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第1話

 僕にはミィちゃんしかいなかった。  傍目には仲の良い両親は毎日喧嘩をしていて。  あの頃の僕は、母か父のどちらについて行くかを迫られていた。  ミィちゃんは、父の友達だった。  優しくて少し気弱で、たまにおっちょこちょいで。  笑うとふにゃりと目尻が下がる。  その顔が僕はとても好きだった。  時々来て、ニコニコと笑いながら遊んでくれる人。  一緒にいると楽しい人だ。  母は『結婚するならケイザイリョクだけじゃなくて、思いやりのある優しい人と結婚しなきゃ』と口癖のように言っていた。  だから、僕はこう言ったのだ。 「僕、大きくなったらミィちゃんと結婚します!」    それは夏の暑い日のことだった。  その頃の僕は親友の家によく遊びに行っていて、一人息子の流歌君と遊んでいた。  流歌君は弥勒という名前の僕にミィちゃんとあだ名をつけてくれて、とても懐いてくれていた。  そして一緒にお絵描きをしていたら、突然流歌君から告白されたのである。  大きな瞳を潤ませて、真っ赤な顔で思いを伝えようと必死になっている様子はとても微笑ましい。  可愛らしい、純粋な思いが詰まった告白だ。 「あのね流歌君。とっても嬉しいけど流歌君が大人になる頃には、おじさんは本当におじさんになっちゃってるよ」  歳の差は二十。  流歌君は五歳。  流歌君が二十歳の時、僕は四十歳になっている。 「でも僕、ミィちゃんがいいんです! ミィちゃんじゃないとイヤです!」  流歌君は僕の袖を掴んで必死に訴える。  親友譲りの整った顔立ちに利発さ、母親譲りの凛とした雰囲気。  大きくなればさぞかしモテるだろうなと思わせる片鱗が流歌君にはすでに現れつつあった。 「そうかぁ。じゃあ流歌君が大人になったら結婚しようかなぁ」 「……!? 本当ですか!? 約束ですよ! 大人になったら、絶対に結婚してくださいね、ミィちゃん!!」  嬉しそうに目を輝かせる流歌君を見ながら、適当に僕は返事を返して頷いた。  好意を抱いた対象に告白することなんて、幼い頃には誰にだって覚えがあるだろう。  母親だったり、幼稚園の先生だったり。  時が経てば、そのうち微笑ましい思い出になるものだ。  純粋無垢な気持ちから生まれた告白は、物を知らない子どもが言ったことだと誰も本気にすることはない。  だから流歌君の告白も、そういうものだと思っていた。 「はぁ……流歌君、すっかり人気者だねぇ……」  冬の朝、通い慣れた駅の通路に大きく貼られたポスターを見て、僕はぽつりと呟いた。  月日はあっという間に流れて。  僕は四十歳。  最近係長になった、しがないサラリーマンだ。  対して、ポスターの中で黒のスーツを着こなし、こちらを振り向くような仕草をしているのは、人気ドラマの主役である二十歳になった流歌君だ。  流歌君は幼い頃の面影をわずかに残しつつも、すっかり大人びていて、涼やかな顔立ちのイケメンになっていた。  それに加えて演技力も高いと評判で、来年には大河ドラマの出演が決まっているらしい。 「あっ、これルカ君の今やってるドラマのやつじゃん!! めっちゃカッコいいんですけど!!」 「やっぱりクールな役が似合うよね〜! 前の映画みたいな優しい天然系もいいけどさぁ」  若い女の子達がポスターを見ながら楽しそうに通り過ぎていく。  流歌君は小学生になると早々に芸能事務所から声をかけられ、あっという間に子役デビューした。  今やドラマに映画に引っ張りだこの、実力派若手俳優の一人だ。  芸能活動が本格化してからはもう五年ほど会っていないが、テレビでよく見かけるので元気にやっているのだろう。 「大きくなったねぇ、流歌君」  あの結婚の約束をしてくれた時のことを思い出すと、今でも暖かい気持ちになれる。  僕は少し思い出に浸りながら満員電車に乗り込んだ。 「ふぅ……今日も疲れたなぁ」  帰りの電車で、僕はゆっくりと深く息を吐いてシートにもたれ掛かった。  時間は午後九時を過ぎており、僕は電車に揺られながら今日の夕食について考える。  記憶の中の冷蔵庫には牛乳とビールしかない。  ――コンビニ弁当でも買って帰るか……。  ぼんやりとそう思い立って、最寄り駅で降りた後、コンビニに寄ってから住処であるアパートへ歩き出す。  そして、アパートの階段を上がった先で僕は思わず立ち竦んだ。  いつもは誰もいないはずの廊下に、黒ずくめの人がいたからだ。 黒いフードを被った長身の男が、僕の部屋の前の手すり壁に体を預けて空を見ている。  そして人の気配に気づいたのか、ゆっくりとこちらを向いた。 「おかえりなさい、ミィちゃん」  廊下の明かりに照らされ、マスクとサングラスを取った男の顔には見覚えがあった。  整った顔立ちに、左目元の泣き黒子。  にっこりと微笑んだ顔はとても優しげで人懐っこい。  記憶の中の幼い流歌君の笑顔と目の前の笑顔が重なる。 「え……? る、流歌君……?」  ――今を時めく有名人がどうしてこんな所にいるのか。  疑問が顔に出たのだろう、流歌君はくすりと笑って口を開く。 「どうしてここに?って顔をしていますね? 何もおかしいことはありませんよ、僕は貴方に会いたかったんです」  そして流歌君は未だ固まったままの僕にゆっくりと近づいてくる。その歩みは僕の目の前でようやく止まった。  こうして並ぶと、流歌君の方が頭一つ分ぐらい背が高い。 「そ、そうなんだ……でもね、もう随分と遅い時間だよ。待っていてくれたようだけど、今日は帰った方がいい。タクシーを呼ぶから少し待って……」  急いでスマートフォンを取り出す僕の手を、流歌君は引き止めるように掴む。  流歌君の手は冷え切って、氷のように冷たかった。 「……約束」  手と同じくらい冷たい声がぽつりと落ちる。 「……や、約束?」  思わず聞き返して流歌君を見ると、彼はじっと感情を読み取れない顔でこちらを見下ろしていた。  流歌君と僕が交わした約束なんて、たった一つしかない。 「……お忘れですか? 貴方は僕に言いました。僕が大人になったら結婚してくれると」  『結婚』という言葉と、真っ直ぐにこちらを見つめる流歌君の瞳に胸がドキリと跳ねたような気がした。  切ないような、ほんのり暖かいような感覚は初めてで、焦った僕は必死に言葉を紡ぐ。 「ちょ、ちょっと待って……! 確かに約束したかもしれないけど、あれは小さい時の冗談みたいなもので……」 「違います」  流歌君はぴしゃりと僕の言葉を遮った。 「……冗談じゃないですよ、貴方と結婚する為に来たんです。僕もう子どもじゃありません」  流歌君が真剣な眼差しでこちらを見た。強い決意を秘めた瞳に目を逸らせなくなる。 「ミィちゃん……いえ弥勒さん。僕と結婚してください」 「…………ちょっと待って。少し、考え、させて」  僕はなんとか彼の話を理解しようとする。  彼の言い分を整理するならば、十五年前の告白は冗談ではなく、本当に僕と結婚するつもりで言ったのだと言う。 「先に言っておきますが、年齢や性別は関係ありません。僕の最初で最後の愛を、どうか受け取ってください。ミィちゃん」  流歌君はまるでドラマの台詞のような言葉を紡ぐ。  でも、これはドラマじゃない。  流歌君は眉間に皺を寄せて苦しそうな顔をしている。  同じ告白なのに、幼い頃の時とは随分違った顔をしていた。 「あのさ、聞いてもいい? 今まで僕以外に好きになった人はいないの?」 「僕には貴方だけです。貴方以外目に映らない」  流歌君は掴んでいた僕の手を強く握る。  逃げることは許さないと言わんばかりに。 「僕を愛して、弥勒さん」  流歌君は熱を帯びた言葉を、切なげな顔で投げかけてくる。  流歌君の言葉が本当ならば。  彼は十五年も恋煩いをしていたことになる。  だからこそ即答する訳にはいかなかった。 「……すぐには答えられないよ。だって、流歌君のこと、全然知らない……から」  しどろもどろになって答えると、流歌君は目を伏せて、ため息をついた。 「……その回答も予想していました。ですので、しばらくミィちゃんの家に置いていただけませんか?」 「……え?」 「お互いのことを知るには一緒に暮らすのが一番では?あ、ミィちゃんの家が嫌なら、僕の家でもいいですけど、ミィちゃんの職場からは随分と遠くなりますね」 「……そ、そんな急に……無理だよ」  流歌君はそれを聞くと悲しそうな顔をして、俯いてしまう。