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はつこいをうたえ

日陰がある所に残った根雪が3月の空気を湿らせている。北国の田舎町の気温は未だ上がり切らないが、時折訪れる春らしい暖かな日が芽吹かせた木々の色がそこかしこで揺れていた。 香しい土の香りが漂う晴れ渡った空の下、足を運んだグランドの隅でにも、やはりまだ残雪がある。その汚れた氷の塊のようになった雪の上に、置き去りにされた野球ボールを見付けた。日を追うごとに柔らかくなってきた春の風に吹かれながらボールを拾い上げ、一度手の中で放る。見上げた頭上で、春を告げる鳥が軽やかに鳴きながら飛んでいった。 「やろうぜ」 何も無いが土地だけはある。そんな言葉を表すような、都会の学校に備わっているそれの倍の広さはあるであろうグラウンドに軽く土埃が舞い上がる。まだ枯れた芝生を踏みつつ、眩しげに目を細めてグラウンドを見渡していた紘(ひろむ)に駿人が声を張る。手にしていたボールの形や色が、酷く懐かしいものとして紘の目に写った。 15年前、2人は毎日同じ場所でキャッチボールをしていた。朝と晩、部活の練習と前と後に行うキャッチボールは欠くことの無い習慣だった。その頃のキャッチボールとは異なり、素手で放られるボールに、紘がほとんど条件反射で手を広げる。放物線を描いた白球は、小気味よい、ぱん、という乾いた音を立てて紘の掌の中に収まった。 この中学校で3年間取り組んだ部活を引退した後は紘は野球をしてない。駿人は地元に一つしかない高校に進学した後も野球を続けていた。甲子園など夢のまた夢のような部活だったが、外野を守っていた駿人はいつも楽しそうにグラウンドを駆けていたことを覚えている。泥にまみれたユニホーム姿が様になっていた少年は、成長期に育った豊かな体躯にスーツを纏う大人の男に成長した。 紘の手が山成りにボールを投げ返す。キャッチした駿人が戯れに足を上げて振り被る。駿人が羽織った黒のスーツの裾が砂埃の中に揺れた。 互いに、黒い衣服を着てきたのは偶然にしか過ぎない。今日この場所に来ることを決めた時、着るものはすぐに頭に浮かんだが、久方振りに繋いだ電話で何を着ていくか等と打ち合わせをするような真似はしなかった。駿人はまるで喪服のような黒のスーツに白のシャツだった。紘もまた、濃い色のコーデュロイのパンツに、厚手の黒のジャケットを合わせてきた。 また一つ強い風が吹き、駿人の背後にある校舎の窓ガラスが音を立てた。受け取ったボールを手にしてから視線を向けると、割れたままの窓ガラスから汚れたカーテンがひらひらと揺れている様が目に入った。あれは確か理科室があった場所だろう。遠い記憶を手繰り、当たりを付けてまた駿人を見遣る。受け取ったボールを、先程よりも強い力で投げ返す。 「お。いい球」 はしゃぐ駿人の笑顔に無意識に双眸を細める。だだっ広いだけで、夜になるとろくに灯りも点かないグラウンドでのキャッチボールの最中、良い時も悪い時も、少年はいつも「ナイスボール」と声を張っていた。声変わりの直後の少し掠れた彼の声は今も鮮明に紘の耳に蘇る。同時に、外野からの返球を受け止めた、遊撃手に向けられた弾けるような笑顔までもが鮮やかに脳裏に浮かび上がり、今目の前にいる駿人の姿と重なった。 彼は今日の遠出を妻に何と言ってきたのだろうか。目に付くような荷物も持たず、軽装でやって来た所を見れば、今日中に帰宅するつもりだと予想がつく。この街の駅には、日に2本しか汽車は停らない。日帰りならば、帰りの汽車の時間までに駅に戻らなければならないだろうと思い巡らせて、はたと気が付く。この街には、この場所以外に見ておくべき場所はほとんど、無い。 「なあ、」 駿人の声が、人気の無い辺りに響く。風が吹く度に、雪解けの水を吸って伸びつつある雑草が音を立てて波になる。遠くでは相変わらず小鳥が鳴く声がしているが、それ以外の音は聞こえない。都会の騒音など届く筈もない。人の気配は自分達以外全て消えているのではないかとすら錯覚する。山間の、小さな街だ。 「雑貨屋のじいさんていつ死んだんだっけ」 「知らねえ。俺が最後に帰ってきた時には店はあったぜ」 駿人が指すのは、部活の帰りに寄り道をすることが決まっていた店であるということは改めて聞かなくてもわかる。学校のすぐ側にあった、ともすれば、賞味期限すら怪しい食品だとかを置いていた店は雑貨屋らしく文房具や教材なんかも取り扱っていた。あの店の三代目だと言っていた男は自分達の同級生だ。彼はいつ店を閉める決断を下したのだろうかとぼんやりと思う。