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第1話

 教科書を机に詰めようとして、こんっ、と硬い物に当たる。  金のリボンが掛かった四角い箱。さらりとした質感の包装紙は中に入っている物と同じ焦茶色だ。  俺の机に入っていたって事は宛先も同じ。日付と中身から考えられる要件は一つだけ。差出人の名前は、ない。  誰からの物か分からない食品なんて気分の良い物じゃない。消費期限内の既製品であっても、自分はそっと捨ててしまうタイプだ。  でも今日は、今日貰う物だけは、出来るだけ食べてあげたい。  俺には、その子の気持ちがよく分かるから。  人見知りが激しかった保育園の頃、唯一の友達だったしょーくんが休みだと知り、玄関前でもたついていた俺に「せーので入ろう!」と手を引いてくれたのが、 遊馬海斐( あすま かい)だった。  それ以来、海斐は俺の中で密かなヒーローになった。 室内遊びの方が好きだった俺が海斐と遊ぶ事は少なかったけれど、太陽に透ける柔らかな茶色の髪が風にはためく様子を眺めるのも、他の子に混じって彼とブロック遊びが出来る雨の日も好きだった。  そんな彼をショッピングモール内のペットショップで見かけたのは、バレンタインデーの前日だった。  ガラス張りの中に居る小さくて凛々しい顔をした犬を指差して、 「このこ、きょーからおれのおとーとになるんだぁ」 と言って、くしゃっと思い切り笑った顔は今と変わらない。  その眩しさにふわふわとした心地のまま「またね」を告げた後、イベント事が好きな母が、さぁ充、選んで! と連れて行ってくれた特設コーナーには、いつものお菓子売り場で見る物よりもキラキラとして見えるチョコレート達が並んでいた。  ハート型に、キャンディの形、可愛い桃色の箱や、リボンの付いたきれいな箱。  特別な日のお菓子が溢れる中で俺は、さっき見たばかりの水玉模様の犬の形をしたチョコレートと、ばっちり目が合った。  ──海斐くんにあげたい!!  これ! と即座に指差し、自分の物のふりをしていくつか他の形も買ってもらい、自室でこっそり小分け袋に詰め替え、お菓子の持ち込み禁止という園の規則も忘れて、でも何となく母には秘密にして登園鞄の奥に入れた当時の行動力は、衝動としか言いようがない。  帰りの時間まで自分の鞄に隠し、隙を見て海斐の鞄に移して『お家に帰ったら見てね』と内緒で打ち明ける作戦を立て、喜んでくれるかなぁ、びっくりするかなぁ、なんて呑気にワクワクしながらその日は眠りについた。 なのに、翌日は時間が経つにつれて変にドキドキして来て、苦しくて。  お昼寝の時間に薄暗い天井を見ていたら、もし渡す前に海斐くんが帰っちゃったらどうしよう、なんて不安が急に浮かんで一人で泣きそうになるくらいだった。 帰りの時間になり、忙しく動き回る先生達の目が離れたタイミングで鞄からチョコレートを取り出した時には、俺の緊張はピークに達していた。顔も体も物凄く熱かった事を今でも覚えている。  こんな手で持ったらチョコが溶けちゃう!   おっかなびっくりラッピングの上の部分を摘んで、急いで彼の鞄の隙間へぎゅっと押し込む。恐る恐る振り返った先に、自分を咎める視線がない事を確かめると、緊張から解放された口がほうっと息を吐いた。  そして、出て行くはずだった体中に広がる熱が、じわぁっ、と胸に集まった時、それが恋だった事を自覚した。 「あ、みっちーじゃん。一緒に帰ろぉ」 「ん」  やったらデカくなった件の思い人との今の関係は、見ての通り、ただの友達だ。 園の中で一人だけ学区の違った海斐とは、卒園と同時に会う機会がなくなり、誰にも打ち明けられない俺の感情は、そのまま行き場を失った。  顔ははっきりと覚えていたけれど、中ニの秋までの八年ちょっとで声は随分と曖昧になり、潮が引いて行くように、彼への想いも記憶もこのまま段々と遠のいて行くんだろうと、切なさの中にも安堵感すら覚えていた俺は油断していたんだろう。  マンガの話の流れから珍しい苗字の話をしていた友達の口から放たれた「遊ぶ馬で“あすま”って読む友達が居てさー」という一言は、大波宜しく、ざっぱーん! と秒で俺を掻っ攫った。  