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第1話

 最初から諦めていたはずだった。  それなのに。  いざ現実を見せつけられるとこんなにも、苦しく切なく悲しいのはなぜだろう。  同じ車両に居合わせた乗客が、遠巻きにちらちらと見てくるのが気配で分かる。当然だ。とうに成人した身長百八十cm超えの筋肉質の男が、公共の場で号泣していれば誰だって眉をひそめる。自分とてそうするだろう。  しかも着ているスーツの膝の上には、見るからに結婚式の引き出物と分かる巨大な紙袋を乗せているのだからなおさらだ。  止めようと思うほど涙はあふれ、抑えようとするほど嗚咽が漏れる。  春の終わりに、僕は失恋した。  最初から実る可能性のなかった初恋が、完膚なきまでに散ったのだ。先ほどまで自分が出席していた、幼なじみの結婚披露宴の光景が脳裏に甦る。  僕には幼なじみの兄弟がいて、兄の燈矢(とうや)と弟の光生(みつき)とは各々二歳違いであり、高校時代まで親密な関係だった。僕は兄の方の燈矢に、ずっと昔から心惹かれていた。  燈矢は誰もが振り返る美形、というわけではない。どちらかというと素朴で、人好きがするさっぱりした顔立ちだ。しかしひとたび彼が笑えば、その場がぱっと明るくなる。燈矢には他人を惹きつけ前に牽引する天性のキャプテンシーがあり、引っ込み思案な僕はきっと、そんな自分にない長所を好ましいと思ったのだろう。  反対に弟の光生は滅多に笑わず、口数も少なかった。それでいて整った容貌をしているものだから、いつも女の子にきゃあきゃあ言われていた。  披露宴会場の一段高くなった席で、燈矢はこの上なく幸せそうな顔をしていた。僕が見たこともない、見ただけで眩しくなるほどの笑顔。二六歳の燈矢より何歳か年下だという、可憐な花嫁と時折目を合わせて微笑するタキシード姿の彼は、まるで見知らぬ人みたいに見えた。  普段口にできないほど高価で、それだけ美味しいはずの料理の味は、さっぱり分からなかった。  親戚のものを除けばこれが初めての結婚式への出席なのに、初めての主役がずっと想い続けた幼なじみだなんて、残酷にもほどがある。  もちろん燈矢が幸せなら自分だって嬉しい。彼には笑っていてほしい。でも悲しい。辛い。なぜ僕はここにいるんだろう。祝わなくちゃ。おめでとうって、お幸せにって。そんなの言いたくない。清濁がない交ぜになった感情を必死で飲み下すために、酒杯だけが進んだ。  ぽーっとした頭で、初めて燈矢への好意を自覚した時のことを思い出す。  あれは僕が、小学三年生だった頃の話だ。ある日学校から帰ったら、お気に入りの定規――新幹線をモチーフにしたもの――が無いことに気づいた。  次の日登校してから机の中や廊下を探しても見つからない。泣きべそをかきながらうろうろしている僕に燈矢と光生が声をかけてきた。事情を聞いた彼らが捜索を手伝ってくれたものの一向に見つからない。僕は申し訳なくなって無理やり笑顔を作った。 「探してくれてありがとう。でももういいよ。家にあった普通の定規、持ってきたから」 「(わたる)、本当にいいの?」と燈矢が尋ねてくる。 「……うん」  思いやり深い燈矢は、俯いて頷いた僕の割り切れない気持ちを察していたのだろう。でもその場ではしつこく食い下がらなかった。そんなところも、彼の美点だった。  下校して家でおやつを食べていると、燈矢が家を訪ねてきた。ランドセルを背負ったまま、頬を上気させ、額にはうっすら汗をかいて。  彼の手には失くした定規が握られていて、僕はびっくりしてしまう。 「え! どうして?」 「たまたま見つけたんだよ、たまたま」  燈矢は朗らかな笑顔とともに照れくさそうに言った。  詳しい事情を訊くと、僕が図画工作の時間に図工室に忘れた定規が、高学年の生徒の持ち物に紛れていたのだという。燈矢は学校中を巡り、先生や他の学年の生徒に聞き取りをするなど、方々に手を回して探してくれたのだと、僕は後になってから知った。  その話を耳にしたとき、なぜだかどくどくと心臓が高鳴った。あれが初恋を自覚した瞬間だった。  名前を呼ばれた気がしてはっと顔を上げる。