ここに来る途中にあった筈の小さな店舗は跡形もなく消えていて、日当たりの良いその敷地には、生えたばかりの雑草が心許なくそよいでいた。 「なんも無くなっちまったなあ」 「な、」 雑草に囲まれ、幾度もボールを行き来させる。15年前に幾度も行ったやり取りが鮮明に蘇る。同時に、にわかに胸に込み上げようとする想いに気付いた紘は内心で小さく苦笑した。 「…なあ、俺さぁ」 「んー?」 もうここで、この場所でこうしてキャッチボールをすることは無い。二度とは戻らないグラウンドでの日々も、今のこの時も、決して元には還らない。 ここには2度と訪れない。壊れた校舎も、日陰の残雪も、遮る物のない空も、遠くに望む山々も、寂れて傾ぐ駅舎も。その全てがもうじき、永遠に封じ込められる記憶の粒となる。 掌の中のボールを、今度は力一杯放った。 「俺が野球辞めた理由、」 あの頃。15年よりもずっと前から在り続けていた想いがある。 幼い胸の内を告げられるはずもなく、ただ焦れていた日々を思い出す。涙する程に胸を締め付けていた想いを口にする勇気などある筈もなく、端から叶わぬものと自分に言い訳をして日々を浪費した。傍にいるだけであれば、時間は持て余すほどに手にしていた。掌や胸の中から溢れてしまいそうな想いは白球に預けて届けることなど出来ない。 それでも、彼とキャッチボールをする時間が幸せで——苦しくて、堪らなかった。 ボールが駿人の手の中に吸い込まれる。 キャッチボールをするその間だけは、駿人は自分のものだと思っていた。全身が自分の方へと向けられ、少年の眼差しも、未完成な指先も、その全てが自分だけへと向けられている。その事が幸せであると気が付いたと同時に、自分が抱く邪な思いに慄然とした。純粋に野球や、自分と向き合う駿人と目を合わせる事が出来なくなった。だから——野球を、辞めた。 「ああ?聞こえねえよ」 語尾が下がった声は、離れた駿人に届きはしなかった。高校に入学した直後、部活はやらないと告げた紘に駿人はしつこく食い下がり、理由を尋ねるよりも先にまた一緒にやろうと誘い続けた。その無邪気な目と、誘い文句に苦笑した紘は少し大人びた目で笑うものだから、駿人はやがて静かに諦めた。だから、駿人は紘が野球を辞めた理由を知らないままだ。 「やっぱいいわ。…俺さあ、」 なんだよ。顔を上げて笑い、ボールを待つ構えの姿勢を取る紘に駿人が不満げに唇を尖らせる。その不服さを示すように、やや強いボールが飛んできた。危うく取り損なったそれは掌の上で軽く跳ね上がったが、地べたに落とすような真似はせずに済んだ。 安堵して鼻から息を抜く。顔を上げ、駿人に向かって笑いかけた。 田舎の街での、誰にも知られぬ恋慕は確かに存在した。 自分だけが知る想いは、後年ずいぶん燻り続けたが、成長とともに消えていったように思えていた。 再訪したこの街に立った時、胸の奥にあった想いはほんの微かに揺れ動くのを感じた。深い眠りについていた感情を起こしたのは、郷愁と、懐かしい春の香りと、駿人の存在そのものだろう。 大きく振り被った。少し軋む肩を堪え、精一杯に強いボールを投げ込んだ。駿人が瞠目しながらも、一際高い音を立てて白球を受け止める。その様を見届け、今度は深く息を吸った。 「お前のこと、好きだったよ」 想いは全て、今日ここに置いていく。 3月の末の風が吹く。山間の、小さな街の、広いグラウンドを春風が撫でていく。古びた校舎の割れたガラスも、軋むフェンスも、伸び始めた雑草も、もう廃墟すら無い雑貨屋の跡も、全て春風の中で眠りに着く。街の大人たちが決めたことに、既に大人である筈の自分たちの意思が介入出来なかったのは、自分たちがこの街を出た人間であるからに他ならない。 決定は覆らない。だから今日、自分たちはここに来た。 明日、この街はダムの底に沈む。 確かにボールを手に収めた駿人が不思議そうに首を傾ける。やがて嬉しげに口元を緩めると、地面を蹴って砂埃を巻き上げ、手の中のボールを紘へと返した。一張羅だと思しきパンツの裾が汚れているのが見えた。 「俺は今も昔も好きだけど?」 受け取ったボールを握り締め、紘はぱち、と目を瞬かせる。当たり前のように口にした駿人の少し弾んだ呼吸が紘の元へとやって来る。 「何で過去形なんだよ。紘」 寂しいだろ。呟き、駿人が少年のような目をして照れ臭そうに頬を緩めた。はしゃぐような声音に含む色は見当たらない。近くでさっと風が巻き上がり、水気のない乾いた砂が流されていく。不意に霞む視界に眉が寄る。砂埃が入っただろうかと目の下を拭うと、覚えのない水滴が指の背に着いた。

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