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リリカルマジカルアンブレラ

 ぱたぱたぱたとせわしない雨が、傘を叩く音がする。 「雨、止まないな」 「そうだね」 「……歩くの早い?」 「……あー。いや、えっと。ううん、大丈夫」  本当に? と、隣から微かに、こちらを伺う気配がした。  すぐ斜め上にある顔を見る勇気はないので、気がつかなかったふりをする。なにしろ気まずい。とんでもなく気まずい。僕に現状できることといえば、通学用鞄を胸に抱いて、肩を狭めながらいつもより早足で歩くことだけだ。  僕はさっき、傘の端を高井君の頭に突き刺してしまった。  テンパっていたから刺してしまった、というのは本当に言い訳に過ぎないけれど、もう一つ理由がある。身長差だ。  春の身体測定時点での僕の身長は、百六十三・五センチ。それから少しは伸びているだろうという個人的希望と靴の厚みを考慮しても、百六十六センチ。  対する高井君はおそらく百八十センチ弱。少なく見積もっても約十五センチの差がある。  僕が普通に傘を差すと、悪気はなくても、傘の端の部分が高井君の頭に突き刺さってしまう、というわけだ。  さっき必死で謝ってみたものの、高井君は淡々としたよく通る低い声で「俺が持つから」と、わりと強引に僕から傘を奪ってしまった。奪ってしまった、と言ったら語弊がある。今高井君が差している傘はもともと高井君のもので、要するに僕は彼の傘に入れてもらっている状態だからだ。  高井君だってこんなことでいつまでも怒っているような、そんなに器の小さい男じゃないと思いたい。だけど、顔は見れないし、声音も変わらないから実際のところはわからない。  とにかく僕は、高井君の迷惑にならないように歩調を合わせていた。たぶん彼なりにゆっくり歩いてくれているとは思うけど、なにしろ足の長さも、基礎体力も違う。割と必死だ。必死だし、なんだか緊張するし、気まずいし、申し訳ない。  やっぱり、断ればよかった。でも、濡れたくなかった。後悔と言い訳が、僕の頭の中をぐるぐると駆け回っている。  学校から駅までは二十分。そこから電車に乗って六駅。家の最寄り駅に着いてしまえばいくら濡れても構わないけれど、びしょ濡れのまま電車に乗るのは避けたい。傘を買おうにも、一番近いコンビニまで十五分。どんなに頑張っても確実に濡れてしまう。  生徒玄関から空を見上げてみても、雨は一向に止む気配を見せなかった。お腹も減っていたし、電車の時間もある。仕方がないと諦めて足を踏み出そうとしたところに声をかけてくれたのが、高井君だったというわけだ。  高井君が傘に入れてくれたのは、おそらく見るに見かねて、というか、止むにやまれず、というか、そんな理由だろう。  そもそも僕と高井君が相合傘状態になっているのは、いくつもの偶然が重なりあってしまった結果だ。  今日の放課後たまたま数学の補習があって、たまたまその補習に出たのが僕と高井君の二人しかいなくて、帰ろうと思ったらどしゃぶりで、ついでに僕の傘がなくなってしまっていたからだ。本当にたまたまの偶然で、僕たちの運がちょっと悪かっただけで、誰も悪くない。強いて言うなら、僕の傘を盗った奴が悪い。いや、よくあるコンビニのビニール傘だから、もしかしたら間違えられただけかもしれないけれど。  きっと今、高井君は僕に声をかけたことを後悔しているに違いない。気心知れた友人ならともかく、僕と高井君はまともな会話をしたことすらない。  高井君とは一年生の時からクラスが同じではあるけど、ただそれだけの関係だ。一つ傘の下並んで歩くなんて気まずいにも程があるだろう。現に僕は今とてつもなく気まずい。月曜日の席替えで隣になってしまったから、週明けのことを思うとますます憂鬱になってしまう。  気の利くような会話術なんて持ち合わせていないし、共通の話題も思い浮かばない。なにしろ人種が違う。いや、僕も高井君もおそらく生粋の日本人ではあるけど、住んでいる階級というかレベルが違うのだ。僕が小作民だとしたら、高井君はお侍さまといった感じだ。  高井君は剣道部のエースとして活躍している。毎年地区大会予選落ちだった弱小剣道部を、一人で県大会ベスト4まで導いたと言われる学校一のスーパースターだ。背筋もピシッとしていて、なんというか硬派な感じがする。同い年の筈なのに、とても落ち着いていて僕よりも随分と大人に思える。一方の僕は、冴えない生物部の平部員で、インドア派でゲームばかりやっている根暗なオタクだ。まさに雲泥の差。なんというかとても、不釣り合いだと思う。  