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第1話
あの人と会ったのは、祖父の葬式だった。僕は小学四年生だった。
まだ六十を少し過ぎた頃だった祖父の葬儀は賑やかだった。客も多ければ、悲しみも深い。式が始まる前からあちこちで響く大人たちの泣き声が、僕をいたたまれなくした。遠方なので物心ついたあとには数えるほどしか顔を合わせたことがなく、そうした際もいつもむっつりと厳めしい顔で、いさめるような言葉を一言二言かけて書斎にこもっていた祖父の死を、僕はうまく嘆くことができなかった。一度も立ち入ることが許されなかった書斎は、死をまだうまく認識できない僕には、棺と同じほど遠かった。遠い人が、別の遠い場所に移っただけのことだ。
忙しく立ち働く大人たちをよそに僕は葬儀場の駐車場の木陰に座って母に与えられた大きな飴を舐め、ゲームをしていた。余計なことをして煩わせるぐらいならそちらのほうが大人にも都合がよかったのだろう。八月の晴れの日だったが、祖父の田舎は風が通り、木陰は日差しを忘れるほどの涼しさだった。ふとしたときに顔を上げると入り口で黒い服を着た大人たちが集まっているのが見え、慣れない光景は僕を重苦しい気分にさせた。大きな飴玉は甘ったるく、口のなかで落ち着きどころがなく、息苦しい。
「こんにちは」
僕に声をかけてきたのは、その人だけだった。僕はぽかんと口を開け、そこから飴玉がころがり落ちた。
「おや」
その人は転がり落ちた飴に目を留め、悲しそうな顔をした。かがみこむと、喪服のポケットから取り出した白いハンカチに、飴を包んだ。そんなことをする大人は初めて見た。
「驚かせてしまいましたね」
丁寧にハンカチで砂まみれの飴を包むと、ポケットにしまい込んだ。日差しの中で、ハンカチと、その人の皺の寄った指が目に痛いほど白かった。
「おじさん、誰」
「おじさん、というより、おじいさんではないですかね」
と笑うと、その人は僕の隣に座った。ほとんど白髪の頭は上品に整えられている。古めかしい形の分厚いレンズの眼鏡に、古めかしい喪服。祖父と同じほどの年代で、確かにおじいさんと言えなくはないが、おじいさん、と呼ぶと、遠い存在のようで、なにか嫌だった。
「あなたのおじいさんの、古い知り合いです」
「古いって、どのぐらい」
その人は困ったように笑った。
「二人とも、あなたぐらいの年でしたね」
僕は黙ってじっとその人を見た。
「おじいさんたちも、子どもだった頃があるんですよ」
それはまさに僕が驚いていた事実だったので、気まずくて不器用に黙り込んだ。目の前のこの人と、祖父に僕のような時代があったというのは、自分が昔一つの細胞だったというような、頭の中では理解できても心情的には理解しがたい事実だった。
そろそろ式が始まる時間だったのだろう。母が僕を呼んだ。行きましょうか、とその人に言われて、僕は母のもとに向かった。
式は退屈そのものだった。僕はパイプ椅子に座り、どうでもいい思い出話やお経を聞いていた。普段泣かない母が頼りなく肩を落としてすすり泣いていたたまれず、親族席の向こうでは祖父と同年代の老人たちが泣いていて、僕の目には異様に映った。祖父の学生時代からの友人たちだと叔母に聞いた。
あの人たちにも幼い頃があったのか。
それまで僕の頭のどこにも存在しなかったその想像は、思いやりというよりも暗い場所に幽霊を見るのに似ていた。僕は意識をそこから逸らすために、僕にそのことを教えた人を探した。老人たちの中に紛れるように、あの人は立っていた。よく目を凝らさないと輪郭があいまいになってしまうような朧げな姿。ふと目を逸らしたらもう見つけることができない気がして、仕方なく僕はずっとその人を見ていた。沈痛な様子の老人たちに囲まれて、その人は困ったようにただ立っていた。
ハンカチが。
ふと思った。僕の口から落ちた飴を、あの人は白いハンカチに包んだ。
ハンカチがないから、泣けないのかもしれない。
僕の黒いズボンのポケットには母に持たされた新品のハンカチが入っていた。あの人のところにハンカチを届けてあげたい。
そう思っても、僕とその人の距離は遠く、僕はただ座っていることしかできなかった。
また会いましたね、と、言ったのはその人の方だった。僕は特急列車の自由席に座って、家に着くまでに充電が持つかなと心配しながらゲームをしていた。顔を上げると、知らないおじいさんが立っていた。白いポロシャツに色褪せたジーンズ。困って黙っていると、おじいさんも困ったように笑った。その笑い方を見て、ああ、と思った。それは前日の葬儀場で見たあの人だった。
