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これが恋というものならば
ピー
「M206番、解錠」
あぁ、今日も朝が来てしまった。
食堂へ行き、皆と同じ朝食をとる。僕はここで生まれ育ったけれどここが和やかな雰囲気になった事などない。皆黙々と毎日同じ食事をとって、毎日同じ検査着を身にまとって、毎日同じ実験室へ向かう。
ただひとつだけ違うのは、毎日同じメンバーではないというだけ。僕は今のところ白い肌を持っているから医薬品の実験獣人だけれど、もちろん劇薬担当も、器具担当もいる。器具の実験獣人なんて、わざわざ骨折させられたり痛め付けられてからが実験のスタートであるし、入れ替わりもはやい。
劇薬の実験獣人は、一度しか姿を見ることがないのが普通なのだ。
「えっと、こんにちは!今日からお世話になりますジジです。よろしくお願いします!」
「M206、よろしくお願いします」
やけに明るい人だな、というのが第一印象である。少しだけ、うるさい。
「はい!お名前をお聞きしても良いですか?」
「M206」
「あ、はい、ここ実験室M206番ですよね。それで、貴方のお名前は?」
「貴方のようなジジという名前はありません。M206と呼ばれています。」
「失礼ですが、何か犯罪を犯してこちらへ?」
「いいえ。ここで生まれて、ずっとここにいます。」
これが新しい担当であるジジとの出会いである。
彼は異国で薬剤師として働いており、この国のレベルの高い製薬市場を学びたいとこちらへ研修という形で来たとのこと。難しい事はわからないが、彼の国はとても遠いらしい。
「ニイナさん、おはようございます。今日はこちらの日焼け止めを塗った後に紫外線を少しずつ温度を上げながら当てさせて頂きます。」
「わかりました。」
ジジはもう、無駄に明るく話さない。
どこの夢物語かと思うが、ジジの国では獣人も人も対等に、一緒に生活しているという。
この国では獣人は奴隷となり、自由はないと伝えると顔を真っ青にして、何やかんや言っていたが、あまり頭には入らなかった。
彼が担当になってもうすぐ一年。彼の研修期間も一年。やっと故郷へ帰れるとホッとしている事だろう。
僕はこのところ、彼が帰国することを考えると、胸がぎゅっと痛くなる。
この一年で僕は新商品となるコンタクトを着け続けた場合の視力低下の実験で片目の視力を殆ど失い、ピアッサーの刺し具合の実験で沢山の穴が耳に開いた。うさぎ獣人にとって耳はとても敏感で、毎日何度も繰り返される実験に耳鳴りが止まらなくなった。
これは、そろそろ医薬品から劇薬あたりに移動もあり得ると少しの失望と大きな希望。
ここでは獣人は死ぬことさえも選択出来ないのだ。
慣れた僕より慣れないジジの方が毎日具合が悪そうで、初めて来たときよりもかなり痩せてしまったし、肌艶も悪い。僕に実験をしなくてはいけない時は涙を流し、どこかで何かを殴っているのか、拳の皮はいつも捲れて血が滲んでいる。
僕は、ジジの涙を見ると少しだけ気分が高揚する。僕の頬に触れてクリームを塗るときも気分が高揚する。それはジジが僕の為に流す涙だったり、僕の為にする作業だったりするからであるからだろうか。
「ニイナさん。ニイナさん、ごめんなさい。痛いですよね。」
勝手に僕にニイナと名前をつけて、勝手に爛れた皮膚に自前の薬を塗る。
「大丈夫です。痛くありません。それに、実験なのに勝手に薬を塗ったら罰せられますよ。」
貴方が泣いていると、胸がぎゅっと痛くなるのです。あぁ、でも、僕の為に泣いてくれているのなら、それはそれで気分が高揚してしまう。
きっと、これが恋というものなのでしょう。
言葉だけは知っていたのです。
貴方を想うと胸が暖かくなって、貴方が悲しんでいると、胸が痛い。
実験中も、食事中も、睡眠を取る時も、貴方が頭から離れないのです。
知りたくなかった。これが恋だと気づきたくなかった。それでも、私の胸は暖かいのです。
「ジジ、良いですか。もうすぐ帰国するのでしょう?下手なことしないで、胸を張って帰ってください。」
