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第1話

「ごめんなさい! 今日の最下位は、さそり座の貴方!」 テレビから響くアナウンサーの声に、朝のコーヒーを飲んでいた手がピタリと止まる。 「今日は何をやっても駄目な日!滅多にないトラブル続出で大変な目に遭っちゃうかも〜」 朝の情報番組の最後に流れる、お決まりの星座占い。 明るい声音で読み上げられる負のワードの数々に、少々げんなりしながらコーヒーを飲み干す。 「そんな貴方のラッキーカラーはインディゴブルー!嫌なことがあっても、きっとこの色が貴方を助けてくれるはず!」 これまた絶妙に難しい色を指定されたな…と、飲み終えたカップや朝食の皿を流しに運びつつ、僕は小さな溜息を一つ吐いた。 まあ、そもそも星占いなんて大して信じちゃいない。 生まれた星の一つや二つで気分を乱高下させていてはキリがない…と自分の中のドライな一面が肩を竦める。 あっさりテレビの電源を落とし、僕、千生( ちせ )浩也(ひろや)は出勤準備に取り掛かった。 ——忘れがたい一日が、今まさに始まろうとしているとも知らないで……。 ********** 「もうっ…何でこんな事になったんだよ…!」 半分涙目になりながら、僕は会社への道を無我夢中で走っていた。まだ午前中だというのに、僕の革靴は既に悲鳴を上げている。 こうなったのも、まさに「滅多にないトラブル続出」のせいだった。 少々天然パーマ気味な髪が中々まとまらず、 家を出てから財布とスマホを忘れた事に気付き、 数本乗り過ごした電車が、事故で思いっきり遅延してしまったのだ。 その結果、僕はジャケットの裾やネクタイを翻しながら、半ベソで全力疾走する羽目になっている。 星占いって、やっぱ馬鹿にできないのか…!? もうやだ帰りたいと心の中で叫びつつも、なんとか、奇跡的に、始業五分前に会社が入っているビルに滑り込む。 するとちょうど良いタイミングで、一階エントランスにエレベーターが降りてきた。 僕の所属してる部署は六階。あれに乗ればギリギリ遅刻は免れる。どうやらやっと運が向いてきたようだ。 だが僕よりも先に、男性が一人、エレベーターに乗り込んで開閉ボタンを押そうとしているのが見えた。 その姿を視界に捉えた瞬間、思わず「そのエレベーター待った!」と叫ぶ。そして目の前で閉まりかけた扉に向かって、全速力でダッシュした。 間に合え…!と、ほぼジャンプしながら飛び込むのと同時に、後ろで静かにエレベーターの扉が閉じた。 ……なんとか、間に合った。 ハァハァと肩を大きく上下させながら、ここまで頑張った自分に全力でスタンディングオベーションを送る。 脳内で晴れやかにゴールテープを切っていると、 「…君、何階かな?」という耳心地の良いバリトンが隣から聴こえてきた。 振り向くと其処には、先にエレベーターに乗っていた男性が、至極落ち着いた様子で僕を見つめていた。 年齢は四十代ぐらいか。僕よりも目線一つ高い上背に、しっかりと筋肉の付いた身体付き。 黒い三つ揃いのスーツ姿で、いかにも仕事が出来る美丈夫という出立ちだ。 確か、どこかの部署の部長さんだったっけ…と記憶の海を必死にさらう。 この会社は部署ごとにフロアが分かれているが、僕がいる総務部は、他部署の社員と関わる機会が比較的多い。きっと何処かで顔を合わせた事があるのだろう。 「あ…六階を、お願いします」 フラフラと身体を起こしながら伝えると、頷いた部長が階数ボタンを押してくれた。 だが、次の瞬間。 ガコンッ!という嫌な音と共に、突然エレベーターが急停止する。 「えっ!?」 エレベーター内の照明が幾つか消え、一気に薄暗い空間が出来上がる。 「な、なに…何で……!?」 「……おそらくエレベーターの故障だろう」 慌てる僕とは正反対に、部長は冷静な態度を崩さないまま非常ボタンを押した。 幸い直ぐに警備室の人と電話が繋がり、部長が状況を説明し始めた……が、その間に僕は、キョロキョロとエレベーター内を見回してしまう。 ……このエレベーター、こんなに狭かったっけ…? 