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ええもん、見つけたで
つーむぎーっ。迎えに来たでーっ。
毎朝の大声はドアが閉まっていてもよく聞こえた。恭介のこの声が聞きたいたがために、先回りして家の前で待つようなことはあえてしなかった。それから二人で後になり先になりして登校する。恭介のランドセルは被せの蓋がきちんと閉まっていた試しがなくて、いつもパカパカしていた。うっかり「気になる何か」を見つけ体を曲げて覗きこもうものなら、中身が全部道路にぶちまかれたりもした。恭介はしょっちゅう「気になる何か」を見つけては、そのたびに「紡 、ええもん見つけたで」ととびきりの笑顔を見せてくれた。僕はその笑顔が大好きだった。彼と発見を共有するのも楽しくてならなかった。その楽しみのためなら、彼がぶちまけた教科書やら筆箱やらを拾ってやるぐらい、何の苦でもなかった。
下校のときもそうだ。通学路の途中にある倉敷さん家 は、当時の僕たちの知る限りのいちばんのお金持ちで、邸宅の周りはぐるりと鉄柵が囲んでいた。道路を渡れば倉敷家の敷地、という場所に差し掛かったとき、手に傘があれば、恭介は決まってそれを横一文字に構えた。
――カンカンカンカンカンカンカンカン
傘の先が鉄柵を打つ音がけたたましく鳴り響くと、倉敷家のトーストも負けじと吠える。トーストというのは、その黄金色の毛色から僕らが勝手につけたあだ名で、倉敷家で飼われているゴールデンレトリバーのことだ。
――カカンカンカカカンカンカカン
途中から僕も参加することもある。恭介と息を合わせてぴったり同じリズムになるようにしたり、あえて歩く速度を変えて不規則なリズムを楽しんだりもした。
「やかましわっ」
上のほうから怒鳴られることもたまにある。倉敷さんの家の人ではなく、向かいのアパートの二階の住人だ。四〇歳ぐらいに見える男の人で、すごく痩せてて髪の毛も伸ばし放題で眼鏡をかけていて首元が伸びきったTシャツを着ている。平日、小学生の下校時間に在宅しているこの奇妙なおじさんのことを、僕たちは「ガリゴッド」と呼んでいた。ガリはその体型から、ゴッドは特に意味はない。恭介が、あいつ貧乏神みたいや、とか言ったせいだった気もする。
恭介の揺れるランドセルを見ながら、カンカンカンカン言わせたり吠えられたり怒鳴られたりしながら帰る雨上がりの通学路が、僕は大好きだった。
「あとでカバ公園、来てな?」
分かれ道に来ると、恭介が言った。カバ公園は砂場にカバを模したオブジェがある公園で、遊具らしい遊具はそれと鉄棒と滑り台ぐらいしかない。僕らはもう小学校も高学年で、それらの遊具で遊ぶことはほぼない。だからカバ公園に行こう、というのは、ゲーム機を持ち寄って対戦しよう、という意味だった。ところが、その日に限って恭介はこう続けたのだ。
「ゲーム機は要らんよ」
「え、なんで?」
「ええから」
腑に落ちないながらも、僕は頷いた。
一度家に帰って玄関先にランドセルを放り、みかん箱からみかんを三つ四つ出してズボンの左右のポケットに詰め込んだ。小ぶりのみかんとは言え、それだけ入れるとポケットは不格好に膨らんだが気にしない。カバ公園に行くと恭介は滑り台のてっぺんにいた。僕もそこに向かったほうがいいのかと思って足を出すと、恭介はするすると滑り降りてきた。
「みかん、食べる?」
僕はまずは右のポケットから二個出した。
「なんでみかんや」
そう言いながらも恭介は受け取り、立ったまますぐに皮を剥き、むしゃむしゃと食べた。僕も同じように立ったまま食べた。
「あかん、手、汚れてしもた」
普段はそんな汚れはズボンのお尻で拭いて終わりにする恭介だった。珍しいこともあるものだと思いながらも、僕も一緒に水飲み場へ行き、手を洗う。水で洗った手は、いつものようにズボンのお尻で拭く恭介を見て、水ならいいのか、と、僕はぼんやり思った。
それから恭介はトコトコとベンチに向かって座ったから、僕はその隣に座った。
「あんな、紡。俺な、引っ越すんや」
「えっ?」
「父ちゃんの仕事の都合やて」
「い、いつ」
「三月入ったらすぐ」