「こんにちは」
「はい。こんにちは」
ほっとしたようにその人も笑い、四人掛けのボックス席の向こう側に腰かけた。
「お父さんとお母さんは?」
僕は首を振り、説明をした。父と母は葬儀の後も祖母の手伝いでしばらく残り、学校のキャンプのある僕だけが先に帰ることになったのだった。
「一人で? たいしたものですね」
本当のことを言えば、一人で家に帰るのも、一人で用意をしてキャンプに出掛けるのも心細かったのだけれど、そう言われてしまえば平気な顔をするほかない。僕はものの通りのわからない子供だったけれど、どう振舞えば大人びて見えるのかは理解していた。
「仕方がないよね」
そういうことには慣れているのだ、という顔をした。
「偉いですねえ」
今にして思うと、単に僕の強がりに乗ってくれただけなのかもしれない。彼は強がる僕の一時的な保護者のつもりなのか、その席に落ち着いた。その列車は同じ駅で降りる予定だった。僕はゲームをしまった。スイミングと公文をやっていることや、学校ではクラス委員をしていることを話した。図工の宿題で、大きなクジラの絵を描いたこと。僕の他愛ない話を、その人はなるほど、と聞いていた。
「おじさんは?」
「僕は……大学の先生をしています」
「おじいちゃんと同じだね」
その人は眼鏡の奥の目を、そっと細めた。
「同じではないですよ」
それは謙遜というにはこちらの解釈を拒むような声色だった。身を竦ませる僕に、失態をごまかすようにその人は笑った。
「あの人は、昔から、僕よりずっとずっと優秀でした」
あの人。そう言ったときのあの人の声。唇の動き。眼差し。そんなふうにしか語れない感情があり、そして、僕にはその感情の名前がまだわからなかった。
僕は不器用に黙り込み、あの人も何も言わなかった。僕はポケットを探った。
「はい」
「はい?」
手渡したのはハンカチだった。薄い水色のチェック柄。それを受け取って、あの人はただ、困った顔をした。
「泣くなら、ハンカチが必要かなって」
僕の顔をじっと見て笑うと、くしゃくしゃのハンカチをジーンズの膝に広げて、丁寧に皺を伸ばしながら畳んでくれた。
「それなら、必要なのは君のほうでしょう」
僕の手に、きちんと畳んだハンカチを返す。
「僕はもう、あの人とはずっとずっと会ってませんでしたから」
僕はハンカチを受け取って、でもポケットには戻せないでいた。
「そんなこと関係ないと思う」
自分の言ったことを確かめるように、繰り返した。
「時間と、気持ちって、関係ないと思う」
その人の目元が、小さく歪んだ。泣くかな、と思ったけれど、泣きはしなかった。泣きそうな目のまま、微笑んだ。
「あなたの言う通りですね」
そのまま二人で黙っていた。僕は祖父のことを思い出そうとしたが、うまくいかなかった。お年玉の袋に流麗な字で孫たちの名前を書く祖父。小学校に入学したときに重たい百科事典と辞書を送ってくれた。なんの感情も喚起しない。それでもずっとずっと昔、この人と祖父の間には何か、僕の手には触れられないものがあったのだと思うと、もどかしくて、暴れ出したくなった。
僕たちは僕が祖母に持たされた大きな飴玉を分け合って舐めたほかは、お互い自分の考えに沈んでいた。特急は、あっという間に僕たちを日常に連れ戻す。僕はリュックを背負い、あの人は革の大きめの鞄を肩にかけ、駅に降りる。
「あなたはこちらですね」
「うん」
小さくなった飴玉を舌の裏にひそませて、僕は頷く。あの人はとっくに飴玉を噛み砕いてしまっていた。僕が電車に乗るのを見送ってくれるつもりのようだった。ホームに並んでいる。見慣れたホームに見慣れた電車がもうすぐ来てしまう。
「また会える?」
あの人は黙って首を傾げた。僕は続けた。
「また会いたい」
これだけでは弱いと思って、僕はさらに続けた。
「おじいちゃんの話、してあげるから」
あの人は笑ってしゃがむと、鞄から何かを取り出した。白い簡素な名刺だった。大学の研究室の連絡先が書いてあった。
「出られないかもしれませんが、電話してください」
「うん!」
子供っぽいはしゃいだ返事が恥ずかしかったけれど、あの人も笑っていたので、いいかと思った。
手を振って乗り込んだ電車は空いていて、僕は飴玉を噛み砕き、名刺を見つめた。
気持ちは時間を超える。
今度はそれを、僕が証明する番なんだと思った。
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