毎朝乗っている筈なのに、何だかいつもより小さな箱に閉じ込められている気がする。薄暗くて、狭い、縦長の小さな箱の中に。 それに、壁が四方から徐々に迫って来ているのは気のせいだろうか? 暗い無機質な壁が、自分に向かってじりじりと距離を詰めてきているように感じてならない。 ……なんだか、心なしか酸素も薄くなってきた気がする。深呼吸しようとしても、思うように息が肺に届かない。 落ち着け。 大丈夫だ。 怖い。 全身から血の気が引いていき、身体の端々が冷たくなっていく。 鞄を持っていない方の掌をギュッと握り締めるが、どうにも震えが止まらない。 なるべく空間を意識しないよう、俯いて瞼をキツく閉じる。 「…どうやら大した故障ではないようだ。このままなら直ぐに動く筈……って、きみ大丈夫か?」 警備室との通話を終えた部長が、僕の異変に気付く。 「震えてるじゃないか……具合でも悪いのか?」 「い、いえ…大した事、ないんですけど……その、暗くて狭い空間が、ちょっと苦手、で……」 人間誰しも、他人にはあまり言えない秘密を幾つか抱えているものだろう。 僕にも二つほどある。 その一つ目の秘密が、閉所恐怖症だ。 子供の頃、誤って納戸から何時間も出られなくなったのがきっかけで、暗くて狭い場所がダメになってしまったのである。 普段のエレベーターなら大丈夫だけど、其処に暗さがプラスされてしまうと、どうにも震えが止まらない。 やっぱり、今日は最低な日だ……。 瞼を閉じ、拳を握りながら恐怖に耐えていると、不意に直ぐ隣から声が聞こえてきた。 「…そんなに強く握ったら、爪で掌を傷付けてしまう」 ふわり、と僕の手の甲に部長の掌が触れた。 「大丈夫。ここは安全だ」 掌から伝わるぬくもりと、鼓膜を震わせる優しい響きに、思わず僕は俯いていた顔を上げる。 その瞬間。 薄暗い箱の中でも分かるほど、真っ直ぐ自分を見つめる視線とかち合った。 「ッ…!」 その瞳の力強さに、思わず息を呑む。 僕よりも少し高い位置にある、切れ長の瞳から注がれる真摯な視線に、ぞくり…と甘い痺れが走る。 「…君の名前は?」 「え……」 「君の名前を、教えてくれないか?」 柔らかな声で再び囁かれ、僕はおずおずと「ち、千生…浩也、です……」と答える。 それを聞いた部長は、フッと口許を緩めた。 「大丈夫だ、浩也」 部長の大きな掌が、優しく、丁寧に、僕の震える拳を包み込む。 「何も心配しなくて良い……俺が、側にいる」 手の甲から伝わってくる暖かさに、握っていた拳の力が徐々に緩み始め、震えもおさまってきた。 僕は、ゆっくりと拳を解いてみる。 そして伸び始めた自分の指先を、部長のと触れ合わせた瞬間。 ぬくもりが、ハッキリとした熱に変わるのを感じた。 部長の体温と交じり合い、さっきまで冷たかった僕の指先が、暖かさを取り戻していく。 「そう、その調子だ。浩也…」 形の良い唇から紡がれる声に導かれ、僕は掌を完全に解放し、部長の指先を受け入れていた。 部長の指が、指の股を通り僕の掌に触れてくる。 今や僕たちは、しっかりと指を絡ませ合っていた。 もはや恐怖による緊張は溶け消えて、部長から香ってくるコロンに漸く気付くまでの余裕も出てきた。 なんだか少し辛みを感じさせる香りが、鼻腔を擽っていく。 僕は次第に、別の意味で緊張し始めていた。 この狭い空間の中で、目の前にいる男性の全てが、五感を通して自分の中に流れ込んでくる。 刺激的な情報たちは全身を駆け巡り、怯えて冷え切っていた筈の僕の身体を熱くさせ始めていた。 こんなの、知らない……。 心臓がいつもより早く、大きく鼓動を脈打つ。 こんな感覚、今までに味わった事がない。 まさかこれは、よく漫画や小説で見かける「あの瞬間」なのか? でも、僕に限ってそんな事あり得ない…… だって僕は、生まれてこの方、「恋」をしたことが無いのだから。 そう、僕のもう一つの秘密。 それは俗に言う、恋人いない歴=年齢という事だった。 決して自慢じゃないが、顔は悪くない。友達もそこそこ多い。成績もまあまあ。運動もできる。 その為、学生時代に女の子と何度かデートをした経験は有ったけれど、正直ときめきのような物を感じたことは一度も無かった。 男性相手でもそうだ。