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パッション・ブルー
あの日見たのも、鮮やかで綺麗な青だった。
期待とちょっぴりの緊張を新しい制服の下に仕舞い込んで、深呼吸をする。ざわつく昇降口の人だかりの前には、ずらりと新入生の名前を書いた紙が貼られていた。背伸びをして、人の頭の間から目的の文字列を探す。
(浅野夏生 ……、お、一年二組)
すぐに自分の名前を見つけ、夏生は気合いを入れ直して教室に足を向けた。地元の中学に上がった時とは違い、周りは知らない人だらけ。一年二組の扉に手をかけて、平静を取り繕ってから教室に一歩踏み入れる。そのまま自分の席を探してカバンを下ろして、それから隣の人に声をかける――はずだった、のに。
(うわ、)
扉を開けた姿勢のまま、夏生は固まってしまった。理由は、すぐ目の前にいた金髪青メッシュの男。同性でもドキリとしてしまうような整った顔立ちに、すらりと長い手足。ダサい制服ですら、彼が着れば学園ドラマの衣装のようだ。どこのアイドルなのかと疑いたくもなる。現に、周りの女子たちがちらちらと彼のことを見ては頬を染めていた。ぽかんとしたままでいると、後ろから来た人が申し訳なさそうに横をすり抜けていく。
(やべ、早く座らなきゃ)
座席表を見れば、どうやらアイドルくんの前の席らしい。綾瀬麗司 、だなんて、名前までアイドルじゃないか。一体どんな奴なんだろう、と思いながらそそくさと席に着く。そうして、挨拶くらいしておこうか、と振り返った瞬間だった。
「えっ、男?」
やたら聞き心地の良い声が鼓膜を震わせる。その声の出処が麗司であることに気付くのに、ワンテンポ遅れた。ぽかんとする夏生に構わず、麗司は一方的に言葉を続ける。
「なつきちゃんだと思ったのに。違うの?」
「……あさの、なつお、ですけど」
「そっかー、残念。可愛い女の子じゃなくて、可愛い男の子だったかー」
「……」
けらけらと笑う麗司に、言いようのない怒りが込み上げてくる。今までの人生で『夏生』を『なつき』と読まれることは多々あった。だけど、面と向かって、しかも初対面でバカにされたのは初めてのこと。頭の中でぷつりと何かが切れる。
「……くせに、」
「ん?」
「お前だって、頭に青カビ生えてるくせに!バーカ!」
勢いと共に飛び出した暴言に、クラス中が水を打ったように静まり返る。だけどすぐに、麗司の笑い声が気まずい空気を置き換えてしまった。
「あっ、青カビ……!めっちゃウケる、やば、なつきちゃんマジでいいキャラしてる!」
「なっ……!?っていうかなつきじゃねーし!」
反論する夏生をものともせず、麗司は腹を抱えて一通り笑い転げる。やたら整ったビジュアルが、余計にイライラを増幅させるようだ。
(最っ悪だ……!)
