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第1話

 とん。  肩先が軽く触れる。  とん、とん。  少し差のある歩幅を合わせそうとするたびに、となりを歩く高西(たかにし)の二の腕に僕の肩がぶつかった。 「春野(はるの)、離れると濡れるよ」  触れる肩が気になって、傘から左半身が出てしまう。やさしい高西はそれをいつも気にしてくれる。  少し近づくと、体の右側がほんのり温かくなる。雨の匂いの中に、高西の爽やかな香りが混じっていた。 「こんな日の雨の名前はなんていうんだっけ? 篠突(しのつ)く雨?」 「ちがうよ。これは小糠雨(こぬかあめ)。篠突く雨はこの前みたいな土砂降りの様子」 「ああ、春野にナンパされた時の」 「ナンパじゃない。困ってたみたいだから、声をかけただけだろ」  赤くなった顔が気づかれないように、うつむき加減で高西の軽口を否定した。  ひとつのビニール傘の下で、たわいのないことを言いながら駅まで歩く。  高西は一年の時に同じクラスだった。その頃はあまり話をしたことがなくて、二年になってクラスが別れ、ついこの前までたまに廊下ですれ違うくらいだった。  一緒に帰るようになったのは夏の終わりの放課後からだ。急な夕立に見舞われて、昇降口で立ち尽くす高西を誘ったのが最初だ。  声をかけたとき、高西はとても驚いた顔をしていた。 「駅の前を通るから、いやじゃなければ入って」  持てる限りの勇気をかき集めて言った僕の顔をしげしげと眺めた高西は、ふはっと笑顔になると、「いやなわけない。ありがとな、春野」と初めて名前を呼んでくれた。  その時の会話ははっきりと覚えている。  急に変わった天気の話。それだけだったから。  僕にとってはとても特別な時間だったけれど、高西にはすぐに忘れてしまう事柄だっただろう。  それなのに、次の雨の日。  帰ろうと靴を履き替えていたところで今度は高西から声をかけてきた。 「傘、忘れちゃってさ。また駅まで入れてくれない?」  それ以来、雨の日は高西が僕を待って、こうしてふたりで帰るようになった。  なぜか高西は、朝からどしゃ降りの日でも傘を持ってこなかった。 「すぐになくすから、持ってこない」とは本人の弁だ。高西の家は二つとなりの駅のすぐ前だそうで、走れば濡れることはないんだと、四回目の雨の日に話してくれた。  線路沿いに植えてある木の枝から落ちてきた雨の雫が、傘に跳ねて大きな音をたてた。 「前の傘のほうが春野に似合ってたんだけどな」 「そう?」 「うん。ビニール傘は春野のイメージに合わない」  以前使っていた傘は祖父の形見の品だった。  祖父は大学で気象学の教授をしていた。とても優しく、穏やかで清貧を好んだ人だった。良いものを大切に長く使い、特に藍色の傘はお気に入りだったようだ。  祖父がさす大きな傘の下で、幼い僕にもわかるように話してくれる天気の話が大好きだった。いつの頃からか、僕は祖父の影響で天気にまつわる仕事をしたいと思うようになった。夢を叶える決意も込めて、祖父が亡くなったときに愛用の傘を譲り受けた。  大切に使っていたのだけれど、先日の横時雨(よこしぐれ)で、とうとう壊れてしまった。 「新しい傘を買おうとは思っているんだけど」  話しているうちに駅に着いた。  いつもならここで高西を見送って家路に着く。でも今日はちがった。 「じゃあ、今から一緒に買いにいこうよ」  高西が笑顔でビニール傘を閉じる。いつの間にか、傘をさすのは僕より上背のある高西の役目になっていた。 「ここで別れて帰るだけじゃもったいない。今日で最後なんだし、ふたりででかけよう」  今日は高校最後の登校日。次に会えるのは卒業式だ。  突然のことに戸惑う僕の手をとって、高西は上りのホームへと足を進めた。  この街の中心駅に隣接しているデパートの一階で、さっきから高西はいろいろな傘を手にしては真剣な顔をしていた。  