たまに声を掛けられ、「それっぽい」雰囲気で誘われる事が何度かあったが、結局友達として遊んでいる感覚とほぼ変わらなかった。 そして相手のことを考えてドキドキしたり、一喜一憂する経験のないまま、あれよあれよと三十余年。 もうこの先、運命の相手に巡り合うなんて事は起きないんだろうなぁ…とぼんやり思っていた。 そんな僕が。 朝から不幸の連続に見舞われる中で。 遂に出逢ってしまったのだ、運命の相手とやらと。 これまでは、胸がドキドキしたり頬が熱くなる…なんて感覚は、僕にとって他人事以外の何物でもなかったし、ともすればフィクションと同じだった。 誰かの身体に触れたり、触れられたりしても、何の感情も起きない。 それが、僕にとっての「普通」だったのだ。 でも、今は違う。 部長に掌を触れられて胸がドキドキしっぱなしだし、名前を呼ばれると何だか頬がカァ…っと熱くなる。 さっきまであんなに怖がっていたというのに、今はこの場所が薄暗くて良かったと思うほどだった。 だがふと、自分の中の冷静な一面が顔を覗かせる。 もしかしたらこれは、吊り橋効果ってやつなのかもしれない、と。 吊り橋効果…「危険な状況に陥った時、一緒にいる相手を好きだと思ってしまう」という、いわゆる錯覚状態のことだ。 実際、今の僕たちはワイヤーに吊られた箱の中にいるわけだし、恐怖から来る感情を恋愛感情に変換してしまってもおかしくない。 ……でも僕は、ただパニックになったから彼に好意を持ったわけじゃなかった。 もし吊り橋から落ちそうになっても、「この人なら助けてくれる」という安心感も感じていた。 この人になら、全てを委ねたいし、委ねられたい。 咄嗟にそう思ったのである。 きっかけは錯覚だったのかもしれないけれど、 この胸の高鳴りは本物だ。 もっと彼の事を知りたい。もっと近付きたい…と指先に力を込めようとした瞬間。 再びゴウンッ!と大きな音を立ててエレベーターが動き始め、照明も元に戻っていった。 「良かった。どうやら直ったみたいだな」と部長が微笑む。 室内が明るくなり僕もようやくホッとしたが、同時に繋いでいる掌もハッキリと視認してしまい、途端に恥ずかしさが込み上げてきた。 「あっ、あの、すみませんでした…!」 僕は慌てて絡めていた指を解く。 一瞬、部長が少し名残惜しげな表情を浮かべたように見えたが、多分僕の気のせいだと思う。 「あぁ、いや…むしろ、俺の方こそ悪かったな。突然手を握ったりなんかして……」 部長が苦笑していると、エレベーターの扉が開いた。 「おっと。俺はこの階なんだが……君も、降りて少し休んでいくか?」 「あ…いえ…もう大丈夫です……お騒がせして申し訳ありませんでした」 改めてもう一度頭を深く下げる。 「ありがとうございました……えっと、」 お礼を言おうと思ったが、そういえばまだ彼の名前を思い出していなかった。 確か彼は…何処かの部署の……そうだ、営業部の部長で…… 「藍川だ」 部長は上着のポケットから「藍川(あいかわ)玲司(れいじ)」と書かれたストラップ付きの社員証を取り出し、僕に見えるように掲げた。 「じゃあな、千生……さっきのは俺たちだけの秘密、って事で」 ストラップを首に掛けながら小さなウィンクを一つ残し、部長は何事も無かったかのように颯爽と歩き去ってしまった。 ぽかん、と立ち尽くした僕の頭の中で、朝の情報番組の占い結果がリフレインする。 「今日のラッキーカラーはインディゴブルー!」 デニム生地などにもよく使われているこの色は、日本語では普通こう呼ばれる事が多い。 藍色、と。 部長が去り、エレベーターの扉が再び静かに閉まる。 僕は思わず、掌で顔を覆いながら壁に寄り掛かった。 「藍川、部長……」 心臓の音が、まだ身体の中で大きく響いている。 この原因は、さっきエレベーターに滑り込もうと走ったせいでも、小さな箱の中に閉じ込められたせいでもない。 全部、部長のせいだ。 僕の初めての恋が、インディゴブルーの吊り橋の上で、今まさに始まろうとしていた……。 END

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