そこには個々のテーブルを回ってきた燈矢の姿があった。ふわふわする頭をなんとか働かせ、必死に笑顔を取り繕う。お酒のおかげか、お祝いの言葉はするりと出てくれた。 「燈矢くん、おめでとう。二人でお幸せに」 「ありがとう。航に祝ってもらえて本当に嬉しいよ」  笑顔が咲く、というのはこういうことなんだろうなあ、と頭の片隅の冷静な部分が考える。  叶わない恋心だと、理解していたつもりだった。けれど燈矢が、手の届かない人どころか違う世界の人になってしまったのだ、と悟って僕は打ちのめされた。  最初から実る可能性のなかった初恋はこうして散った。  反芻していたらいっそう涙が止まらなくなった。僕は馬鹿だ。  相変わらず電車の中で嗚咽さえ漏らしている惨めな僕の方へ、ためらいなく近づいてくる足音がある。 「大丈夫? 航くん」  聞きなじみのある声で名を呼ばれ、振り仰いで目を見開く。すぐそばにリクルートスーツ姿の細身のイケメンがいて、こちらを静かに見下ろしていた。 「……みっくん」 「航くん、目立ってるよ」  光生は表情筋をほとんど動かさずにそう言う。  大学進学を期に上京してから彼ら兄弟とはやや疎遠になっていたが、光生の容姿や雰囲気はあまり変わっていなかった。会場でも彼は親族席にいたはずだが、見かけた覚えがない。よほど僕は燈矢ばかり見ていたんだろう――そう思うと、もう一人の幼なじみである光生に申し訳ない気持ちが湧いた。  光生と最後に会ったのは彼が高校生の時だったか。高校では彼ら兄弟と一緒にお弁当を食べたものだ。  僕には残念ながら友達らしい友達がほとんどいなかった。小中高と打ち込んだ柔道のおかげで体格は立派になったが、武道ですら僕の内気な性格は鍛えられなかったらしい。そのせいもあって自分は幼なじみの兄弟にべったりだった。  燈矢とは高校が同じで――正確には僕が彼を追いかけていった――天気のいい日は外で、悪い日には空き教室で、隣り合ってお弁当を食べた。彼は僕の飲み物を味見したがる人で、毎日のように「それちょっとちょうだい」とお願いされていた。  間接キスだし、正直毎回どぎまぎしていたが、自分だけ変に意識するのも変態みたいだし、極力なんでもない顔を保つのに苦労した記憶がある。  僕が三年になると――成績がその高校には釣り合わないにもかかわらず――光生が後輩として入学してきた。そして僕が飲んでいる紙パックを指して「少し味見させて」と言ってきたものだから、やっぱり兄弟って似ているんだななんて可笑(おか)しく思ったものだ。 「みっくん……どうしてここに?」 「下宿先がこっち方面だから。帰るだけ」  幼なじみの情けない姿を目の当たりにしたというのに、光生はごく冷静だ。  光生の進学先が、僕の現住居とさして遠くないことは兄弟の親御さんから聞いていた。それなのに連絡を取っていなかったのは、封印した燈矢への不毛な恋心が、光生に会うことで再び溶け出しそうな気がしていたからだ。結果として、封印なんて全然できていなかったわけだけど。 「二次会、行かないんだね? 親族なのに」 「あー俺、酒あんま好きじゃないから」  そこで光生は一旦言葉を切り、 「……航くん、俺の(うち)来る? 落ち着くまで話相手くらいにはなれるよ」  諸々察した様子で続けた。  こうして最寄り駅まで座席に座っていても、醜態を晒すだけだろう。僕は一も二もなく頷いた。  電車を降り、自分よりは少し背の低い光生と連れ立って歩く。 「みっくんは就活とか忙しいんじゃない? 今四年だっけ」 「院に進学するつもりだから、俺はまだ全然」 「そっか。昔から成績良かったもんねえ」  そうして他愛もない会話をしていると、いくらか気持ちも凪いできた。  到着したアパートのリビングに通され、「座ってていいよ」と促されて素直に従う。部屋は光生のイメージ通り綺麗に整頓されていた。彼が持ってきたコップを受け取って水をごくりと呷る。幼なじみの兄弟は顔は似ていないけれど、こういう面倒見がいい部分はそっくりだった。オカン気質というか。  光生と話していると自然と話題が昔話になる。どの思い出も、僕にとっては掌からこぼれ落ちてしまった美しすぎる過去だ。