雨脚は強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、けれど止むことはなく降り続けている。  それでも、さっきコインランドリーの前を通った気がするから、あとたぶん十分ほどの辛抱だ。そう自分に言い聞かせながら、彼に気がつかれないようにつめた息をそっと吐き出した。  それにしても、全然濡れない。高井君は傘を差すのが上手いらしい。そう思って、ちょっとだけ顔を上げて、それからようやく気がついた。 「ちょちょ、濡れてる! 高井君濡れてるよ⁉︎」  比率で分けたら七対三くらいで僕の方に傘を寄せてくれていて、高井君の左肩はびしゃびしゃだった。肩どころか髪の毛も半分近く濡れている。水も滴るいい男、なんてレベルじゃない。  びっくりして僕は傘を高井君側に押しやろうとした。全然、びくともしない。 「いや、別に大丈夫」  そう冷静に言いながら、高井君は空いている方の手で前髪をかきあげた。ニキビのひとつも見当たらないきれいな額から流れた水滴が目に入ったらしく、若干顔をしかめている。全然大丈夫に見えない。 「いやいやいや全然大丈夫に見えないって! ずぶ濡れじゃん!」 「このくらい大丈夫だって」  何が大丈夫なのかまったくわからないし、全然大丈夫じゃないとしか思えないのに、高井君は譲らなかった。  それから傘を押したり戻されたりの攻防戦が繰り広げられーーるはずもなく、数十秒も持たずに僕は惨敗した。それはそうだ。ひ弱な僕が、運動部でも生粋のスーパースターに、力で敵うわけがない。 「もー! これ高井君の傘じゃん! 高井君もっとちゃんと入ってっていうか自分のこと優先してよ」 「でも、横尾が風邪引いたら困るだろ?」 「それは高井君も一緒でしょ」 「大丈夫だよ。俺一応ちゃんと鍛えてるし、家も駅の近くだから。横尾はこの間風邪引いたばっかりだろ?」  そう言われると反論できない。事実休んでテストが受けられなかったから、今日補習に出る羽目になったのだ。勉強は嫌いじゃないし、成績も悪くはない方だと思う。ちなみにその日、高井君は剣道の大会に参加していたらしい。 「……でも、これは高井君の傘じゃん」 「だから俺が好きなように差しても問題ないだろ」 「いやそうだけどさ、そうじゃなくて。……なんかおかしくない?」 「別におかしくはないと思うけど」  確かに、おかしくはない。ただ高井君がお人よし過ぎるだけなのだ。この不器用な気遣い屋め。  高井君は全然怒ってなんていなかった。ただの善人だった。それに比べて僕ときたら。 「……ありがとう」  顔を見ながらお礼を言うと、高井君のほっぺたが若干ではあるけれど赤くなった気がした。もしかしたら照れているのかもしれない。  どこか近づきがたいような、あの硬派なスーパースターの高井君が照れている? まさか。そんなことあるわけない。そう思ってもう一度顔を見た。やっぱり若干赤いような気がする。  高井君のほっぺたを眺めていたら、なんだか急に、ぶわっと胸の底から親近感が湧いてきた。もっと喋ってもいいのかもしれないと、そんな厚かましくて図々しい気持ちが抑えられなくなった。 「お礼、何がいい?」 「え?」 「傘に入れてもらったお礼」 「別にいらないけど。……あー、そうだな、じゃあノート見せてくれる?」 「ノート?」 「数学。俺、鎌田先生のひっかけ問題苦手でさ。今日もわりと苦労して……。横尾いつも小テストの上位リストに入ってるだろ? だからさ、あー、いや、横尾がよかったら、だけど……」 「そんなことでいいなら、全然かまわないけど」 「やった」  大きく頷くと、高井君は安心したように笑ってくれた。  なんでもそつなくこなしそうなスーパースターは、思っていたよりも全然、本当に全然僕と同じ普通の男子高校生らしい。ちょっと会話が下手で、不器用で、数学が苦手で、でもすごくいい奴だ。  さっきまでの憂鬱が嘘のようだ。ふと、月曜日は僕の方から「おはよう」と、声をかけてみようと思った。高井君はきっと、今みたいに笑い返してくれるだろう。  視界の隅に、花屋の看板が見えてきた。駅はもうすぐそこだ。 「……晴れてきた?」 「ほんとだ」  空を見上げると、どんよりと重い雲の隙間から、ほのかな光が射していた。さっきまでの激しい雨が嘘のように、いつのまにか小雨になっている。柔らかな雨だ。 「よかったな」  僕は高井君の言葉に頷きを返しつつも、なぜかほんの少しだけ残念な気がしていた。  もうしばらくこの時間が続いてもいい。  そんなどうしようもない、バカみたいなことを思った。

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