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白都くんのくびったけ
野口彩という名前の第一印象は最悪だった。
黒板に張り出されている座席表と名簿にもう一度目を通す。やっぱり俺の隣の席は野口彩で間違いない。
ノグチアヤ。
女子か。
心の中でため息を吐いた。
HRが始まる時点で既に十三人の女子と連絡先を交換している。入学式まで時間があるし、まだ増えるに違いない。
今も席に座っているだけなのに四、五人の女子に囲まれていた。
「白都くんって噂通りの王子様だね」
返事の代わりに照れたようにはにかむと、女子は夢を見るような顔をする。
俺に夢を馳せるのやめて欲しい。見せてんのは俺だけど。
「彼女いるの?」
「募集中なんだ」
女子がにわかに色めき立つ。
実際は好きな子とかいたことないけど。
「好きな食べ物ってなに?」
「チョコレート、かな」
これはラッキーな質問。一月下旬から二月上旬にかけて問い合わせが殺到するから先手打っとく。本当は梅干し。じいちゃんが漬けたやつ。
「好きなタイプは?」
「思いやりがある優しい人が好きだな」
俺を王子様なんて言わない人がいい。
「今日一緒に帰ろ」
「ずるい! あたしも」
「エミは方向逆じゃん」
いやなんで俺の家の方角知ってんだよ。
「いいよ、みんなで帰ろう」
偏差値70以上の高校だから、入学したら女子との関わりも変わるかなって思ったけど。
結局何も変わらないんだ。
毎日、退屈。
みんな期待しすぎ。全然俺、王子様なんかじゃない。だけど期待とか羨望とか、されると応えようとしてしまう。自分も嫌。
見るもの全部が憎たらしくなる時がある。
なんか褪せてる。
今日もまた遠回りかーなんて思いながら、隣の席のノグチアヤが来る気配がないことが気になった。周りに話題にする人もいない。
結局ノグチアヤは放課後になっても来なかった。尚更彼女がどんな人物なのか気になる。
女子全員、家の近くまで送り届けた頃には夕方になっていた。うんざりする。
一人で歩くと余計に通り過ぎる人の視線が痛い。それなりに都会だから人も多い。何回か声も掛けられた。中学の頃はそこまであからさまじゃなかったから、多分、制服のせい。
俺ってそんなに王子様なのかな。なんか虚しい。
ショーウィンドウに映る自分を見ながら歩いていたら、ゲーセンのディスプレイが目に入った。小さなクレーンゲームの中に、マスコットが詰め込まれている。その中にいる梅干しのゆるキャラに目が行った。いい具合にブサイクでダサくて可愛い。王子様的にはまず身に付け難いと思いつつも、百円を入れてやってみた。
全然取れない。
さっきまでの虚しさも相まって、半ば自棄になって小銭を貢いでいたら 、横から声がした。
「ヘタクソ」
慣れない暴言に頭が凍りつく。
声の方へ顔を向けた時には、お金の投入口に百円を入れられていた。
「……は?」
目に入った横顔はいかにも不良、って感じだ。髪は明るくて、なんかトゲトゲしてる。目つきも鋭くて、狼みたいだった。歳は俺と同じくらいに感じるけど、よく見れば垢抜けていて大人っぽくもある。ともあれ、俺には全く無縁のタイプだと思う。
彼の横顔は少しも俺に向いていない。ケースの向こうの獲物を真っ直ぐ射抜いている。俺の顔面に無関心な反応が新鮮で胸が騒ぐ。逆に俺が彼の真剣で怜悧な視線に釘付けになってしまった。
言葉をかけるのも憚られるような緊張感と、彼の少し苦い、張り詰めたグレープフルーツみたいな香水の香りが混ざり合う。どきどきする。
「タグに引っ掛けるんだよ、ヘタクソ」
彼は呆れたように呟いて、取ったマスコットを俺に見せびらかしてきた。狙ってたやつだ。笑顔は雰囲気とは裏腹に愛嬌があって幼い子どものそれと似ている。
呆気にとられている俺をよそに、彼は俺の胸元に顔を近付けてきた。
「……名札外さないなんて不用心なヤツ……シラト……」
咄嗟に名札を隠したけど遅かった。
顔を上げた彼は、鋭い目を細めて笑う。
「キョースケ」
どく、と耳元で音がした。
鼻の奥から胸の先まで、血が巡って心臓を圧迫している。
拍動のせいで、視界が震えていた。
なんだこれ?
なんだこれなんだこれ?