反対に僕はといえば、やはり祖父の傘に勝るものはなくて、おざなりに目についた物を見ては元の場所に戻すを繰り返しながら、高西の横顔をちらちらと眺める。 「どう? 気になるものはある?」  急に振り向かれてどきりとする。 「うーん」  苦し紛れに視線を動かすと、壁際にディスプレイされている開いた傘が目に留まった。  大きさは祖父の傘と同じくらいで十六本の骨のある黒い傘だ。シリーズ物なのか、紺色や緑色もある。  高西も近寄ってくると一本の傘を手に取った。 「これなんかいいじゃん」  それは赤い色の傘だった。  高西はその赤い傘を開いたり閉じたりして、納得したようにひとつ頷くと「これにしよう」と僕に笑いかけて店員を呼んだ。  やっと自分の傘を持つ気になったのかと、呆れたと同時に残念な気持ちになる。  結構な値段の傘を高西はそのまま受け取って「じゃあ帰ろうか」と言った。 「帰るの?」 「もう用事は終わったから」  僕の傘はまだ買っていないのに用事が終わったとはどういうことだろう。  でも、これ以上ここにいても僕の気に入る傘は見つからないだろう。それに、高西と一緒に電車に乗った時からとても緊張していたから、僕はほっとしてデパートを出た。  下り電車はガラガラで、僕と高西はとなり合って座った。  電車が発車すると高西は、買ったばかりの傘を僕に差し出した。 「この傘、春野にやるよ」 「え? 自分のじゃないの」 「春野にプレゼントするために買ったんだ。今まで雨の日に送ってもらったから、そのお礼をしたくて」  普段ははっきりと喋る高西が、なぜかもごもごと言う。 「お礼なんていらないよ」  恐縮して断ったら、急に高西が早口になった。 「お礼だけじゃないんだ。春野の大学合格と高校卒業のお祝いもかねてる」 「それは高西も一緒だろ」 「一緒だけどちがう。春野は東京の大学に行くから、その餞別も」 「それなら僕も高西になにかあげなくちゃいけなくなるよ。こんなに高級な物をもらっても、僕は何も返せない」 「俺はずっとバイトしてたから。とにかく気にせずに受け取ってくれよ」  赤い傘を無理やり握らせて、高西は僕の手からビニール傘を奪い取った。 「春野からのプレゼントはこれでいい」 「コンビニのビニール傘じゃ釣り合わないよ」 「俺がいいって言うんだからいいんだよ」  高西は僕から奪ったビニール傘を抱え込んで笑った。  お礼を言って渡された傘を見る。深い赤色は高西に合っていたけれど、僕はどうだろう。さすときっと目立つだろうな。  そんな僕の心を読んだように高西が言った。 「春野にすごく似合ってる。今度はその傘に入れて」 「僕は卒業式まで登校しないし、予報ではこれからしばらく雨は降らないって」 「卒業式の日は予報が外れるかもって言ってたじゃん」 「まだわからないよ」  僕の反論を楽しそうに聞いていた高西が、急に僕の肩にもたれかかってきた。 「あーあ、俺も東京に行きたかったなあ」  ため息混じりの囁き声が、僕の鼓膜を大きく揺らす。 「ここが嫌いなわけじゃないけれど、春野がいなくなるのはさみしいよ。俺、春野の天気の話が好きなんだ。特に雨の名前の話とか」  ぽつりぽつりと話す高西にどう返していいかわからない。  体を固くしていると、高西が笑いながら体を離した。 「でも、いつか絶対に東京にいく。春野に会いにいく」 「ぼ、僕のいく大学は人多いし、それに高西が来るころまでいるかどうか……」 「おじいさんと同じ天気にかかわる仕事をするんだろ。それに人が多くても大丈夫。目印ならある」  高西が赤い傘に視線を向ける。 「この傘をさしてたら、俺は絶対に春野を見つけられる」  電車が減速する。僕の降りる駅だ。じゃあね、と慌てて立ち上がろうとすると、高西が僕の手首を掴んだ。力強い圧迫に心臓が痛いほど脈打った。 「卒業式のあとで話があるんだ。