へぇ珍しいなと躱していれば、えっ知ってんの? 来週遊ぶんだけど来る? という誘いに頷かなければ、連絡先の交換をしなければ、それとなく志望校を聞いて同じ所に願書出して受かりさえしなければ、異性を好きになれない事に悩みはしても、面影を残しつつ格好良く成長した彼の隣に“友達”としてしか立てない事に胃を痛める事はなかっただろう。  それなのに、やった一緒に帰れる! って思ってるんだから救いようがない。  いつかは忘れられると思っていた感情は、今日も俺を溺れさせようと足元の砂浜をじわじわ削る。 「みっちー結構貰ってんじゃん」  夕陽に照らされてキャラメルソースみたいな色になった髪をさらりと揺らし、海斐が俺の自転車の前カゴに入った紙袋を覗き込む。 「義理だろ。うち、女子部員多いから」 「絶対それだけじゃないっしょー」 「だとしても、お前程じゃねぇよ」  目線で差した隣のエコバッグは、いくつも浮いた凹凸のせいでシュールなキャラクターのプリントがえらい事になってる。歩く度にがさごそと音を立てるそれらは、大半が本命のはずだ。例え、義理だと言われていても。 「まぁ俺、次期エースだしねぇ」 「嬉しそうだな」 「直接告白っぽい事してくれんのって、あんまないじゃん? SNSよりさぁ、こう、どーん! って大胆に来てくれた方が嬉しいんだよねぇ俺」  じゃあ俺が告白したら考えてくれんの? なんて事は勿論言えない。どう希望的に見積もっても、ただの友達ですら居られなくなる事くらい、ちゃんと分かっている。 「で、そん中に気になる人居んの?」  分かっているから、時々、身の程を思い出す為に冷水をぶっかける。 「んー、それがねぇ、一個困った事があって」 「なんだよ」 「……実は俺ね、ずっと会いたいなぁって思ってる子が居るんだ」  秘密だよ。  そう言って振り返った彼の少し恥ずかしそうな、けれど何処となく自慢気なきらきらとした笑顔のなんと美しく残酷な事か。  嫌だ。聞きたくない。 始まる訳もないなんて分かりきっている。それでも、終わりが決まってしまう事がこんなにも恐ろしいのに、何も知らない彼は、大好きな柔らかい声で続けた。 「俺ってほら、割とかっこいいじゃん? 告白されて、『いいよ』って言おうと思った事もあったんだけど、でもやっぱり、あの子と比べるとなぁって思っちゃって」  それでおっけーするのも失礼じゃん? と海斐は前を向いたまま言う。まだ誰とも付き合った事がないのが嬉しい反面、そんなにも心を捉えて話さない人が居る事はかなりショックだった。 「でね、みっちー。そんな素敵に豪快な子、知らない?」 「……は?」  何でここで俺に話振るんだよ。急に片思いの子の話なんかされてこっちは感情ぐちゃぐちゃだって言うのに、目の前のほわほわした男はくしゃりと恥ずかしそうに笑った。 「自分でも諦め悪いなキモいなぁって思うんだけど、告白された分だけね、『一回あの子に会ってから考えたいなぁ』ってなっちゃって。でも、俺だけ小学校違ったじゃん? みっちーなら心当たりあるかなぁって」 「いや、だから何でオレに聞くんだよ」 「俺らの園の子だからに決まってんじゃん」  ガンッ、とでかい岩がぶち当たった。  嘘だ嘘だ嘘だ。あの頃にそんな相手が居たなんて。俺が未練たらたらでいる間に、そんな純粋な気持ちで海斐に思われていた子が居たなんて。 「けど、名前も顔も分かんないから探すに探せなくて。俺、男の子と遊んでばっかだったから、女の子達がどういう子か知らないんだよねぇ。誰が居たかも殆ど覚えてないし」 「なのに何で、うちの園だって分かるんだよ?」  あまりのショックで茫然とした頭が聞きたくもない疑問を口から出させる。すると海斐は、えへへ、と照れと浮かれが混ざった顔をした。 「年長ん時に、こっそり鞄にチョコ入れてくれたんだよ。バレンタインの日に!」  可愛いらしくラッピングされたハート型が、質素な袋詰めをぐしゃりと潰した。  世の中には同じ事を考えてる奴が三人は居るって言うけど、まさか、こんな形で遭遇するなんて。いや、海斐は当時も女子人気が高かった気がする。俺と同じように、ひっそり憧れていた子が居ても不思議じゃない。  