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第1話
教室の窓際。一番奥の席は、決まってあいつの席。
「みんな静かにしろ―」
担任の野太い声が教室中に響く。その声を聞いて、しょうがないという風に席替えした新しい席へ座っていった。
夏の匂いが、解放された窓から入る。宮本海人は後ろを振り向いて、化学の課題プリントを配った。
一番後ろのクラスメイトは邪魔くさい黒髪を揺らして、プリントを受け取った。
*
「お前も憂鬱だな」
フォームアップが終わり、体育館の隅に座ってスポーツドリンクを飲んでいる最中、同じバスケ部員でありクラスメイトの霧島佑真が海人に話しかけた。
「あ?何が」
なんのことか分からず、海人は佑真に尋ねた。
「『幽霊くん』の前の席じゃねーか。俺なら気分がガン萎えだな」
『幽霊くん』というのは、俺の後ろの席に座っている『露無樹』のことだろうか。海人はユニフォームの裾を強引に引っ張り、額から流れ落ちるうざったい汗を拭った。体育館の出入口でコソコソと聞こえる黄色い声。あらー、とニマニマして佑真は海人を見る。海人はげんなりして『幽霊くん』の話へ無理矢理戻した。
「別に。話す機会も無いし、プリント配るしか接点ないから」
「まぁ誰だってそのくらいだろ。誰かと仲良く話している所なんて見たことないし。というか、友達すらいないんじゃないか」
それはさすがに言い過ぎだろうと思ったが、確かに誰かと話している姿は見たことがなかった。
いつも隅の席に座り、静かに小説本を読んでいる。それだけしか海人の記憶には存在しなかった。
読み辛そうな長い前髪で視線が見えないし、放課後になるといつのまにか奥の席は空白になる。幽霊みたいに実態が掴めない。それでついたあだ名が『幽霊くん』だと佑真は言った。
「まぁ、友達を作るか作らないかは露無の自由だろ」
「なにー?みんなのアイドル海人君は独りぼっちの露無くんが気になるわけ?」
「何でそうなる」
「いんや。随分と優しい言葉を使うのね」
優しい、ね。
海人はスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「独りぼっちには、独りぼっちなりの理由があるんだろ」
*
忘れ物をしたから、と言って海人は佑真と別れ、部活終わりのユニフォーム姿で一人教室へ向かった。
明日の化学の時間に提出する課題プリントを引き出しの中へ置き忘れてしまった。今日の授業内容を復習する程度の問題で、5分か10分あれば解き終えることが出来る。朝早くから登校して課題を解いてもいいが、課題をこなすためだけに早起きするのは馬鹿らしい。登校するまでの朝の時間くらいは、自分の自由でいたい。駆け足でいけばいつも乗っているバスの時間帯には間に合うだろう。
ガララ、と教室の扉を開けた。
「あ」
夕暮れの光が教室を満たす中、一人席に座っている生徒がいた。
―――露無樹。
相変わらず自分の席で小説を読んでいた。まるでリプレイ映像を見ているかのように寸分変わらない姿のまま、静かにそこに座っている。
海人は暫くその場に立ち尽くしていたが、自分の目的を思い出して自分の席に向かった。
電気の点いていない教室は少し暗いが、窓から差し込む夕暮れの光で十分明るかった。昼間の和気あいあいとした空気とは一変して熱気を孕んだ静かな教室は、自分の知らない世界のようで緊張した。
海人は無関心を装って、樹の隣を横切った。
ちらり、と海人は樹の様子を横目で確認する。樹は何も反応を示さなかった。むしろ、そもそも海人の存在を認知していないかのようにすました(実際は表情すらみえないのだが)態度に見えた。
何故か無性に、カチンときた。
「それ、なに読んでんの」
ただ化学のプリントを取って帰るつもりが、衝動的に声をかけてしまった。悠長に話をしている時間なんてないのに。早くしないとバスが行ってしまう。
露無は特に返答せず、整然とした姿勢でページをめくった。
「無視か?教えてくれたっていいだろ」
