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第1話

 高校の卒業式で俺は泣かなかった。  それよりも、やっと自由になれる、という喜びのほうが大きかった。田舎の村で、ゲイとして生きていくことの息苦しさから一刻も早く解き放たれたかった。  式典を終えたあと、俺は解放感にうかれながら卒業証書の入った筒をふりまわしつつ、高校から自宅への坂道をあがっていた。母親は仕事で来られなかった。でも俺の隣にはいつものとおり和哉がいる。 「今日でこの道も最後だから、蒼(あおい)と歩いて帰るわ」  和哉は、車で帰る家族とは別れ、俺と歩くことを選んでくれた。  ふたりの左胸には卒業生用のピンクの造花。和哉は中学のときから柔道で鍛えていて体格がいいから、みんなと同じ制服を来ていても特別な風格がある。  坂道の上空には、トンビが円を描いて飛んでいた。澄んだ早春の空だ。左側には緑の山、右側は港。ちょうどフェリーが到着していて、降りてくる観光客の姿が見えた。  明日になれば、俺があのフェリーに乗って、この島をあとにする。もう荷造りもできている。 「東京に着いたら連絡する。母さんちとは別に部屋借りたんだ。バイトもするし、彼氏も作るわ」 「大学の勉強もしろよ。そっちが本分だろ」  うきうきで語る俺に和哉は苦笑した。  この島の中で、和哉だけが俺がゲイだと知っていた。 「蒼(あおい)は楽しそうでいいな」  和哉がぽつりとつぶやく。  卒業後、和哉は親の会社に就職することが決まっていた。この島で唯一の建築会社だ。たくさんの下請けの職人を抱えていて、地元では一大企業といってもいい。小学生のときから和哉は、周囲の大人たちに「若社長」「大事な跡取り息子」と呼ばれてきた。そして、和哉はその期待に応える文武両道の優等生だった。  一方、俺のほうは――俺の母親はこの島の出身で、上京して就職し、結婚した。しかし、俺が一才のときに離婚。赤ん坊の俺を婆ちゃんにあずけて、また都会に舞い戻ってしまった。それは母が仕事を続けるために仕方ない選択だった。  もちろん、養育費はちゃんと送金してくれたし、時々は俺を東京に呼んで、遊びに連れて行ってくれたりもした。婆ちゃんは懸命に俺を育ててくれた。俺は全部納得している。  とはいえ、母の生き方は、島の常識からはずれたものだったようだ。幼いうちは「結婚に失敗して残されたかわいそうな子」とか「母親の身勝手の犠牲にされた子」とかひそひそささやかれていた。  ある日、中学から帰ってきた俺は、婆ちゃんが、誰かと話しているのを聞いてしまった。 「あんたね、蒼に将来面倒見てもらえるって思ってるかもしれないけど、成長したって蛙の子は蛙よ。都会で遊ぶことに夢中になって、育てた恩なんて全部忘れちゃうんだから。今の若い人なんて薄情なもんよ」  蛙の子は蛙。薄情で身勝手。俺は玄関に突っ立ったまま、自分たちが陰でそう言われていることを知った。  うるさいね、とかなんとか婆ちゃんは言い返しているようだったが、居間からは冷たい笑い声が響いてきた。 「あんたの娘だって、恩知らずの恥知らずじゃないの。自分の子供の面倒も見ないなんて、人としてどうかしてるわ」  ぱしゃ、と水音がして、近所のおばさんが居間から転がり出てきた。服が濡れている。あわててサンダルを履き、なにかわめきながら外に出て行った。  呆然と立ち尽くしている俺を見て、婆ちゃんは一瞬こわばった顔をした、が、すぐに、皺だらけの顔でくしゃっと微笑んだ。 「いいんだよ。蒼は蒼、自分で人生決めればいいよ。婆ちゃんのことなんて気にしなくていい。人様のことに首突っ込むなんて、不幸な人間のやることだよ」  あのおばさんだけが特別意地悪な人というわけではなく、これがこの島での俺の立場だった。それでも俺が学校で表立っていじめられなかったのは、たぶん、いつも隣に嶋田和哉がいたからだ。島のプリンスの威光に俺は守られていた。  十代になってすぐ、俺は自分の性志向がどうやらまわりの男子とは違っていると気がついた。  なんとなく感じていた違和感は、成長に伴い、だんだんと明確な違いになっていた。同級生のエロ話を聞くのがつらい。