「三月て、すぐやん」
「ほんまは卒業式終わって、春休みの予定やってん。けど、早まってしもうて」
「そや、卒業式はどうするん」
「それはこっちの学校や。卒業式の日だけいっぺん戻って、入学式はあっちの中学やて」
「あっちて、遠いん?」
「うん。……横浜やて」
「横浜て、横浜か。東京、とちゃうな、神奈川の」
「その横浜や」
「……三月て、すぐやん」
僕は繰り返した。もう二月も半ばを過ぎていたし、そんな話はそれまでひとつも出たことがなかったのだ。まさに青天の霹靂だった。
「ほんでな、これ」
恭介はポケットから何かを取り出した。みかんではない。手紙のようだ。呆気にとられたまま僕はそれを受け取る。封筒は僕らがいつも遊んでいるゲームのキャラクターのもので、同じキャラのシールで封がされていた。爪の先でシールを剥がそうとすると恭介が慌てて止めた。
「あとで読んでや。いや、俺いなくなったあと。卒業式のあと」
「なんで」
「恥ずかしやん」
「恥ずかしいこと書いてあるんか。紡大好きやでーとか、一生忘れんといてーとか」
僕はショックと淋しさと悲しみを紛らわせるように、わざと明るく言った。
「そや。熱烈なラブレターや。そやから、あとにして」
恭介も笑って言った。
「分かったわ」
僕は手紙を左のポケットに入れようとして、そこにまだみかんがあることを思い出した。まずはみかんを取り出して、空いたところに手紙を、一応はなるべくくしゃくしゃにならないように気を付けながら突っ込んだ。
「みかん食べるか」
「なんでまたみかんなん」恭介は笑った。笑って、目尻を拭った。「あかん、笑い過ぎて涙出てきた」
「僕もや」
大笑いには程遠かったけれど、僕らは止まらない"笑い涙"を拭った。
正直に言うと、僕はその「俺がいなくなったあと」に読んでほしいと言われた手紙を、家に帰るなりすぐに開封して読んだのだった。
◇◇◇
紡へ。
急に引っ越すことになってごめん。
紡と離れるんは嫌やったし、俺はばあちゃんちに残ると頼んだけどアカンて言われた。
父ちゃんの会社は横浜が本社で、クビにでもならん限りはこっちに戻ることはないんやて。
けど高校卒業したら好きにしてええって言うから、高校卒業したら紡のこと迎えに行くから待っててな。
手紙書くかは分からん。この手紙もここまで書くのにめちゃくちゃ時間かかった。
でも紡は書いてくれてええで。住所分かったら教える。
紡ずっと大好きやで。
絶対絶対俺のこと忘れんとってな。俺も忘れんからな。
◇◇◇
確かにそれは「熱烈なラブレター」だった。少なくとも僕にとってはそうだった。
大切にしまいこみ、それからの六年間、片時も忘れないほどに、大事な宝物だった。
小学校の卒業式の日、僕は恭介と顔を会わせたが、既に手紙を読んだことは隠し通した。それを言ったら、彼が約束を守ってくれなくなってしまう気がしたからだ。
――高校卒業したら紡のこと迎えに行くから待っててな。
その約束だけが、まだ幼かった僕の頼みの綱だった。
だからその日も、ほかの級友たちと同じように、ただ笑って「元気でな」と言っただけだった。
僕は中学に上がった。一年経っても恭介からの手紙は予告通り一通も来なかったし、実のところ僕からも手紙を書くことはなかった。その間に僕らはスマホという強力なツールを手に入れていたからだ。新しい環境の話題に始まり、日常の他愛ない雑談を時折思い出したように取り交わした。ただ、僕らの間では暗黙の了解のように避けていた話題があった。
恋愛のこと。
ムカつく級友がいる話や、ちょっと変わった先輩の面白ネタ、親の干渉の愚痴なんかも言い合っていたのに、恋愛に絡む話だけはしなかった。
高校に入ってからもそれは変わらなかったが、メッセージをやりとりする頻度は随分と下がっていて、始まりはいつも「久しぶり、元気?」になっていた。
だから、高三になってから届いた恭介からのメッセージが「好きな子ができた」で始まっていたとき、僕は激しく動揺して、スマホを落としそうになった。
[ 好きな子ができたから、うまく行くよう協力してくれって友達に言われたんだけど、協力って何すればいいと思う? ]