まだ吐き出せないもやつきを抱えたまま、夏生は自分の席へと座った。思い描いていた高校生活の第一歩は、こんな出だしじゃなかったはずなのに。
一生、恨んでやる。密かに決意して、夏生は思い切り机に突っ伏した。
気が進まなくても、次の日というものは平然とやってくる。昨日のもやもやが後を引いて眠れなくて、高校生活二日目なのに寝不足極まりない。だからといって二度寝したら遅刻しそうで、夏生はまだ朝陽が差し込み始めたばかりのタイミングで学校に到着してしまっていた。
(あいつと少なくとも一年は同クラなのかよ……)
昨日のやりとりを思い出すだけでげんなりする。これはもう、早く席替えイベントが来ることを期待するしかない。そうして、できるだけ関わらず穏便にクラス替えを迎えたい。
そんなささやかな夏生の願いは、教室に着いた途端に塵と消えた。
「げっ、」
「おはよ、なつおちゃん」
早いね、と眩しすぎる笑顔を向けてきたのは、他でもない麗司だった。不機嫌を露わにする夏生に構わず、麗司は話を続けてくる。
「昨日はごめんね。俺も緊張して何を話していいか分からなくて、変なこと言った」
「……おぅ」
「これはお詫びの印。甘いもの苦手だったら、明日別のもの買ってくるけど」
「……」
一転して、怒られるのを待つ子供みたいな顔をする麗司。その手には可愛らしいパッケージのチョコレートがあった。次の日にしっかり謝ってくるなんて、意外といい奴なのだろうか。夏生は少し迷って、無言でチョコレートを受け取る。どちらにせよ、チョコレートに罪は一つもない。
「……ま、これからちゃんと呼んでくれたら、許す」
「本当?」
伺うように見ていた麗司の顔が、ぱっと華やぐ。女の子なら、うっかり倒れてしまいそうなイケメンスマイル。直視できなくて目を泳がせると、ふと麗司のカバンから飛び出している冊子が目についた。
「えっ?」
「どうかしたの、夏生ちゃん?」
「ちゃん、はやめろよ。あのさ、綾瀬って、バンドとかやってるの?」
夏生の問いかけに、麗司はあぁ、と合点がいったように呟いて冊子を手にした。分厚い冊子の表紙には『バンドスコア』の文字と、インディーズからメジャーデビューしたばかりのバンド名が書かれている。
「コピバンだし、俺は楽器できないから歌うだけだし。大したことないよ」
「ボーカルってこと?すげー!なぁ、綾瀬ってさ、そのバンド好きなの?」
「うん。インディーズの頃から追ってる」
「マジで?俺も!メジャーデビュー曲もだけどさ、俺、去年の夏に限定で出してたやつが好き。男の情熱って感じでさ」
「あ、分かる。ラブソングだけどさっぱりしてて、夏らしい勢いがあるよね」
「そうそう!」
人というものは、ここまで単純だっただろうか。好きなものが一致しただけなのに、すっかり警戒心やら嫌悪感が溶けて消えていく。クラスメイトが登校してきたのにも関わらず夢中で話しているうちに、麗司が思いついたように言った。
「そうだ、夏生ちゃん」
「ちゃん、はやめろ……って、もういいや。何?」
夏生の言葉に、麗司は少し頬を染めた。窓から差し込む朝陽が眩しい。
「今度、初ライブがあるんだ」
「ライブ?」
「っていっても、ライブハウスのイベントだから発表会みたいなノリだけどね。チケットあげるから来てくれる?」
一時間前の自分だったら、即刻却下していたであろう申し出。夏生は麗司の瞳をじっと見据えた。その表情は真剣で、茶化すような雰囲気は一切感じられない。またちょっぴり迷ったふりをして、夏生はひとつ頷いた。
「忘れなければ、行く」
「本当?やった!」
飛び上がらんばかりの勢いで、麗司が乗り出してくる。青色のメッシュが光を吸い込んでキラキラしていて、夏生はそっと目を伏せた。
「……ここか、」
チケットに書かれたライブハウス名と看板を見比べる。会っていることを確認して、夏生は重い扉へと手を掛けた。建物の中に一歩入ると、途端に異空間に放り込まれたような錯覚がする。カウンターには、スタッフだろう派手な格好をした女性が気怠そうに立っていた。
「今日は?」
「えっと……ロックフォールで」
麗司に教えられた通りに彼のバンド名を伝え、チケットを渡す。スタッフはさして興味もなさそうにチケットを確認して、半券を寄越してきた。