彼が俺に一歩近付く。背が俺よりずっと高くて、たったの一歩で簡単に距離を詰められた。
動けない。
耳元に顔が近付いてくる。
……なに?
全然、体が動かない。脚に感覚がない。
「N高の、お勉強はできてもゲームがヘタクソなキョースケクン」
ぐさ、と言葉が胸に刺さった。
思考がぐちゃぐちゃで、何を言われているのか分からなかった。でも鼻についたことは感じる。無防備に個人情報を晒している俺と違って、彼は所属の糸口になるようなものを身に付けていない。それが更に癪。
「横取りすんな! バーカ!」
不満をぶつけるように叫んで彼を睨みつけると、彼は目を丸くした。
「想像以上に暴言が幼稚で新鮮だわ」
「話を逸らすな!」
そう言いつつも冷ややかに自分を客観視する俺もいる。こんな言葉遣い王子様はしない。落ち着こうと思っても、熱くなる体とか気持ちとかが全然冷えない。
安い挑発にも乗ってしまうほど心が乱れているのを感じる。
「良い子は家帰って勉強して寝てろ」
背中を押された。触れられる感覚にびく、と体が跳ねる。体の力が抜けそうになって、されるがまま店先へ追い出された。
「じゃあな」
ひらひらと手を振りながら街角に消えていく彼の姿をずっと見ていた。
なんか複雑だったけど、若干晴れやかでもある。
よく分からん。
落ち着いてから鞄を持ち直すと、先程彼に横取りされたはずのマスコットが付いている。思わず二度見した。どこかのタイミングで付けられたんだと思う。
いつの間に……?
なにもかもしてやられたという気持ちと、一度も感じたことがない感情に翻弄されている。
今自分は平常じゃない。
家帰って勉強して寝よ、と思った。
*
翌日になっても昨日出会った彼の横顔が、頭から少しも離れない。
匂いを思い出して、空気を思い出して、顔を思い出す。
胸が苦しい。
病気かもしれない。
体が熱いし。
熱は36度だったけど。
校門をくぐると、早速女子らが絡んでくる。昨日は連絡くれてありがとうとか、今日も一緒に帰ろうとか、これよかったら読んでとか、自己紹介とか……。
一人ひとりに笑顔で応えていく。
女子らは頬を染めて嬉しそうにする。笑ってる。好意を寄せられることは、別に嫌だとは思わない。でも俺の見た目がそうさせているだけだと思うと、心に穴が空いたような気持ちになる。
誰も俺を見てない。
顔しか、見てない。
それでもちやほやしてくれるだけ、贅沢な悩み、なのだろうか。
急激に体が冷めていく。
これくらいクールなマインドだと、ちゃんと王子様になれるのにな。
教室へ入って席に着き、絡んでくる女子に王子様的対応をする。合間に空の隣の席を見やった。
ノグチアヤは今日も来ないのかな。
そう思っていた時だった。
がらがら、と大きくて下品な音を立てて教室の扉が開く。
現れた人物に目を見開いた。
……彼が、自分と同じ制服を着て立っている。
俺は飛び跳ねるようにして椅子から立ち上がった。
激しい物音に、クラス中が一斉に俺の方を向く。
それに引き摺られて彼が俺の方へ顔を向ける。
目が合ったら、体がぶわ、と熱くなる。
……なんで?
彼は俺の顔を認めると、あどけない笑顔を向けるんだった。
「あ、キョースケクン、同じクラスだったんだ、ヨロシク」
同じクラス?
でも昨日彼を見た覚えはない。背が高いからすごく目立つ。クラスにいたら忘れるはずがない。
彼がこちらに近付いてくる。
昨日はいなくて今日はいるクラスメイトは一人しかいない。
……俺の、隣の。
「……ノグチ……アヤ……?」
クラス中が、雪が積もった朝みたいに静まり返っていた。
彼はあからさまに嫌そうな顔をして俺を見下ろす。
「アヤじゃない。イロ」
イロ。
……ノグチ、イロ。
「名前くらい正しく言えよ、ゲームがヘタクソなキョースケクン」
「は? っ、うるせえ……!」
噛み殺したように言う俺を差し置いて、彩は席について俺の鞄を見やる。
「え、これまだ付けてんの? だっさ!」
彩はマスコットを指差してげらげら笑った。
「可愛いだろうが!」
ちょっと苦いグレープフルーツの匂いがする。
昨日数センチの距離まで近付いてきた匂い。
「……白都くん、なんか……変だよ?」
その声ではっと我に返った。
近くにいる女子が不安そうに自分のことを見上げている。
努めて笑顔で女子らに笑いかけた。
「ごめんね、気が動転してたみたいだ」
「なにそのキャラ、笑える!」
彩がすかさず横槍を入れてくる。
「黙れ」
「白都くん……野口くんと知り合いなの……?」
クラス中がどよめいている。
彩の前だと、いつもみたいに繕えない。
ここじゃ駄目だ。
「ちょっと来てくれる……?」
彩に耳打ちして教室を出た。
目に入った空き教室に彩を連れ込む。
扉を閉めて、二人きりになった。
え? 二人きり……?