教室まで迎えに行くから待ってて」  真剣な高西の様子に僕は戸惑いながらも頷いた。  電車のドアが開いて、後ろ髪を引かれながらホームに降り立つ。  振り返って見た車内の高西は、いつもの笑顔で手を振ってくれた。ドアが閉まり、電車を見送っても僕はしばらくその場を離れられなかった。  車窓を流れる雨粒をぼんやりと眺めながら、ずいぶんと昔のことを思い出していた。  雨が降る日はいつもそうだ。ふとした時に、高西と過ごした日々を思い出す。  十五分足らずの帰り道。ふたりで肩を寄せあって歩いた傘の下。短い時間の中で交わした一つ一つの高西の台詞が、特に今夜は鮮明に甦る。  きっと僕の初恋の相手は高西だ。  高西とは傘を買いに行って以来、会っていない。卒業式の日、いつまで待っても高西は僕の教室に来ることはなかった。  卒業式に高西が出席していなかったことは、あとになって知った。彼は忽然と姿を消してしまったのだ。  僕は高西の連絡先すら知らなかった。雨の日の放課後、昇降口に行けば必ず高西に逢えていたから。  いや、それは言い訳だ。あの頃の僕は彼に自分の恋心を知られることを怖がっていた。  あの日、高西が話したかったこととは何だったのだろう。  あれから僕は東京の大学を卒業し、民間の気象予報会社に就職して、夢だった気象予報士になった。  時間は遠く流れてしまったけれど、僕の心の奥には、あの頃の高西がひっそりと留まっている。  駅舎をでると、急な雨に帰宅途中の人々が慌てる様子が目に入った。  まだそんなに雨足は強くはないが、今夜にかけて本降りになる雨のせいで、終わりかけの桜は散ってしまうだろう。  僕は傘をさして歩きだそうとした。  その時。 「春野!」  傘を持つ手を急に掴まれる。驚いて掴んだ手を辿ると、スーツ姿の男性が息を切らせてこちらを見ていた。その姿は。 「……高西」 「俺のこと、憶えていて、くれたんだ」  はずむ息を整えながら、高西が笑った。  一度足りとも忘れたことのないその笑顔は、少し年を重ねて精悍さが混じっている。 「夕方のニュースのお天気コーナーで、この赤い傘をさしてる春野を見たんだ」  急に体調を崩した同僚に代わって出演したときのことだ。雨の中の屋外からの中継で、僕は自分の傘をさして天気予報を伝えた。  その放送を高西は見ていたんだ。  うれしさがじわじわと体を温かくする。 「この傘を大事に持っていてくれてありがとう。おかげで春野を見つけることができた。あの日、俺が教室に迎えに来るのを待っててくれた?」  微かに頷く。  深呼吸をした高西は、握った僕の手に祈るように額をつけた。 「待たせてごめん。親父が連帯保証人になった人が失踪して、俺たち家族もあの町にいられなくなって。もらったビニール傘も持って行けないくらい慌ただしく逃げて、卒業式どころじゃなかった。数年前に問題が解決して、俺は東京に出てきたんだ。春野がまだここにいるってわかったから、もう一度逢うためにずっと捜してた。春野、俺はお前に話したかったことが……」 「高西、今夜は雨の予報だったのに傘は持っていないのか?」  高西が顔をあげた。突拍子もない僕の質問に困惑が表れている。 「ああ。こんなに早くから降るとは思わなかったから」 「僕の家、歩いてすぐなんだ。ここで話すのもなんだからおいでよ。いやじゃなければ入って」  赤い傘を少し傾ける。高西は泣き笑いの顔で傘を受け取った。 「いやなわけない。ありがとう、春野」  あの頃のようにふたり並んで雨の中を歩いていく。歩くたびに肩が触れたけれど、僕はもう離れることはしない。  高西がなにかを思い出したのか、そうだ、と口を開いた。 「こんな日の雨の名前はなんていうの?」  僕は微笑みながら、春の雨の名前を告げた。

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