「どーぞ。ドリンクはあっち、未成年はアルコールだめだからねー」
ひらひらと手を振ってみせるスタッフに形ばかりの会釈をして、夏生はドリンクカウンターでプラスチックカップ入りのコーラを受け取った。開演ギリギリのせいか、フロアは意外と人で埋まっている。なんとかステージが見渡せる場所に滑りこんで、夏生はひとつ息を吐いた。知り合いが出演するライブなんて初めてで、なんだか演者よりも緊張している気がする。なんとなく落ち着かないままでいると、一気に照明が暗くなった。すぐに、一組目のバンドがステージに上がってくる。緊張とは違う高揚感が、じわじわと全身を包んでゆく。
(……わ、)
ドラムスティックのカウントが、軽快に響く。合図のように、スポットライトがステージを照らし上げる。続けざまに飛び込んでくるのは、音の洪水と力強い歌声。その声の出処は、他でもない麗司で。
「やば、」
思わず本心が口をつく。こんなに格好良いだなんて、聞いてない。声が良いとは思っていたけれど、歌声になってさらに迫力も深みも増している。黒をベースにした細身の服は、麗司の整った身体を引き立たせているし、青メッシュ入りの金髪にも映える。
これがクラスメイトだなんて、夢でも見ているのだろうか。ただただ圧倒されているうちに、一曲目はあっさりと終わってしまった。
「こんにちは、ロックフォールです!」
MCが聞こえてきて、はっと意識を取り戻す。MC担当は麗司とギターの人の二人らしい。
「そういえば、やっとバンド名が決まったんですよ」
「そうそう。麗司のおかげで『チバンド』改め『ロックフォール』になりました。何か意味でもあるんですかね、麗司さん?」
麗司がバンド名を決めたのか。なるほどな、と思いながら手元のコーラを口にする。ようやくステージを見る余裕ができてきた、なんて思ったのは一瞬だった。
「俺、高校の入学式の日に『頭に青カビが生えてる』って言われたんですよ」
「!?」
飲んでいたコーラを吹き出しそうになって、すんでのところで押しとどめた。むせそうになるのをこらえながら、なんとか平静を装おうとする。
「青カビってその髪色ね。良いセンスしてるねー、その子」
「でしょ?その子が可愛くて一生忘れたくないから、どこかに青カビ要素がほしくて」
「ほうほう、それで?」
「世界三大ブルーチーズのひとつ、Roquefortからバンド名をいただきました!」
わっ、と沸き立つフロアに、ドラムロールの音。比例するように、夏生の心拍も加速する。
(一生忘れたくない、って、バカじゃねーの!?)
これじゃあ、まるで告白じゃないか。こんな場所で、不特定多数に宣言するように。
頬の熱を冷ますように、コーラを一気飲みする。少し抜けかけた炭酸の泡が、ぱちぱちと喉を滑り落ちてゆく。
もう一度、ステージを見る。ぱちり、麗司と目が合った、気がした。すぐに、麗司はウィンクを投げてくる。
「恋ですか、麗司さん」
「内緒ですよ、千葉くん」
「我がバンドメンバーとしても見守りたいところですね!じゃ、次、いきましょうか!」
「これから夏がやってきますね。夏といえば青い海と空。そんな季節にぴったりの一曲です」
麗司がフロアの一点をじっと見た。夏生がそこにいることを、確信したような目で。
「聴いて下さい。『パッション・ブルー』」
どん、と後ろから刺されたようだった。これは、麗司からの宣戦布告。あの日好きだと言った限定の曲。夏の情熱の、ラブソング。
(なんなんだよ……!)
もう、楽器の音も周りのざわめきも、麗司の歌声ですら遠い。自分の心音が、一番の大音量で耳の奥をかき回している。これは、なんだ。ひとつだけ分かるのは、恋という単語を聞いても少しも嫌悪感を覚えなかったこと。
「……青カビ野郎、」
受けて立とうじゃないか。恋というものを良く分かっていない俺が相手だ、覚悟しろ。
コップに残った氷をひとつ、口の中で噛み砕く。次に会う時は、どんな顔をして話しかけてやろうか。ぼんやり思いながら、夏生はうっすらコーラの味が残る氷を飲み込んでステージを見上げる。
鮮やかな青の照明越しの麗司は、やっぱり綺麗だった。
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