酩酊しそうになる思考を吹き飛ばすように咳払いをした。
彩は頬を掻きながら、不思議そうな顔をして首を傾げている。
「なんで昨日学校サボったんだよ、学校で会ってたら絶対対応変わってたし!」
あれほど不意を突かれることもなかったはず。
むしゃくしゃする。
「サボったわけじゃない、他に用事があったんだよ」
「入学式より大事な用事ってなんだよ」
「……妹の入学式だよ。小学校。親父、仕事休めねえって言うから」
そんな献身的なことある?
この見目で?
妹思いの……良いやつかよ……!
また不意を突かれた気がする。
胸が苦しい。顔熱い。
「とりあえず俺に絡むのやめてくれる?」
「言うほど絡んでないけど。自意識過剰すぎない?」
「絡んでるだろ! 昨日も今日も!」
「昨日のはたまたま夕飯の買い出しで歩いてたら見かけただけで……純粋にヘタクソって思ったからってのもあるけど……」
「はっきり言え」
「あそこ治安悪いし、キョースケクン、狙われてたの気づかなかった? 四人くらいに。あのままだったらカツアゲされて……」
からかわれただけかと思ったけど。
助けてくれたってこと……?
なに、なにそれ。
なにそれどういうこと?
「その後襲われてたかもな、この顔だし」
彩から顔のことを言われた瞬間、体がさぁっと冷たくなった。
自分でもはっきり分かった。
喉の奥がキリキリする。
「……また顔かよ……」
急に悲しい気持ちになる。
胸が張り裂けそうだった。
……俺、こんなに情緒不安定だったかな。
疲れる。
服の胸辺りを、ギュッと握り込んで俯いた。
苦しい。痛い。
なんかもう嫌。
王子様やめたい。
みんな嫌い。ばか。
彩が俺と目を合わせるように顔を覗き込んでくる。
「不細工でも、俺はお前に絡んでたよ」
酷く優しい声だった。
小さな子どもに言うみたいな。
自分で上げる前に、彩に顎を持ち上げられた。
ふわ、という浮遊感と一緒に、彩の顔が視界いっぱいに広がる。
艶やか。
春の空と、桜の花びらが……窓の向こうで綺麗。
「だいたい顔、見えなかったし」
彩は困ったような顔をして笑っている。
「なんか……後ろ姿が、笑えたから」
目がぎゅう、と痛くなる。
呆れたような顔をする彩から視線を外せない。
気を抜いたら、涙が目縁に溜まりそうだった。
「気になって放っておけなかった」
頭をくしゃくしゃに、撫でられた。
俺だって気にしてたけど?
隣の席のお前のこと。女だと思ってたけど。名前間違ってたけど。
……こんな気持ち、初めてだよ。
「お前と喋るとペース乱れるし……! 全然、王子様になれねーし……! こんなの全然キャラじゃない! なんか、っ……なんかむしゃくしゃする……っ!」
「俺はこっちのお前が好きだけどな」
好き。
胸の深いところまで突き刺さってくる。
体の全部が、心臓になったみたい。
「だからやめない。残念でしたね、怒りん坊のキョースケクン」
「言い方がっ……腹立つ!」
「……なに、どう呼んでほしいの?」
すぐそばで爽やかな果実の匂いがした。
ちょっと刺激が強い。
苦くてほんのり甘いグレープフルーツの香り。
「恭祐」
吐息が耳元で悪戯してる。
「っ、あはは! 変な顔!」
なんにも言い返せなかった。
じゃあな、と彩は言った。
昨日みたいに俺を置いて、手を金魚みたいにひらひらさせて去っていく。
壁に寄りかかってへたり込んだ。
酸素が足りない体に空気をいっぱい送り込むように、深呼吸した。
胸が苦しくて。まだバクバク言ってる。
顔が熱くて。多分真っ赤。
体がうだる。腰に力が入らない。
世界が。
さっきまでと比べ物にならないくらい。
鮮やかだった。
終
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