徐々にまた切なくなったところで、 「兄貴さ、幸せそうだったよな。あんな顔、初めて見た」  ぽつりと漏らされた呟きで、涙腺が決壊した。  目頭が瞬間的に熱くなり、制御の利かない涙が奥からあふれてくる。滴がぼたぼた音を立ててテーブルに落ちた。 「……大丈夫か」 「だ、大丈、夫」 「じゃないだろ」  突然体が温かいものに包まれる。数秒後にやっと光生に抱き締められたと分かり、体温がぶわっと上がるようだった。年下の幼なじみに慰められるなんて、情けなさの極致だ。 「僕、僕さ……本当は燈矢のこと、好きだったんだ」  自分でも表に出すと思っていなかった本音が、ほろりと口を突く。ああ、何を言っているんだ、僕は。酔いが残っているからって、勢いで弟になんてことを。  背中に回っていた腕が緩み、相手の体が離れる。 「知ってたよ」  光生があっさり言い放ち、告白した僕の方が面食らう。 「えっ? そう、なの?」 「はあ……昔から兄貴しか見てなかったもんね、航くんは」軽い嘆息、そして。「だから、俺が航くんを好きなのも知らなかったでしょ?」  え。今、なんて。 「は? え……?」 「ずっと好きだった」  真剣な表情の、俳優はだしの二枚目の顔が近づいてくる。こんなの、とても心臓に悪い。  じり、と下がると背中が壁に当たる。 「さっき酒好きじゃないって言ったの、あれ嘘だから」 「え」 「航くんのこと追いかけたの。背中がしょんぼりしてたから。――追いかけたって言えば、高校もそうだよ。航くんを追いかけて、同じ高校に行った」 「そうだった、の?」 「航くん、鈍すぎ」  何年も前の衝撃の事実を知らされ、頭がついていかない。いや、そういう次元じゃない。光生が僕を好きだって? なんで? いつから? 本当に?  思考は混乱と動揺で占められている。もうぐちゃぐちゃだ。この頬の火照りは、決してアルコールのせいじゃない。 「ねえ。もう、手を出してもいいよね」  光生がさらに迫ってくる。後ろに空間はない。冴えた眼光を見れば分かる。光生は、本気だ。  覚悟してぎゅっと目を瞑った。身を強ばらせる僕の(ひたい)に、何か柔らかなものが当たる。  もしかして、今の……キスだろうか。 「お互い素面の時に、またちゃんと言う」恐るおそる目を開くと、光生は目元を少しやわらげていた。「今さら返事を急かしたりしないよ。十年以上待ったからね」  十年。僕の燈矢への気持ちに匹敵するくらいの年月を、光生は。  感情の嵐に襲われながら、僕らの関係が決定的に変わったことだけ、はっきり分かった。  不思議と、その時の心情は悪いものではなかった。  * * * *  常々兄貴はおかしいんじゃないかと思っていた。  あんな可愛い幼なじみが隣にいて、平気でいられるんだから。  航くんが去った部屋は急にがらんとした。送っていくと申し出たら赤い顔で断られてしまい、俺は悶々としながらベッドにぼふんと身を投げ出す。  早まったかな、と考える。そういうつもりはなかったのに、彼の可愛い顔を見たら我慢が利かなかった。びえびえ泣いている航くんを見て、どうにかしたくてどうにかなりそうだったのだ。  昔からずっとそうだ。努めてポーカーフェイスを保っていないと、正気でいられなくなる。想像の中では幾度となく彼を押し倒して、剥いて、その先だって何度も妄想した。それくらい、昔から好きだった。  航くんには「鈍すぎ」と言ったけれど、彼が知らなくて当然だ、態度に出さぬよう気をつけていたのだから。  でも、この黒々とした恋心を押し隠して生きるのももう終わり。自分ならもっと上手く立ち回れるかと思っていたのに、久しぶりに好きな人に会ったら壊滅的な手順しか踏めなかった。 「仕方ないだろ……初恋なんだから」  自身に反論するように、ぼそりと独り()ちる。  気分を入れ換えようとカーテンと窓を開くと、晩春の霞がかった空気の中、隣家の庭木が柔らかに新芽を伸ばしている。俺の休眠していた恋心も、ついに芽吹く時がやってきた、のかもしれない。  最初から諦めていたはずの恋心が、今になってじわじわと熱を帯びるのが分かった。

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