学芸会で一番お姫様の格好が似合っていたあの子だろうか、それとも控えめに見えて面倒見の良かったあの子だろうか。  見るからに女の子からと分かるような、そして今でも海斐の心を捉えて離さない贈り物をした少女の顔を思い浮かべては、悲しみに混じって嫉妬の刃を向けてしまう自分の醜さに吐き気が込み上げる。 「凄いよね、こんな袋一杯貰っても、あのちっちゃい詰め合わせのドキドキに敵わないんだから。……でも、本当に嬉しかったんだぁ、マイクのチョコ」 「マイク……?」 「ほら、家で飼ってるじゃん。見てマイクだよーって自慢してたら、犬さんには毒だからダメだよ、って父さんに言われてねぇ」  巨大なハート型の下で潰れた袋がもそもそと動く。僅かな隙間からキラリと光る物が覗き、白と黒の模様を微かに浮かび上がらせた。 「貰ったのって、その一袋だけ? 他は?」 「ないよぉ。だから特別なんだって」 「……マイク二匹と金貨一枚とバスケのボール……一個?」 「何で知ってんの!?!?」  ぐっとハート型を押し退け、瓦礫の山からの脱出劇よろしく、二匹のダルメシアンが元気一杯に駆け出した。 「え、もしかしてみっちーも貰った!? って事は二股、いや義理? 義理だったのあれ!?」 「義理じゃねぇよ!!」 「分かんないじゃん!?」 「分かるに決まってんだろ俺があげたんだから!」 「…………え?」  ふわふわと惚気ていた海斐の表情がぴたりと固まる。やってしまった。浮かれたとか慌てたとか情報量多すぎとか色々あったけど、完全にやらかした。 「あれ、みっちーだったのぉ……」  しかし、まじかぁ……と分かりやすくがっかりする姿を見ていたら、何か逆にムカついて来た。こっちだって、騙したくて騙したんじゃない。言えるならとっくに言ってた。 「悪かったな。大胆だけど可愛い女の子じゃなくて」 「大胆さはむしろ増したかなって感じだけどさぁ……」 「どーせ他人の鞄に名無しで食い物突っ込むガサツだよ」 「バッカ! お菓子とかおもちゃ持って来ちゃった時のりっちゃん先生超怖ぇーんだぞ! なのに、俺の為にチョコ持って来てくれてさ、しかも俺の事全部知ってるみたい好きなのばっか入れてくれて。けど『名乗らないぜ、探してみな』っつー格好良さ! 惚れるだろ!」  惚れ……てるのか、それは。恋愛感情っていうより憧れだろ。そういや、海斐は戦隊ヒーローだとブラックが好きなタイプだった。 「ん〜……みっちーかぁ……」  遠慮なく上から下まで眺める視線が、逃避しかけた俺の頭を現実に戻す。やめろよ、と俯いたものの、更に海斐が近付いた気配を感じて嫌でも顔が熱くなった。  カミングアウトした直後でそんな風に見る奴が居るか馬鹿。勘違いするぞ馬鹿。  どんどん下がる視界の隅で、さらりとキャラメル色が揺れる。 「ナシ寄りの……アリ?」 「…………どっちだよ」 「えー、分かんないよ。分かんないからさぁ、チョコちょうだい?」 「は?」 「今のみっちーだったら何くれんのか気になるじゃん!」  くしゃりと崩した顔からは、友人に向ける気軽さしか感じられない。それでも、ほんのりと期待が舞う中で見る忘れられなかった笑顔は、躊躇いを吹っ飛ばすには十分な破壊力を持っていた。 ****  後日、甘いモンばっか食ってんじゃねーよ、と可愛げのない台詞と共に押し付けたコーヒーは、俺飲めねぇし……と一度は文句を言われたものの、最終的には「牛乳いっぱい入れてチョコと一緒に飲んだら凄ぇ良い感じだったぁ!」と好評だった。 「最後にコーヒー飲むさ、チョコが消えてコーヒーのが強くなるのに、甘ーい味になってふわーって広がんのね」 「良い食レポすんじゃん」  照れよりも先にコーヒー好きとしての嬉しさが来て、言った通りだろ? とドヤ顔を隣に返す。けれど、さすがみっちー! と言って笑うかと思っていた顔は何故か、すっと耳元に寄せられた。 「やっぱり、みっちーって大胆だね」  照れに漂う少年らしさは昔を思い出させて、けれど囁いた声の低さと熱は青年になった今の彼のもので。  いつか引き返せると思っていた恋に、どぷんっ、と沈んだ音がした。

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