肩を震わせて、かすかに鳴咽が聞こえてくる。 「無理だなんてひどい。ミィちゃんは考慮の余地なく僕を振るんですね」  流歌君が泣いている。  慌てた僕はとんでもないことを口にしてしまった。 「……!? 流歌君、な、泣かないで。分かった、一週間でも、一ヵ月でも、君の気がすむように好きなだけ住んでていいから!」  そう言うと、流歌君は顔を上げて、にっこりと微笑む。頬に涙の跡は一雫もない。 「ではこれからよろしくお願いします、ミィちゃん」  幼い頃から芸能界で揉まれたからか、流歌君自身の性格なのか。はたまた、その両方なのか。  一筋縄ではいかなさそうな流歌君に、僕は思わず頭を抱えた。 「……お風呂ありがとうございました」  とりあえず時間が遅かったので流歌君を部屋に招き、疲れただろうからと先にお風呂に入ってもらった。  流歌君は一緒に暮らしたい、と言っていたが、持ち物は財布ぐらいで、スマートフォンすら持っていなかった。  長さが全然足りていない僕のスエットは随分と窮屈そうだが、我慢してもらうしかない。 「おあがり流歌君。あのさ、家族に連絡しなくていいの? スマホ貸そうか?」  そう言うと流歌君はきょとんとした後、ぽつりと呟いた。 「マネージャーには事前に言っていますから大丈夫です」 「そう? なら、大丈夫かな。ああ、やっぱり冷蔵庫何もないなぁ。明日買い物に行かなきゃ」  僕は冷蔵庫を見ながら呟くと、横から伸びた手がビールを一本取り出して後ろに下がっていく。 「明日一緒に行きましょう。とりあえず、こちらを頂きますね」  プシュッと音がして、流歌君がビールを口に運ぶ。  こくこくと動く白い喉に、僕の目は釘付けになってしまう。 「る、流歌君……お酒飲めるんだ……」  思わずそう呟くと、流歌君はくすりと笑った。 「僕二十歳ですよ。仕事がらお酒の付き合いもありますから、ある程度飲めます。ミィちゃんもそうでしょう?」 「ん、うん……まぁね」  ――そうだ、もう子どもじゃないんだ。流歌君は。  そんな当たり前のことを思いながら、僕は曖昧な返事を返した。 「ミィちゃん、一緒に寝ましょう」  寝る準備が一通り整った頃、流歌君が話しかけてきた。 「流歌君……自分のサイズ考えて。絶対無理だよ。寝室のベッド……狭いかもしれないけどそこで寝てくれていいから。ほら、歯磨きして先に寝ててね」  僕は棚から参考書と過去問を取り出す。キャリアアップの為に取らなければならない資格があるのだ。 「……そんなの嫌です」 「ん?」  低い唸り声のような声が聞こえてきて、僕は思わず声のする方向を見る。  流歌君が眉間に皺を寄せて、心底不愉快だという顔をしていた。顔の造形が整っているだけに、その怒りを滲ませた表情には迫力があった。 「一緒に寝るのがダメなら、せめてミィちゃんの勉強が終わるまで一緒に起きています」 「そんな子どもみたいなこと言って……いつも一人で寝てるだろうに何でそんなこと……」 「静かにしていますから。お願いします」  説得しようとしても、流歌君は頑なだった。  僕が諦めて過去問を解き始めたのを見て、流歌君は本棚から本を取り出して読み始めた。  そして、一時間ほど。  区切りをつけた僕は流歌君に声をかける。 「ごめんね、遅くなっちゃって。さ、もうお休み……んっ!?」  フニッと。  唇が柔らかいものに触れて、すぐに離れていく。  びっくりして目を白黒させていると、流歌君が唇に指を当てて微笑んでいるのが見えた。  いたずらが成功した子どものような笑顔なのに、どこか艶っぽくて色気がある。  また、胸がドキリと跳ねた。 「もう待てません。早く僕のこと、好きになってくださいね」  流歌君は寝室に消えていき、薄暗い室内に取り残された僕は一人立ちすくむ。  映画のシーンのような体験に、思考が回らない。  さっきからずっと流歌君の顔や仕草が頭の中で繰り返し再生されている。    ――なんだこれ。ずっとドキドキしてる。  ――待て待て、流歌君は二十も離れた男の子だぞ。  ――これじゃまるで恋に落ちたみたいじゃないか。

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