺麗な顔……」  放課後の教室で先生の頼まれ物を整理していると、あの日のように隣の席に座った孝宏が話しかけてきて、そっと祐希の右頬に触れた。  どくんと大きく心臓が脈を打つ。触れられている右頬が、一気に熱を持ち始めていく。 「あ、あの……櫻井くん……」 「んっ?」 「何で僕と……」 「何でだろ? 何か気になるんだよ。気がついたらいつも田邊が視線の先にいるっていうか……」 「それは……」 「でも、いつも思ってた。本読んでる姿勢が綺麗だな……とか、綺麗な横顔してるな……とか。話してみたいな……とかさ」 「あーっ、何かもういい。面と向かって言われると、どうしていいかわからないから」 「それに、こうやってつい触れたくなる」  軽く触れられていた手に、少し力が入ったのを感じた。熱を持った頬が更に熱くなっていく。 「この気持ち……何なんだろうな……」 「櫻井くん……」 「自分でもよく分かんないっていうかさ、男に触れたいって思うなんて初めてだし、綺麗だって思ったのも初めてだし……。俺、キモイよな……」  言葉と同時に孝宏の手が離れていき、触れられていた場所から熱が冷めていくのを感じる。 「僕だって……初めてなんだ」 「えっ?」 「誰かにこうやって話しかけられたことも、視線の先に櫻井くんがいることも、触れられてドキドキすることも、全部が初めてで……。正直、何がどうなっているのかわかんないっていうか……」 「それって……」 「この気持ちが何なのかはわからないけど、僕はこうして櫻井くんに話しかけられるのも、触れられるのも嫌じゃない。それに、綺麗だって……そんなこと言われるなんて思ってもなかったから……」 「俺だって、まさかそんなこと言う日が来るなんて思ってもなかったし」 「うん」  思わず二人して顔を見合わせて笑う。  目尻を下げて優しく笑う目の前の孝宏に、今度は祐希が手を伸ばした。 「僕、今すごくドキドキしてる……」 「俺も……」 「きっとね、この胸の高鳴りは、櫻井くんだからなんだ。そして、僕が触れたいって思うのも、きっと櫻井くんだけなんだ」 「うん」 「ありがとう。僕に話しかけてくれて……」 「うん」  誰もいない教室で、そっと孝宏が祐希の眼鏡を外す。外はまだ夕日が沈む前の青空が広がっていて、涼しい風が孝宏のふんわりパーマをなびかせた。  お互いの頬に触れている手は少し震えていて、緊張しているのが伝わってくる。  その緊張がまた、二人をふっと笑顔にした。

ともだちにシェアしよう!