女性の顔やスタイルの品定めとか、そういう話題に入っていけない。いつも自分をごまかしてへらへらして、あとでなんともいえない自己嫌悪になる。その繰り返しだった。  母親にも、婆ちゃんにも、この悩みを打ち明けることができなかった。ただでさえ、異分子扱いされているのに、人と違うことを認めるのは怖かった。  学校の先生やカウンセラーには、なおさら言えなかった。相談室で話したことが、次の日にはみんなの噂になっているような田舎なのだ。思いあまった俺はある行動に出た。 「和哉、俺来週東京行くわ」  俺が緊張した顔で言うと、和哉は微笑んだ。 「ああ、お母さんとこか」 「いや、そうじゃなくて、このお店で話をきいてもらおうと思ってる」  俺は携帯の画面を見せた。  それを目にした和哉の眉がきゅっと寄り、やがて当惑した顔になった。 「これって……?」  ネットでみつけた、北新宿でゲイ向けのオイルマッサージをしているお店だった。このお店の口コミには、「スタッフさんに優しく接してもらえた」「日頃の悩みも聞いてもらえてスッキリ」という内容のコメントがたくさん投稿されていた。それを見た俺は、もうここしかない! と思い詰めてしまったのだ。  今考えると、どうかしていたとしか思えないが、当時十五歳だった俺には、いきなりゲイバーや風俗へ行くよりもハードルが低いように感じたのだ。  個室で男性スタッフに親身に悩みを聞いてもらえるなら、お年玉貯金をはたくことにも躊躇はなかった。 「俺な、ずっと自分がおかしいなって思ってた。病気なのか、直さなくちゃいけないことなのか、とも思った。だから、本当に俺がおかしいのか、それとも俺みたいな人がほかにもいるのか、どうしても確かめてきたいんだ」 「そうか……そうしないと、お前は前へ進めないんだな」  和哉はけっして笑わなかった。真剣な顔で俺に尋ねてきた。 「うん。自分がどうやって生きていくのか、決められない」  和哉は、協力すると約束してくれた。  そして、母親には知らせずに俺は上京した。婆ちゃんには、和哉の家に泊まることにして、アリバイ工作を頼んだ。  手のひらに汗をかきまくって訪ねたマッサージ店では、受付のお兄さんに「年齢を詐称しないでください」と怒られた。童顔の俺では、年齢をごまかせなかったようだ。  このまま強制送還かと、しょんぼり事務所で待っていると、オーナーだという髭をたくわえたマッチョの男性がやってきた。  その人に、丁寧に話を聞いてもらえたのだ。  俺は生まれて初めて、自分がゲイなんだと腹落ちした。異常とか病気なのではない。自分は、ちゃんと人を愛することができるひとりの人間なのだと、その人と話すうちに確信できた。  事務所のデスクのビニールシートの上に、ぼろぼろ涙を落として泣いた。  ――よかった。これで生きていける。  ――自分が何者なのか、やっとわかった。  悲しくはなかった。ただ安堵していた。  それから、俺は地元で無理して周りに合わせるのをやめた。彼女も友人ももういらない。高校さえ出たら、島を出て自分らしい人生を生きる。そのとき、枷になるような人間関係はいらない。  ただ、和哉だけは。  和哉だけは、ずっと俺の隣にいてくれた。  東京から帰ってきて、「やっぱり、俺ゲイだったわ」と打ち明けても、それまでと変わらず接してくれた。  眠れぬ夜に、「俺はどうしてみんなと同じように生きていけないんだろう。なんのために生まれたんだろう」と何度もノートに書きなぐる。そんな最低な毎日にも、ずっと友人として寄り添ってくれた。  だから、なにも言わない。  この気持ちは伝えずに、この島を去る。  俺はあらためて、隣を歩く和哉の精悍な横顔を見た。いつ見ても、ほれぼれするような男前だ。  お前はみんなに必要とされて、大事にされて、ちゃんと幸せになってくれ。  かわいい子供、孫、親戚に囲まれて、俺とでは絶対にたどりつけないハッピーエンドを迎えてくれ。 「蒼は自由でいいな」  和哉がぽつりともらした。 「うん、俺、自由だ!」  ガードレールにもたれかかって海へ叫んだ。  思い残すことなんて、未練なんて、なにもない。  そう自分に言いきかせた。 「元気でな」 「うん、お前も」  出発の時刻が近づくに従って、和哉も俺も口数が少なくなっていた。  