続きを読んで、ホッとした。そのあとホッとする自分にびっくりした。――恭介に「好きな子ができた」って、ちっともおかしくないのに。
だいたい「恋愛のことは話題にしないのが暗黙の了解」だなんて、僕がそう勝手に思っているだけなのだ。その手の話題が上がってこなかったのは、単にそういうことが彼の身の上に起きていなかっただけかもしれない。というか、そう考えるのが普通だろう。
[ 恭介に彼女がいるならダブルデートっぽいことしてあげるとか? ]
僕はそんな返事を送ってみる。もちろん、「恭介の友達」なんかはどうでもいい。聞きたいのは恭介の彼女の有無だ。
[ 彼女がいたらこんな相談せん ]
爆笑マークをいくつもつけた返事が返ってきた。そしてまた、ホッとする。
そろそろ僕は認めなくてはならない。
彼女はいないと聞いてホッとするのは、恭介に先を越されていないことが分かったからじゃない。恭介が僕以外の誰かのものになってほしくないからだ。
つまり、これは。この感情というのは。
「こんなん知ったら、さすがに引くよな」
僕は独り言を呟く。この行為自体が我ながらキモくて引いてしまうのだけれど、仕方がない。
――紡ずっと大好きやで。
――絶対絶対俺のこと忘れんとってな。俺も忘れんからな。
恭介、僕かてずっと大好きや。今もや。忘れるわけあるか。
忘れられたらええな、そう思ったことはなんべんもあるけどな。
そやけど無理やった。あかんねん。おまえやないと、僕はあかんねん。
――高校卒業したら紡のこと迎えに行くから待っててな。
あの約束、まだ有効なん。
あと半年もすればその「高校卒業」やで。
そんなことを考えていたら、恭介から続きのメッセージが届いた。
[ そもそも彼女ってなんや 俺にはおまえがおるやんけ あの手紙のこと忘れたんか ]
僕は腰が抜ける、という体験を初めてした。
「は……はは……」
あの日と同じに、涙が溢れて止まらなくなった。ただ、今度こそ本当の「笑い涙」だ。
[ 忘れるか あほ そういうことは早よ言えや ]
僕は泣きながらそんな返事をする。
[ そっちやろ 俺はとっくに言うたわ ][紡、大好きやで、て ][ 次は紡の番やろ ]
[ そやったな ほな今言うわ ]
「僕も大好きやで」
送信と同時に同じ言葉を口に出してみた。
それから半年後のことだ。
僕らは一緒にアパートを見上げた。明日から一緒に住む部屋。
そのひと月前、恭介は突然僕の前に現れ、かつて彼が毎朝学校に誘うときのように――いや、あのときのような大声ではないけれど――言ったのだ。
「紡、迎えに来たで」
最後に会った時より二〇センチは背が伸びて、精悍な青年になった恭介は、それでも昔と同じ笑顔だった。
彼は美容師を目指して春からは専門学校生、僕は大学生になる。
「紡は家からも通えるかもしれへんけど、良かったら一緒に暮らさへんか」
その言葉に僕は一も二もなく頷いた。ちょうど春には姉が出産を機に実家で同居したいと言い出していて、親からは独り立ちを促されてもいた。
「実はな、ええ物件、一個見つけてあるんや。紡さえ気に入ったらそこにしよ、て」
恭介の発見はいつだって楽しいのだ。見る前から僕はそこに住むと決めていた。が、実際そのアパートを見ると想像以上だった。
「こ、これ、ガリゴッドの」
「そや。あんな、ガリゴッドて漫画家やってん。知らんかったやろ? 去年めちゃめちゃ売れたアニメあったやろ、あれの原作描いたんやて。えらい儲けて、ここ出てったらしいわ。縁起がええ部屋やろ」
「トーストもよう見える。あいつも年取ったんやな、よう寝てるわ」
僕らの部屋は二階で、オープン外構にリフォームされた倉敷邸の前庭がよく見えた。そこには今もトーストがいる。ただ、カンカン言わせた鉄柵はない。
「ほな、春からよろしく頼むわ」
「こっちこそ」
「……大好きやで、紡」
「僕もや」
あの日の恭介の手紙は、こっそり引っ越し荷物に紛れ込ませておいた。
近いうち彼はそれを見つけるだろう。そしてまたあの笑顔を僕に見せてくれるのだろう。
「紡、ええもん見つけたで!」
【おわり】
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