途端にジジの瞳からぶわりぶわりと涙が溢れる。
「なるべく、笑顔を見せてください。笑顔を覚えていたいです。」
沢山の涙を流しながら無理に笑おうとするジジの顔が複雑で面白くて思わず声が洩れる。
「あはは!ジジ、変な顔です。」
「うあぁぁぁぁ!」
途端に大声で叫ぶように泣くジジに思い切り抱き締められて困惑してしまう。
「大丈夫ですか?どこか痛みますか?」
首を振って、泣き続けるジジの頭をそろりと撫でて自分の頼りない胸に閉じ込める。
心臓が痛いくらいにバクリバクリと音をたてていて、恋とはこんなに苦しいものなのかと天を仰いだ。
ジジとの最後の実験は小さな錠剤ひとつだった。
「最近は塗り薬が多かったから、何だか不思議ですね。これは何の薬ですか?」
飲みながら聞けば、ジジは眉を下げて微笑むだけ。
その微笑みだけで全てを悟った。
目蓋が落ちる。とても、苦しい。
こんな終わりが出来るとは思っていなかった。ジジを、大切な貴方を、恋心を抱く貴方を、片目だけでも見ることが出来て、最後にこの瞳に映るのが貴方で。
こんなに幸せな人生を歩めるとは思っていなかった。
こんなに暖かい感情を持つことが出来る人生だとは思っていなかった。
もっともっと沢山見ていたいのに。
「ジ、ジ。気をつけて、かえ、ってください、ね?」
ありがとうと最後は声になっただろうか。
身体中を蝕む激痛も感じないくらい、僕は微笑んでいることでしょう。
優しい風が、髪を撫でる。
そっと瞳を開けば、青空の下で寝ており、視線を横へ動かせば一面緑の草がそよそよと風を受けて動く。
風も、草も感じた事はなかった。
そして今、自分はそこにいる。
「死ぬと空へ昇るものだと聞いていたのですが、空にも土や草があるのですね」
右側からクスクスと笑い声が聞こえて、反射的にそちらを向けば膝を立てて座るジジが優しく覗き込む。
「どうして?」
「うん。ニイナさん、ごめん。」
「あの、え、?」
「うん。ごめん。ニイナさんのこと、誘拐した。」
頭の中が困惑で溢れかえる。
そんな僕の頭を優しく撫でて、引き寄せられる。
「本当に、ごめん。ニイナさん、痛い思いを沢山させてごめん。謝って許して貰える事でないのは百も承知です。これから、一生をかけて償わせて下さい。」
泣き虫な彼がまた涙を流す。
「あの、話についていけません。僕は死んだのでは?」
そこからの彼の話は正に夢物語であった。
ジジは製薬を学びに来たのに、あの国の実態は公にはしていない獣人奴隷を使っての人体実験。ジジはこの一年で沢山の証拠となる資料や動画などを用意し、この帰国と共に持ち帰った。
「ニイナさんが獣化するかは一か八かの賭けだった。でも、こうするしかあの国からニイナさんを出す手はないと思ったんだ。効果は3日と聞いていたけど、3日間本物のうさぎのようにゲージで過ごすし、このまま戻らないかと思った。でも、あの場所に置いておくより、うさぎとしてでも連れて帰りたかったんです。勝手にすみません。」
辺りを見渡せば狼獣人の親子であろうか、ボールを投げて遊んでいる。本当に、こんな国があったのか。
「全ての獣人は救えないかもしれません。でも、国やマスコミに掛け合ってできる限りの事をしたいと思います。先ずはこの事をメディアに出します。手伝ってくれるという友人たちもいます。少しずつになるかもしれませんが、変えていきたい。そして、これからずっと私の隣を歩いてくれませんか?」
言葉に詰まって何も言えない。こんなことをして、本当に大丈夫なのだろうか。それでも、ジジを信じたい。信じても良いだろうか。
「僕は、何も出来ません。それでも、良いのですか?」
「はい。ニイナさんが隣にいてくれるだけで嬉しいです。」
そっと手を繋いで、額に落ちてくるキスを受け入れた。
初めての恋は、胸がぎゅっとなって、ふわりと暖かくなって、嬉しくても悲しくても涙が出る。
「ニイナさん、好きです。」
「僕も、初恋を貴方に捧げます。」
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