桟橋のタラップから、五十人乗りの小型フェリーに乗り込んだ。朝一の便には、通勤通学らしき人が数人乗っているだけだった。  窓際の席に座って桟橋を見た。ぽつんと立っている和哉が見える。紺色の学生用コート。  こんなときまで生真面目だなあと、思わず笑ってしまった。  一瞬、頬をゆるめると、堰を切ったように涙があふれ出した。両目が熱くなって、のどの奥に痛いくらいの塊がこみあげて、嗚咽が止まらなかった  お前のおかげで俺は生きられた。  全部お前のおかげなのに。  なにも伝えられない。  感謝も。  誰より大切に思っていたことも。  お前が俺の全部――この島での青春の全てだった、ということも。  なにも伝えないまま、儚い恋はここで終わる。  船体の点検をしていた運転手が、桟橋にかかっていたタラップをひきあげ、乗り込んだ。  エンジンがかかり、船体がゆるやかに振動し始める。  俺は、片手で口を覆い、濡れた頬を袖で乱暴に拭った。  ありがとうと言いたかった。  好きだと言いたかった。  ――でも、ごめん。勇気なんて出ないわ、ごめん。  和哉の戸惑う顔は見たくない。  ――だからこのまま行くわ。ごめん。  船体が動き出す。大きく右に旋回して、港を離れていく。 「あおいー」  離れていく桟橋から、名前を呼ばれた気がした。  顔をあげて、和哉の方を見た。  出航の汽笛が鳴る。号哭のような音だ。 「俺も連れて行って」  大きく開けた口がそう言った、気がした。  気のせいかもしれない。汽笛でよく聞こえない。  そこには、ぎゅっと顔をしかめてにらむようにこちらを見る和哉がいた。  何年もずっと一緒にいたのに、和哉のこんなせっぱ詰まった顔を見るのは初めてだった。  その瞬間、俺の涙はひっこんだ。  電流に打たれたような衝撃だった。  和哉はいつでもちゃんとしていた。誰にも弱みを見せなかった。成績もよく、柔道は県大会三位。体育祭実行委員もやった。人望も厚かった。  なに不自由ないように見えた人生。それでも「周囲の期待に応える優秀な跡取り」として生きるのは、和哉にとって、本当は耐え難いことだったのだろうか。  ――俺、自分のことしか考えてなかったわ。  ――守られてばっかりで、お前を守ること、考えてなかったわ。  船はどんどん離れていく。 「ああ!」  俺は思わず窓枠を拳で叩いた。  悔恨に打ちのめされていた。  人を愛することは難しい。  俺は自分の幼さを呪いながら、和哉を残して島を旅立っていった。  バイト帰り、携帯にメッセージが届いた。 「久しぶり。蒼元気? 和哉から、なんか連絡きてない?」  高校時代の同級生からだ。二年ぶりの連絡になる。  婆ちゃん以外、島の知り合いとは連絡と取らないと決めていたが、和哉の名前を見たとたん胸が騒いだ。 「なに? 和哉になんかあった?」  メッセージを打ち返す。 「あいつ、親とケンカして家を飛び出したらしい」 「家出?」 「無理矢理お見合いセッティングされたらしいよ」 「いや、和哉まだ二十歳じゃんか」 「相手は取引先の大手ゼネコン役員のお嬢さんで、和哉のことは柔道の県大会の活躍から知ってたんだってさ。一目惚れってやつじゃない? 親が断れなかったらしくて、仕事の打ち合わせにかこつけて和哉を連れて行ったんだけど、和哉はめっちゃ怒ってさ。その場で席を蹴っていなくなったって。探してるけど全然見つからないらしい。東京行ってるなら、頼るとこお前んとこくらいだよなって話になって」 「まじで?」 「親子の縁切るって、相当怒ってたって。和哉からなにか連絡あったら、嶋田家に連絡してやってよ。すげー心配してるからさ」  誰が連絡するかばーか、と思いながら携帯をズボンの尻ポケットにしまおうとしたとき、バイブレーションが通話の着信を告げた。  画面には、嶋田和哉の四文字。  俺の心臓が跳ね上がる。  泣きたいような嬉しいような気持ちが入り混じって胸が苦しい。  これでやっと、お前の青春、やり直せるな。  そう思いながら、震える手で通話のボタンを押した。 了

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