海人は乱暴に自分の席にまたがり、背凭れに両肘をついて腕を組んだ。小説から目を離さない露無を海人はじっと見つめた。
すると、さらさらとした前髪が急にこうべを上げた。さっきまで微動だにしなかった樹の反応に海人はビク、と体を強張らせた。「な、なに」
慌てる海人の前で、樹はおもむろにいつも閉じている口を大きく開けた。小さな蕾から現れたのは、テラテラと夕暮れの光に照らされて赤く染まる艶めかしい舌と、その先にちょこんと乗った黄透明の小さな玉。
「………あー、飴?」
海人が答えると、樹は満足したように舌を口内へしまい込んだ。モゴモゴと柔らかい頬を動かし、ボリボリと飴を嚙み始めた。
「怒ってると思った?」
鈴が鳴るような凛とした声色を聞いて、喉の奥がキュ、と閉まった。初めての経験に触れるかのように、海人の心臓はドクドクと早まった。
「いや……んー。意外過ぎて驚いてる」
どう答えればいいのだろうか。自分の感じたことを率直に答える海人に、樹は可笑しそうに薄く微笑んだ。
笑うのか、こいつ。いや、そりゃ笑うだろうけど。
「意外は君の方じゃない?」
「なんで」
「僕のこと、苦手かと思ってた」
僕。僕か。
「……もしかして、いつも無口なのは飴なめてるから?」
「先生には内緒だよ。まだ連続記録更新中だからね」
「はぁ」
随分とガキっぽいこと。
「何味?」
「レモンキャンディー」
「いいね。一つくれよ」
「なんで?」
「腹減ってんだよ。誰かさんとお話してすっかり寄り道する時間もなくなっちまったから」
海人はあー、と喉を鳴らして口を開ける。
樹は怪訝そうに海人を見つめ、仕方なくスクールバックに手を伸ばした。新品同様に傷一つないバッグの中から、黄色いフイルムが巻かれたブリキ缶を取り出した。揺らすたびに、カラカラと缶の中で飴が転がる音がする。細い指先で器用に蓋を開け、薄黄色の玉を手のひらに出した。
「おー、映画っぽいの出てきた」
海人は待ち遠しく舌を出して樹を見上げた。樹はフ、と笑って取り出した飴を自分の口の中へ放り込んだ。
「あ、」
俺の飴、と言い終わる前に、海人は胸倉を掴まれて樹の方へ引き寄せられた。
ガ、と歯と歯がぶつかる音がした。樹は鬱陶しそうに角度を変えて海人の口を徐々に侵食していった。厚い舌が海人の閉じられた門を執拗に舐めてノックする。
「ふっ……んぅ……」
眼前には、前髪で隠れていた黒い瞳が海人を見つめていた。一人読書にふける幽霊の姿は失せ、ただ目の前の男を離さないケダモノの姿へ変貌していた。海人は熱に煽られ、顎の力が緩んでいく。それを見逃さず、樹は海人の頭を抱えて解かれた口内へ熱い舌を滑りこませた。
「は、あ……っ!」
コロン、と異物が樹の舌を通じて侵入してきた。固くて、丸っこくて、甘酸っぱいモノそれがレモンキャンディーだと気付くまで、さして時間はかからなかった。
ジュ、と緩んだ口元から零れ落ちる唾液を吸い、唇を離した。ようやく解放され、海人はへたりと椅子に座り込んだ。
樹は唾液で濡れた口を拭い、唖然とする海人に向かって不敵に笑った。
「間に合うといいね、帰りのバス」
眠たげな黒い瞳が海人を見る。しかしすぐ前髪で隠れ、樹は何事も無かったかのように颯爽と教室を出て行った。
海人は床に崩れ落ち、呆然と橙の天井を眺めた。
柔らかな唇の感触と生暖かい息。意外と力強い腕の感触に、確かに俺と同じ男なんだと思う度、残された熱が疼く。
コロ、と口の中でレモンキャンディーが転がった。俺の口をこじ開けて侵入した甘酸っぱい爆弾。舐める度に、あの一瞬が目まぐるしく反芻する。
「………あま」
ドキドキする。興味を刺激する好奇心の拍動ではなく、じんわりして穏やかな鼓動。いっぱいにあふれて、ほわほわする。
あいつはこの爆弾を仕掛けて、してやったと思っているのだろうか。そう思うとむしゃくしゃするような、そうであってほしいような、複雑に絡む淡い想いが止められず、俺は顔を抱えた。
明日から、どんな顔であいつの前に座ればいいんだろう。
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